『青山経済論集』 |
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経済政策史のケース・スタディ ドッジ・ライン− |
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三和良一 |
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1 はじめに 2 ドッジ・ラインの課題はなんであったか A 大状況「場」に規定された初期条件・課題 B 中状況「場」に規定された初期条件・課題 C 小状況「場」に規定された初期条件・課題 3 ドッジはどのように政策を決定したか A ドッジの履歴 B Arenaの状況 C Off-Arenaの状況 i) ドッジの内面 ii) アメリカ政府・GHQ iii) 日本政府・日本銀行・財界 D 政策の選択 i) 初期の政策選択 a. 財政緊縮 b. 360円固定為替レート ii) C時空変化後の政策選択 4 ドッジ・ラインをどのように評価すべきか A 初期政策の合理性 i) 大状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 ii) 中状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 iii) 小状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 B C時空変化後の政策対応の合理性−朝鮮戦争への対応 5 むすび
1 はじめに 経済政策史のケース・スタディとして、日本の近現代史に登場した代表的な緊縮財政を取り上げて、これまでに、松方財政と井上財政とを検討した[1]。本稿では、3番目の緊縮財政、ドッジ・ラインを対象としよう。4番目の代表例となる可能性があった小泉内閣竹中財政は、積極的景気対策を求める自民党内圧のなかでも生き延びて、総選挙にもさしたるマイナス要因にならずに継続することになったが、実績はと問えば、独自の政策成果を示すには至っていないから、これまでのところ、ドッジ・ラインが最後の代表的緊縮財政となり、この経済政策史のケース・スタディのシリーズは、本稿でひとまず完結することとなる。 ドッジ・ラインは、1949年2月にマッカーサー連合国最高司令官の財政顧問(公使)として来日したジョセフ・ドッジJoseph Morrell Dodgeデトロイト銀行頭取によって推進された緊縮政策である。もちろん日本経済を舞台とした政策展開であるが、これまでの松方・井上両財政とは異なって、登場する主人公ドッジはアメリカ人である。連合国によって占領されるという日本史上初めての異常な時期であったから、日本国の主権は実態的には失しなわれ、連合国、特にアメリカ合衆国が政策決定の権限を持つ状況のもとで、ドッジ・ラインは実施された。 このことは、ドッジ・ラインを経済政策史的分析の対象とする場合に、方法論に関しては、これまでとは異なった観点を導入することを要請する。大枠としては、最初の論文で提起したような方法を用いるが、政策に関わる主体が、日本とアメリカ(連合国)のふたつに分かれるので、各状況「場」に規定された初期条件と課題は、日本とアメリカ(連合国)それぞれについて検討することが必要になる。もっとも、ふたつの政策主体といっても、連合国のなかの社会主義国ソ連は、占領初期には対日政策決定に多少の影響力は持っていたものの、ドッジ・ラインの時期にはほとんど発言力を失っていたから、連合国という政策主体は、本質的には日本と変わらない資本主義体制国である。したがって、大状況「場」と中状況「場」については、ふたつの政策主体の政策課題は、ほぼ一致している。しかし、小状況「場」に関しては、日本の利害状況と連合国の利害状況は、それぞれに複雑な姿を呈しているから、両者の政策課題を別々に検討することが必要である。ここでは、連合国の中で主導権を握っていたアメリカについて、小状況「場」の初期条件・課題・政策評価をおこなうこととする。とはいえ、焦点は、もとより日本経済政策史に合わせることになり、アメリカ経済政策史研究の際に要求されるような密度での政策主体としてのアメリカの分析を行うつもりはないし、その必要もなかろう。 アメリカといっても、ドッジ・ラインをめぐっては、マッカーサーが統括する占領軍とアメリカ本国政府との間には意見の対立があったから、その点もふくめて検討しなければならず、小状況「場」の分析は、いささか複雑になる。そして、小状況「場」では、1950年に朝鮮戦争が起こって、状況「場」は大きく変化する。ドッジ・ラインからすれば、これは、C時空(偶然時空)の変化であり、ドッジはこれへの対応という新しい課題を背負うことになる。松方財政期の壬午事件、井上財政期の満州事変、そして、ドッジ・ライン期の朝鮮戦争と、3大緊縮財政には、軍事事件が付きまとっている。まさに、偶然の一致ではあるが、歴史における必然と偶然という問題を考えるには、恰好の素材である。しかし、紙数の関係で、本稿では、ドッジ・ラインの評価に留めることにしたい。
2 ドッジ・ラインの課題はなんであったか 経済政策史のケース・スタディ・シリーズの第1作「経済政策史のケース・スタディ−松方財政−」で提起した方法・手順に従って、まず、ドッジ・ラインの課題がなんであったかを検討することにしよう。 A 大状況「場」に規定された初期条件・課題 第2次大戦後、東ヨーロッパ諸国、中国、ベトナム、北朝鮮などが社会主義国となって、世界は、大きくふたつの経済圏に分けられた。ソ連一国だけが社会主義であった時代とは異なって、社会主義は、明らかに、資本主義に対抗する新しい経済体制であることが証明された。後には、この20世紀社会主義体制の脆弱さが判明することになるが、この時点においては、やがて社会主義が資本主義に代わる経済体制として世界に拡大するであろうと信じる人々が増えつつあった。大状況「場」は、現在は資本主義から社会主義への過渡期であるとの認識が拡がり、資本主義は、体制的危機に直面する状況であった。 第2次大戦中はファシズム勢力との対抗上、協力関係を結んでいたアメリカとソ連は、戦後ほどなく、冷戦とよばれる対立状態に入った。軍事面では、核兵器とそれを搭載する爆撃機・ミサイル・原子力潜水艦の開発競争が進められたが、経済面でも、経済成長を競い合い、後発地域への経済援助の競争が展開された。社会主義圏の拡張をはかるソ連に対して、アメリカは、自由主義圏=資本主義圏の維持強化を目指した。大状況「場」では、資本主義か社会主義かという歴史的選択の問題が、現実的には、軍事力でも、経済力でも、またイデオロギー面でも、アメリカ対ソ連の対抗関係のかたちで、極めて明確に提起されたのである。 敗戦直後には、活動を公然と再開した日本共産党が勢力を伸ばして、革命間近という雰囲気が醸し出された時期もあったが、アメリカが日本の共産化を許すはずはなく、ドッジ・ラインが実施された1949年には、教育界から、いわゆるレッド・パージが開始され、翌1950年には言論界や民間労働者、さらに公務員へと共産主義者追放が拡がった。日本共産党は、1950年6月の中央委員公職追放を指令したマッカーサー書簡を機に、非公然活動体制に入り、やがて、武装闘争路線を採るにいたる。平和的な社会主義への移行を掲げた日本社会党は、1947年に、民主党・国民協同党と連携して政権を獲得したが、炭鉱国家管理程度の改革にとどまり、本来の社会主義的政策を実施することはできないままに政権の座を降りた。戦後に盛り上がりを見せた革命気運も、結局、一時的なものに終わったわけであるが、戦後しばらくの時期が、日本資本主義の体制的危機の時代であったことは事実である。 このような政治的状況のもとで、戦後の経済政策は、日本経済の復興を、資本主義の枠組みの中で達成することによって、資本主義体制を維持し再強化することを課題としていたのである。アメリカは、占領初期には、日本の非軍事化と、そのための民主化を政策目標として戦後経済改革を推し進めたが、冷戦の時代を迎えると、政策目標を、日本の経済復興に転換した。日本を自由主義=資本主義陣営に繋ぎ止め、アジアにおける共産主義への防波堤とする意図からの政策転換であった[2]。ドッジ・ラインも、当然、このような大状況「場」に規定された課題を担っていた。 B 中状況「場」に規定された初期条件・課題 資本主義の発展段階からすると、現代資本主義あるいは20世紀資本主義[3]が、ドッジ・ラインの中状況「場」である。20世紀資本主義の大きな特徴は、経済過程への政府の介入拡大であるが、その際に、政府は、資本蓄積(=利潤保証)と階級宥和(=所得保証)という二律背反的目標の実現を政策課題としていた。すでに、日本資本主義は、1920年代から、20世紀資本主義への変質を進めており、前稿で検討したように、一見古典的に見える井上財政ですら、20世紀資本主義的な特徴を帯びていた。井上財政に続く高橋財政は、資本蓄積の維持を目標とした景気調整政策を本格的に展開した点で、20世紀資本主義の経済政策のひとつの典型と評価できるが、反面で、階級宥和という目標に関しては、景気回復による雇用拡大=所得保証を目指したにとどまり、積極的な政策展開が見られなかったところに弱点があった。この弱点がもたらした一つの結果が、工業生産の急速な回復の裏での、農業の停滞、農民の困窮の継続であり、それを土壌とした、軍部青年将校による昭和維新運動の暴発であった。2・26事件で、高橋財政が高橋是清の命とともに葬り去られたのは、高橋の政策の弱点がもたらしたものとも言うことができる。 占領期に行われた経済改革、とくに、農地改革と労働改革は、戦前には微弱なレベルでしか取り組まれなかった階級宥和という課題を、一挙に、極めて高い水準で実現することとなった。連合国が経済改革を強制した直接的な目的は、日本の非軍事化を達成することであって、ことさら階級宥和が意図されたわけではない。しかし、国内に堆積する不満が反体制運動に結びつくことを抑えるために、国民の眼をそとに向けさせる政策、国内の階級対立を排外主義的イデオロギー操作で処理しようとする試みが、日本の軍国主義的対外侵略のひとつの動因と考えられていたから、非軍事化を目的とする戦後改革が、階級宥和を結果として実現することは、いわば、当然でもあった。 農地改革は、1926年の自作農創設維持補助規則にはじまる地主小作関係の対立緩和策、階級宥和政策の延長線上に位置づけられる措置である。全農地の約46%を占めていた小作地のうちの77.8%に当たる156.7万町歩を強制的に地主から買い上げて小作農に売却するという大規模な土地改革は、世界の歴史にも類例を見ない政策であった。戦時経済統制のなかで、地主の力は、かなり削減されていたとはいえ、このような土地改革が地主の抵抗もなく実行できたのは、占領軍の権力が存在していたからにほかならない。独立回復後の、土地の強制買収を私的所有権の侵害であるとする違憲訴訟のなかで、たとえ憲法違反であっても農地改革は被占領下に最高司令官の指令によって憲法外の措置として行われたのであるから違憲とは判定できないという裁判官見解がしめされたように、農地改革は、超憲法的措置という性格を帯びていた[4]。連合国の対日政策によって、近代日本が抱え続けてきた地主・小作農の階級対立は、ほぼ、最終的に解消されたのである。 労働改革も、1920年代から提起された労働法制定政策の延長線上にある。労働組合法案は、1931年には貴族院で審議未了とはなったものの衆議院では可決されたという歴史を持っている。戦前の労働組合法制定の目的には、労資関係の対立を法制度の枠内で処理させ、枠を越えるような過激な労働運動を抑制するという狙いも含まれていたが、本質的には、階級宥和の実現を目指すものであった[5]。1945年10月のマッカーサーの5大改革指令を受けて、労働組合法策定作業が開始されたが、農地改革の場合とは異なって、法案作成は、日本側のイニシアティブで進められ、早くも同年12月には労働組合法が公布されるにいたった。明らかに、戦前からの労働立法への努力と経験の蓄積が、このような急速な「国産法」の制定を可能にしたのであり、階級宥和を目的とした労資同権化政策は、敗戦を経ることによって、ようやく本格的な展開の時代を迎えたのであった。 農地改革と労働改革によって、日本資本主義は、20世紀資本主義としての姿を完成させたといって良かろう。とはいえ、ふたつの改革がもたらしたものは、階級宥和を実現させるためのいわば枠組みであって、現実には、労働運動と農民運動の高揚が、前述のような体制的危機の様相を呈するにいたった。もちろん、これは、政治局面の現象であったが、その背景には、生活物資の供給不足、高まるインフレーション、失業者の累積などの戦後の経済局面における問題が存在していた。階級宥和を実現するには、戦後改革で創られた枠組みのなかで、労働者・農民に実質的な所得を保証することが不可欠であり、そのためには、日本経済を成長軌道に乗せる政策展開が必要であった。ドッジ・ラインは、このような中状況「場」からの政策課題にも応えることを要請されていたわけである。 C 小状況「場」に規定された初期条件・課題 ドッジ・ラインが実施された時期の小状況「場」は、日本の経済復興をめぐって、日本政府、占領軍、アメリカ政府が、それぞれの利害状況に応じた政策提示を行う、複雑な状況にあった。 敗戦直後から日本経済再建の努力が開始されたが、生産活動の水準は、石炭・鉄鋼など基礎物資の供給不足のために、極めて低い状態が続いた。他方で、通貨流通量は、政府戦時債務の支払いなどで急膨張したから、激しいインフレーションが発生した。1946年3月の金融緊急措置(新円切替・預金封鎖)は、一時的な効果を示したにとどまり、1947年1月からの傾斜生産方式で石炭・鉄鋼の生産は増加しはじめたが、同時に活動を開始した復興金融金庫の傾斜金融で供給される資金(復金債発行による)は通貨流通量を拡大させたので、インフレーションの進行は止まらなかった。戦時統制を再編成して物価統制は続けられたが、公定価格と実勢(闇)価格の較差は広がり、物資の闇取引が横行して、正常な生産活動の回復を妨げた。また、日本の非軍事化を目的として、財閥解体・経済力集中排除が進められるとともに、機械・設備を賠償として撤去する政策もとられたが、集中排除措置と賠償撤去の及ぶ範囲と規模がなかなか確定されなかったので、企業は、先行きの不透明さのために、生産活動を本格的に再開することができなかった。 占領軍は、「初期の基本的指令」(JCS1380/15、1945年11月)で、日本の経済的復興には何らの責任も負わないとされてはいたが、初期の諸改革の実施が一段落すると、占領の安定的な継続のためにも必要な経済復興に、政策的関心を持たざるを得なくなった。特に、連合国間の調整が難航して政策決定が遅れていた対日賠償問題が、経済復興の大きな障害となっていることに注目して、1946年12月には、本国政府に賠償規模の縮小と早期決定を要望した。冷戦開始を予知していたアメリカ陸軍省は、これに敏感に反応して、対日賠償規模縮減に動いた。賠償問題から、アメリカの対日占領政策の見直しと転換が始まったのである。アメリカは、1947年4月に、極東委員会FECが中間賠償計画として暫定的に決定していた賠償案を最終賠償計画とすることをFECに提案した。後には、さらに賠償規模は縮小されるが、アメリカのこの態度決定で、とりあえず、賠償問題の不透明さは払拭された。財閥解体に続く経済力集中排除政策は、アメリカが世界戦略を冷戦対応型に切り替えるまっただ中で立案が進行し、曲折のすえに、1947年12月に過度経済力集中排除法が制定されたが、その実施規模は、当初計画からするとはるかに縮小されたものとなることが、すでに確定的であった。 不透明であった賠償・集中排除政策がほぼ確定したところで、経済復興への政策選択が本格的に論議されることとなった。経済復興というときには、低下した経済活動、特に生産の水準を戦前レベルに回復させることが最大の目標になるが、同時に、昂進し続けるインフレーションを抑制すること、つまり経済安定も大きな課題であった。この復興と安定は最終的には同時に実現されるべきことではあるが、短期的には二律背反的関係でもあった。つまり、生産復興には資金供給が必要であるから、政府・民間の投融資を拡大しなければならないが、それは通貨流通量を増加させ、有効需要を拡大させることでインフレーション促進的に作用するし、インフレーションを抑制するために財政金融政策を引き締め基調に運営すれば、生産の回復にはブレーキがかかるというわけである。 経済成長と通貨安定とが二律背反的な関係になるのは20世紀資本主義の一般的な特徴といっても良い。景気調整政策は、不況対策としてはインフレーショナリーな政策が取られるし、完全雇用政策が成功すれば賃金上昇がコストプッシュ・インフレーションを招きやすい。インフレーションが急進することを抑えながら、経済成長を促進するという、かなり難しい経済政策の舵取りが必要になるわけである。しかし、日本の戦後経済が直面した復興か安定かという問題は、同じく舵取りは難しいが、20世紀資本主義の成長か安定かという一般問題とは、異なる質の難しさを持っていた。 生産回復に必要な実体的要因を、固定設備、原材料・燃料、労働力に分けてみると、原材料・燃料の供給不足が最大のボトルネックになっていた。固定設備は、戦時期の企業整備で機械類がスクラップ化された繊維業を除くと、老朽化は激しかったものの生産設備能力としては、日中戦争開始頃の時期を上まわる水準を保持する産業が多かったと推定されている[6]。労働力は、いうまでもなく、軍隊からの復員、海外からの引き揚げで、供給過剰な状態であった。燃料は、石炭時代であったから、傾斜生産・傾斜金融による増産が期待できたが、原材料は、戦時中のストック分が底をついてからは、海外からの供給に仰ぐものが多く、輸入が不可欠であった。 貿易は占領軍と日本政府の管理下で、徐々に再開されていったが、戦前の主力輸出品であった生糸が、化学繊維・合成繊維に市場を蚕食されて外貨獲得商品として期待できなくなった。生糸とならぶ輸出品であった綿製品は、輸出市場の状況が大きく変化したし、なによりも原綿輸入が先行しなければ輸出することはできない。こうして、外貨が極めて乏しい状態であったから、輸入は強く制約されていた。食糧も供給不足で輸入を必要としていたから、原材料輸入をまかなうべき外貨不足は一層深刻であった。この窮状を緩和する役割を果たしたのがアメリカの対日援助で、食糧に始まって、綿花など原材料が、とりあえず無償で陸軍省予算(当初はいわゆるプレ・ガリオアで、1947年度からガリオアGARIOA[占領地における施政及び救済]予算科目が設けられ、1948年度からエロアEROA[占領地の経済復興]援助も開始された)から日本に供給された。戦後日本経済の物的再生産は、この対日援助によってはじめて可能になっていたのであり、やがて、対日援助無しでの再生産、つまり、経済自立が課題となった。 生産回復に必要な貨幣的要因は、もちろん企業への資金供給である。民間産業企業は、戦時補償打ち切りや海外資産喪失などで財務基盤が極めて弱くなっていたし、金融機関も戦時融資が不良債権化したことや保有有価証券の価値下落で大きな打撃を受けていた。総じて、資金蓄積の水準が著しく低下したうえに、新たな蓄積を進めるための経済活動が低迷した状態であったから、民間部門からの資金供給力は弱かった。いきおい、政府部門が資金供給の主役にならざるを得なかったが、税収の源泉が弱体になっているので、財政の赤字化、政府金融機関の債券発行、そして、日本銀行の資金供給拡大が不可避となった。政府部門を中心とした資金供給が、効率的に生産回復に結びつき、供給力を拡張させれば、インフレーションを抑える効果が現れるはずである。しかし、インフレーション・マインドが強いと、政府供給資金は、いたずらに有効需要を拡大させて、インフレーションを昂進させる怖れがあった。 インフレ・マネー化が避けられる資金供給として、外資導入も提唱された。外資は、外貨不足から生じる輸入制約を緩和することで、ただちに供給力を拡大させる効果を持つから、外資導入には大きな期待がかけられたが、海外民間企業が日本を有望な投資先と評価するには、経済安定が前提条件となるから、早急な実現は困難であった。 インフレーションを抑制するには、根本的には、極端な需要超過・供給不足状態を解消させなければならないが、供給拡大=生産回復には、上述のような困難が立ちはだかっていた。15年戦争とその敗北がもたらした異常事態は、経済政策の運営に巨大な難問を投げかけていたのである。 この難問に立ち向かう経済政策としては、塩野谷祐一の整理に従うと、4つの類型があり得た[7]。マトリックス表示で、横軸にはミクロ的資源配分条件として「統制」と「市場」を、縦軸にはマクロ的貨幣的条件として「縮小」と「拡大」を設定すると、4つの象限が区分できる。つまり、A「統制・縮小」、B「統制・拡大」、C「市場・縮小」、D「市場・拡大」という4つの政策類型が想定できるわけで、1946年の金融緊急措置はA型、1947・48年当時の連合軍と日本政府が選んでいた政策はB型、ドッジ・ラインはC型で、大蔵大臣就任前の石橋湛山はD型を主張していたというのが、塩野谷の分類である。1国モデルで対外関係が捨象されているから芦田均内閣の外資導入論などが組み込めない不便さはあるが、ドッジ・ライン期の小状況「場」の現実からすると、明解で有用な政策類型区分である。 統制か市場かという政策選択は、占領初期から現実問題となっており、石橋湛山が主張したばかりでなく、日本政府も、戦時経済統制、とくに物価統制を撤廃することを提案して占領軍に反対され、戦時統制を物価統制令と臨時物資需給調整法(それぞれ1946年3月・10月公布)による戦後統制システムに再編した経緯があった。経済統制に限界があることは戦時経済運営の経験から明らかであり、戦後統制も、生活必需品や基礎的原材料の配分を公正に行うという流通統制面ではある程度の成果をあげたが、価格統制面ではインフレーションの抑制効果は弱かった。公定価格を維持するために価格差補給金などの補助金支出が行われたが、これは直接に補助金を受け取る企業や補助金によって低く抑えられた価格で原材料を購入できる企業が、企業努力によって生産費を引き下げようという意欲を弱めるマイナスの副作用を引き起こす可能性があった。 これと同様の副作用は、占領軍と政府が管理する国営貿易からも発生した。貿易商品の国内売買は貿易庁・貿易公団が円建てで行い、海外売買は占領軍が外貨建てで行うという仕組みは、いわゆる複数レート制をもたらし、輸出品には円安レート、輸入品には円高レートが適用される状態となった。これは、実質的には、輸出に輸出補助金が、輸入に輸入補助金が支払われることを意味したから、貿易関連企業の生産費引き下げ努力をスポイルする可能性が大きかった。 国内商品・貿易商品にたいする補助金は、短期的には価格上昇を抑制したとしても、中長期的には、コスト引き下げによる価格低下を妨げるというマイナス効果を持つ可能性があったのである。このマイナス効果発生を嫌うとすれば、価格統制を撤廃して市場機能を回復させるという選択肢が望ましいことになる。 マクロ的貨幣政策の「拡大」か「縮小」かという選択肢は、積極財政か緊縮財政か、復興金融金庫債発行(日本銀行引受)は是か否か、日本銀行の金融政策を緩めるか引き締めるかという政策選択であったが、このほかに貿易資金管理方式にも関わる問題であった。円建ての貿易品取引は貿易資金特別会計が管理し、外貨資金は占領軍が管理する体制であったから、貿易収支の動向から生じるはずの通貨流通量変動が、正常なかたちでは現れて来なかった。これには、複数為替レート制と対日援助が関係してくる。たとえば、1947年の貿易実態は、輸出が101.5億円、1.7億j、輸入が202.7億円、5.2億jであったから、円建てで101.2億円、ドル建てで3.5億jの輸入超過となっていた。ドル建ての輸入のうちの4億jは援助物資であったから、ただちに外貨で支払う必要はないために、外貨建ての大幅な輸入超過が、金融引き締めを要請することにはならなかった。円建ての収支は複数レート制の結果として輸入超過の数値が、ドル建ての数値より遙かに小さくなっていて、デフレ効果は縮小している。とはいえ、輸入超過であるから、資金は引き揚げ超過となるはずであったが、国営貿易のコスト、つまり輸入経費・保管費用・在庫分などを負担すると、貿易資金特別会計では、資金は支払い超過となって、むしろインフレ効果を招いていた。国際関係では、いわば閉鎖経済状態となっていたわけで、ここからも、単一為替レートの設定が政策選択肢としての重要性を持ったのである。 以上のような小状況「場」の初期条件のなかで、日本政府、占領軍、そしてアメリカ政府が、それぞれ、どのような政策を選択したのかを見てみよう。1947年から1948年の時期には、日本側では、一挙安定路線と中間安定路線、塩野谷の区分では、A型かB型かの政策選択が提起されていた。片山哲内閣では、経済安定本部を中心に、デノミネーションを伴う新円封鎖、第2次新通貨発行によるインフレーション抑制措置が検討されたが、内閣交替で、この一挙安定構想は実現しなかった。芦田内閣は、経済統制を強化しながら、対日援助と外資導入によって供給力拡大をはかり、インフレーションの進行を緩和させるという中間安定政策を選んだ。統制強化のキー・ポイントは、賃金の規制であった。価格統制を徹底させようとすれば、当然、賃金統制も必要となるが、これまで、1946年3月の3・3物価体系では標準世帯生計費1ヶ月500円、1947年の7月物価体系では基準賃金1ヶ月1800円が、計算基準として示されたにとどまっていた。芦田内閣は、占領軍からの賃金統制の示唆をうけて、経済安定本部が賃金統制を含む「中間的経済安定計画(試案)」を作成したが、結局、労働者を支持基盤とする社会党が参加する連立内閣には、その実行に踏み切ることはできず、1948年6月の物価改定でも平均賃金1ヶ月3700円という基準値を示しただけであった。 占領軍は、内部に対立する見解を抱えていたが、1948年時点では、塩野谷のB型、つまり、貨幣面での縮小方針はとらずに、統制を継続強化することでインフレーションを抑制するという政策を選択していた。芦田内閣の中間安定路線に近かったが、賃金統制の実行を強く主張する点に違いがあった。 アメリカ政府は、この時期には、一挙安定路線に近い政策を選択しようとしていた。すでに、1948年1月のロイヤルK.Royall陸軍長官演説とマッコイF.McCoy極東委員会アメリカ代表演説が、対日政策目的を非軍事化から経済復興に転換することを表明し、2月にはケナンG.Kennan国務省政策企画室長、3月にはドレーパーW.Draper陸軍次官とジョンストン調査団が来日してマッカーサー最高司令官に政策転換の基本線を説明した。そして、5月には、ケナンとドレーパーの報告をもとに国務省が作成した対日政策転換の公式政策文書が、国家安全保障会議NSCに付議され、10月には「アメリカの対日政策にかんする勧告」(NSC13/2)が採択されて、政策転換が正式に確定された。日本の経済復興を速やかに実現するための政策に、アメリカ政府が直接の関心を持つに至ったわけである。 陸軍省は、ガリオア予算とは別枠で日本と朝鮮の復興援助資金を支出することを1948-49年度予算案に盛り込む提案を行った。この提案を審議した国際通貨金融問題に関する国家諮問委員会NACは、前提として日本経済の安定化が必要であることを強調し、議会は、新しい援助科目の新設を否決して、かわりにガリオア予算の枠内で占領地経済復興資金(エロア資金)を支出することを承認した。その際、議会は、援助支出を早期に打ち切ることができるように、有効な経済安定政策を採用して日本の経済復興を速やかに実現することを要請した。議会は、アメリカ国民の税負担を軽減するために、対外援助の早期削減を期待したのである。対日援助は、ヨーロッパに対するマーシャル・プラン援助とは異なって全額贈与ではなく一部(最終的には約3分の1)は返済義務のある債務と考えられていたが、当面はアメリカのタックス・ペイヤーの負担になるから、その負担軽減が問題とされたわけである。 アメリカ政府は、冷戦対応型世界戦略の観点と納税者負担軽減の観点とから、日本経済の速やかな復興を政策目的に設定し、それを実現する政策手段の検討を開始した。具体的な政策提案は、1948年5月に日本に派遣されたヤング調査団によってなされた。軍用為替レート改定についてマッカーサーからの要請を受けた陸軍省が、国務省・財務省と折衝した結果、為替レート問題検討のために派遣されることになったヤング調査団は、6月に、単一為替レートの早期設定とそのための総合的な緊縮政策を勧告したのである。国内通貨改革の提案ではなかったが、円をドルに固定的にリンクすることによって、円の価値下落を阻止し安定させるという対外通貨改革の提案であり、一挙安定路線に近い政策の勧告であった。ヤング勧告は、占領軍の中間安定路線とは真っ向から対立する提案であったから、ヤング勧告を支持するアメリカ政府と占領軍との間には、激しい軋轢が発生した。 この政策選択の対立が、アメリカ政府の主張に占領軍が屈服するというかたちで決着するなかで、ドッジの日本派遣とドッジ・ラインの実施が行われたのである。ドッジ・ラインの課題は明確であったが、ドッジは、このような経緯からして、いささか複雑な力関係のなかで、与えられた任務を遂行することになった。その詳しい過程は、後に見ることにしよう。
3 ドッジはどのように政策を決定したか A ドッジの履歴 ジョセフ・ドッジは、1890年11月にデトロイト市で生まれ、高等学校卒業の学歴で、デトロイト銀行頭取、全米銀行家協会会長にまでなった、いわゆるセルフ・メイド・マンである。しかし、日本やドイツでその政策家としての名声が高いものの、アメリカ本国では、むしろ、ひとりの銀行家として評価されるにとどまり、伝記はもちろん研究書や研究論文も書かれていない。ドッジの所蔵していた関係文書資料は、デトロイト公立図書館バートン・ヒストリカル・コレクションに寄託され、ドッジ文書Dodge Papersとして閲覧が可能になっているが、まだ、本格的なドッジ研究は現れていないのが現状である[8]。ドッジ・ペーパーと一般人名録から判明するドッジの年譜は次のようである。
第1表 ジョセフ・モレル・ドッジ年譜
出典:ドッジ文書(デトロイト公立図書館バートン・ヒストリカル・コレクション所蔵)、 Who’s Whoなど。 B Arenaの状況 この時期の政策決定機構の表舞台Arenaは、占領下であるために、重層的構成となっている。まず、連合国側では、対日政策の最高決定機関としてワシントンに設置された極東委員会FECがある。FECは、日本と交戦した11カ国(後に13カ国)で構成され、採決は多数決を原則としたが、米・英・ソ・中の4大国には拒否権が与えられていた。しかし、FECで政策決定がなされない場合には、アメリカが、中間指令Interim Directiveのかたちで、連合国最高司令官に政策実行命令を発することが認められていたから、事実上は、アメリカが対日政策の決定権を握る仕組みになっていた。東京には、最高司令官への助言機関として、4大国代表で構成される対日理事会ACJが設けられたが、マッカーサーがはじめからその存在を無視する姿勢をとったので、政策決定への影響力は、農地改革の場合を除いて、ほとんど持たなかった。 アメリカでは、大統領が中間指令の発出権者として最高の権能を持つが、事実上の政策決定は、政策内容に応じて、国家安全保障会議NSC、国務・陸軍・海軍三省調整委員会SWNCC、国際通貨金融問題に関する国家諮問委員会NAC、そして、国務省・陸軍省など関係省庁が行った。 現地占領軍では、連合国最高司令官SCAPを最高意思決定者とし、その執行機関として、総司令部GHQが設けられていた。GHQは、参謀長の統括のもとに、軍政担当の部局(参謀第1課から第4課)と民政担当の部局(民政局・経済科学局・天然資源局など)とで構成されていた。 日本側は、戦後改革を経て、Arenaは新しい姿に変わった。立法機関としては、貴衆2院制の帝国議会が、衆参2院制の国会に変わり、衆議院の優越が規定された。行政府は、議院内閣制となり、省庁組織も改編された。経済政策関連では、政策官庁として経済安定本部が、行政委員会として持株会社整理委員会、公正取引委員会が設置されたことが占領期を特徴づけている。審議会として注目されるのは、芦田内閣期に設けられた経済復興計画委員会で、戦前(1930-34年)の生活水準を1952年に回復することを目標とした経済復興計画を1949年に第2次吉田茂内閣に提出した。戦後盛んに作成されるようになった経済計画の最初のものであったが、中間安定路線沿いの内容で、ドッジ・ラインが実施されるなかでは活用されることなく終わった。 言論・集会・結社の自由が保障されたので、政策に対する発言や意思表示の場は、飛躍的に拡大した。政党活動はもちろん、各種のジャーナリズムや街頭示威行動にいたるまで、人々の政策決定への参加機会は増えた。とはいえ、占領軍は、占領地治安維持の名目で、検閲機関を動かして、出版・報道への規制を加えていたから、言論の自由にも枠がはめられていたのであり、特に、占領政策に対する批判は厳しく制約されていた。 C Off-Arenaの状況 i) ドッジの内面 この時期の政策決定の舞台裏Off-Arenaとしては、まず、ドッジがどのような価値意識と状況判断能力をもとにドッジ・ラインを実施したかが問題である。ドッジ個人についての情報が乏しいので、ドッジ・ペーパーの目録にイントロダクションとして付されているドッジの紹介文を訳出しておこう。 イントロダクション かつて、『サタデー・イブニング・ポスト』紙の編集者は、「記事として大当たりする類のものgood bet」ではないという理由で、ジョセフ・モレル・ドッジについての論考を雑誌に掲載する提案を拒否した。『フォーチュン』誌は、彼を「我が国の最も傑出した銀行家の1人」だが「やや無名に近い男slightly anonymous looking man」と呼んだ。デトロイトの街の人は、「ドッジ・レポート」が現れるまでは、「ドッジ」という名は自動車だと思っていた。「ドッジ・レポート」はデトロイトの新聞読者に財政改革と同義語として認知されたが、その名の後ろの人物は、比較的知られてはいなかった。歴史の中で最も変動が激しく科学的進歩の速い時代に生きながら、彼は、ビジネスと金融の人で、自分の専門外の出来事の圧力からは遠いところにいる人物のように思われがちである。しかし、彼の専門知識は、世界がそれを探し求めたほどのものであった。一般大衆には無名であったとしても、彼の能力は関係者からは非常に高く評価されている。ドッジの金融関係の才能は、若い頃からはっきり現れていた。古風な中央貯蓄銀行の総簿記役のメッセンジャーから身を起こして、若くしてミシガン銀行検査役に任命された。当時の記録によると、彼は、銀行の二重取引事件を明るみに出したことで、危ない銀行に派遣するには適格な男だという評判を銀行業界でかちとった。当時の往復書簡を一見すると、彼は、履歴書から見て取れる以上に実業界に受け入れられていたことが分かる。たとえば、トーマス・J・ドイルの書簡を見ると、大恐慌期に彼の自動車販売事業は、ドッジの努力によって他社を上まわる成果をあげたが、ドッジは自分の給与が高すぎると思った。ドッジは、繰り返して辞意を伝え、とうとうドイルの抗議を押しのけて辞職してしまった。銀行一斉休業後の暗黒の時期に、ドッジは、後にデトロイト地域の金融の主柱のひとつとなるデトロイト国法銀行設立に加わるいくつかの銀行の資産救済の業務を与えられた。彼は、銀行家に必要な特性であるところの「信頼」を鼓舞した。 1933年に、ドッジは、デトロイト貯蓄銀行(その後いくつかの合併を重ねて現在はデトロイト銀行)の取締役頭取になった。この事業は、彼のその後の人生における最大の関心事となる。どのような名誉ある地位が彼に提供された時でも、彼が最初に考えたことは、デトロイト銀行の仕事からどのくらいの時間を割くことができるかであった。銀行の取締役達は、彼がどのような新しい任務に就くことでも、寛大に認めはしたが、彼らの懸念は、常に、ドッジなしにどうやって上手くやっていけるかであった。事業や計画が、彼の設定した路線の上を順調に進み続けるということは、銀行への彼の貢献であった。 銀行業界における彼の名声が高まるとともに、遠くニューヨークやサンフランシスコの銀行から誘いがかかるようになったのも驚くべきことではない。デトロイトはドッジが才能を発揮する場としては小さすぎるという考えは、実際上の根拠はない。ドッジの文書によれば、デトロイトは常に課業の最後に到達すべき目標地であり、魅力的な誘い(その時には秘密だった)にもドッジは動かされなかった。 第2次大戦中は、ドッジは陸軍省価格調整委員会議長に就任したが、ここで彼は政府関係者に知られるようになった。戦後、彼は、しばしば、調整が悪い世界の金融財政問題についての助けを求められた。彼が占領軍に続いてドイツに赴き、ドイツ経済を再建したことを、ドイツ人は彼の大きな貢献だと思っている。ヨーロッパのエコノミストの間で権威者として尊敬されているジャック・ルフは、ドッジの計画に従って1948年に実施されたドイツ通貨改革を「貨幣政策の分野でこれまでに達成された最大の成功、…、通貨改革によってドイツ経済は決定的に回復に向かった、…、通貨改革は死体状態のドイツにたいする『立ちて歩め』の信号を意味した」と評価している。日本も同じように、かつて緊縮政策の必要性を痛感させられたことが知られている。1949年に初めて日本に赴き、占領軍を後ろ盾にして予算を編成してから、ドッジは、毎年秋に次年度財政政策の決定を助けるために日本に呼ばれていた。これらの期間、ドッジは、ワシントン政府の意向と食い違いがちなアメリカ軍・新しい日本政府の要求について徹底的に議論した。多くの場合、ドッジは説得に成功し、その成功の証拠が、度重なる訪日要請であった。被占領国の政府指導者たちは、ドッジの誠実さと彼の決定の正しさを信じて、緊密な友人となったが、そのことは、厖大な往復書簡の山が良く示している。決定することの難しい問題があった。その多くは、短期的には厳しい結果をもたらすから、最終目標が判らない関係者には評判が悪いものであった。心うたれる例は、ある日本の若者からの手紙である。彼は、土台から柱をはずすようなやり方の反インフレーション政策が、彼の家族を困窮の淵に突き落とし、突然に学業を続けることを断念して働かざるを得なくしたので、ドッジの政策を憎んだ。しかし、やがて、ドッジの措置は、彼にとっては辛くても、祖国を救うものであることを悟るにいたったので、心が変わった。このことをドッジに伝えたいという手紙である。 この時期の書簡類は、政府が活動する上での障害、つまり、官僚的形式主義、外交的不手際、省庁間の協力の欠如などを描き出している。それらのすべての場合に、ドッジは善意と相手への敬意を失うことはなかった。ドッジは、仕事熱心で、よく働き、効率的で、私欲を持たず、最高に有能な男という人物像を示した。彼は、このような厳格さであらゆる場合に対処できたから、争うことが極めて難しい相手であった。 彼の名誉ある地位、役職、任命、会員加入などの一覧表は、多忙な人が仕事をこなすのに求められるものがなんであるかについての古い格言の正しさを証明している。「注意力をそそがないつもりの仕事には就くべきでない。人が成功するのは、その仕事に責任を持つからである。」彼に求められる時間は厖大なものであった。秩序正しい整然とした対応が、広汎な業務達成を可能にした基本的な要素であった。「ひとつの時間にはひとつの危機」というモットーが、アイゼンハワー大統領政権下の予算局長官やさまざまな相談役職としてワシントンに居た熱狂的な時代に、彼の精神を正常に保ったのであろう。この時期の文書は、アイゼンハワー政権の歴史を書く人の必読資料である。いくつかのアイゼンハワー書簡は、アビレーンの図書館に移管されたが、基本的な資料は、ドッジ文書の中に残されている。予算局は、政府の中心的機関に発展した。アイゼンハワー政権下では、戦時から平和時への転換期の調整機関として、また、国際貿易関係改革の試みに関わって、予算局は重要な位置を占めた。 ジョセフ・ドッジの個人哲学は、すべての問題について保守的であるという傾向を持っていた。ビジネスと政府において、この哲学は、彼を硬貨主義者、安易な財政支出拡大への敵対者とし、負債を疑わしい眼で見る傾向を与えた。政治的には、彼は共和党寄りであった。反面では、彼の同僚達は、しばしば彼の決断のあるものが自由主義的であることに驚き、民主党も、必要な場合に彼を起用することを怖れはしなかった。 冷徹な性格の専門家であるにもかかわらず、彼は、決して、近づきがたい人物ではなかった。彼の書簡からは、さまざまな立場の人々から暖かく尊敬された人であることが判る。ルシアス・クレー将軍とアイゼンハワー将軍は、彼に情愛深い態度で接した。マッカーサー将軍とリッジウエー将軍は、彼が占領行政に不可欠な人物であるばかりでなく、彼らの幕僚へ好感の持てる追加者と認めた。 ドッジには講演の要請が多かった。彼は、複雑な問題が含む本質的な問題点を明らかにする特別な才能を持っていた。彼は、しばしば、企業経営講座の講師を務め、一度は、反インフレーション政策を説く全国遊説をおこなった。これらの講演や各種雑誌への寄稿は、ドッジ文書のなかの少数ではあるが重要な部分となっている。 第2次大戦中と戦後の経済政策、講和問題(特に、彼が主席全権となった対オーストリア講和)、ドイツと日本の戦後経済におけるアメリカ合衆国の役割などを研究する学生は、構想をまとめるためにドッジ文書を閲覧しなければならないであろう。地域のレベルでは、いわゆるドッジ・レポート「1957−58年度の租税と財政問題に関する市長諮問委員会の地方財政問題研究」は、デトロイト市の歴史のなかの金字塔となっている。ドッジ文書は、現代銀行業史を書こうとする学生も励ましてくれるであろう。 ジョセフ・M・ドッジ文書が寄贈されたことは、故郷の町の市民により良く知られるべき人物が残した資料を利用可能にした点で、大きな貢献である。世界的な影響力を持ちながら、その根を生まれた町に残した人物にふさわしい記念碑が、このドッジ文書である。
この紹介文の著者(氏名不詳)によれば、ドッジは、保守的conservativeな思想の持ち主とされている。H.ションバーガーも、「ドッジはその全経歴を通じて、銀行家としてのオーソドックスな世界観に忠実だった」と書いている[9]。「保守的な銀行家」ドッジは、銀行経営について、次のように書き記している[10]。 「銀行をつくるものは借り手ではなくて預金者である。貸出資金の大部分は借り手以外の預金者の資金なのである。貸出資金を供給する預金者の利益よりも、借り手の要求に重きを置くようになると、銀行は必然的に弱體化するに至る。(中略)銀行業務を取締る色々な立法というものは、その大部分が投機的目的に傾く銀行資金を不健全なりとする根本原則を確立するにあつた。」[11] 「(財務相談に際しては)基本的に健全なやり方としては、次の原則を守ることが妥當であろうと思う。すなわち、一、相談を受けた場合だけ助言を與うべきであり、しかも自分の知つていることだけにこれを限定すること。二、銀行の營業及び取引、それに預金保護のため必要とされる處置に限つて相談に應ずること。三、投資相談については財産の保全のみを目的とし、利息以外の金儲けの助言をなすべきではない。」[12] まさに、オーソドックスな銀行家の発言である。とはいえ、ドッジは古色蒼然とした銀行家ではなく、経営者の責任について、「経營者は自らの利益のために、又は自らと密接な關係のある事業の所有者の利益のために、事業を経營することを以て能事了れりとしてはならない。何故ならば會社組織が発展した結果、経營は所有より分離され、経營者の責任はいよいよ重きを加える傾向にあるからである。」として、株主・従業員・顧客・公衆の4つの基礎的集団間の公平を維持することに努力すべしという主張(1938年9月の国際経営者会議におけるジョーンズ・マンビル社社長L.H.ブラウンの演説)に賛意を表している[13]。 また、ドッジは、「良い事業と悪い事業の差、良い銀行と悪い銀行との差は資産、建物、設備、記録にあるのではなく、それよりももっと内面的なもの、つまり指導運營する人の心に存する。」[14]と述べて、経営者能力の重要性を強調し、経営者に求められる能力のひとつとして、「物事を簡略化して考えること」を挙げている[15]。「世間の多くの人々は自分のする仕事を簡單化する代りに、複雜化する傾向がある。その精神的過程は『中心的事實』以外の雜多な事物を考えることによって妨げられ、歪められ、害われている。」というわけで、このSimple thinkingは、ドッジ自身が身につけた思考様式の特徴と言えよう。 ドッジは、熟練した経営者になるには経験と観察のほかに他人の得た知識を取り入れることが不可欠であると書いている[16]が、これも彼を特徴づける行動様式のひとつである。ドッジ・ペーパーの「日本1949年」ファイルの中には、ドッジが、4種の研究書(論文)から抜粋・要約した45ページにおよぶインフレーション・ノートが残されている[17]。作成月日は不明であるが、ドッジ・ラインを決定・実行する過程で、ドッジは、インフレーションの経済学やベルギー・イタリー・フランスの通貨政策についての研究を精読して知識を吸収したことが分かる。 インフレーションについてのドッジの考え方は、やはり、ドッジ・ペーパーの中の「インフレーション問題へのコメント」[18]というメモに述べられている。ドッジは、「無責任な財政政策はいかなる経済援助も無意味にする」、「インフレーション抑制を困難にする要因のひとつは、だれでも、インフレーションによって苦痛を伴わない財政金融政策が可能になり財政失政の責任から免れられることを歓迎することである」、「長い間、人々は、まるで生産費や貨幣価値は問題にしなくて良いというように振る舞ってきたが、そのような時期は終わった」、「生産能力と生産性の上昇によってしか貿易赤字は克服できない」、「インフレーションは、消費財生産に資源を偏らせて、経済の健全な回復を妨げる」、「経済安定は、自発的な自己犠牲、厳しい緊縮財政、経済統制の強化のいずれかによる貯蓄の大幅な拡大によってしか達成されない」、「投資計画は、適切な消費抑制措置を伴わないと、賃金稼得者の手に過剰な購買力を創り出してしまう」、「イギリスでは見返り資金は大部分が政府債務返済に用いられたが、フランスでは見返り資金の3分の1が産業に投資されて、インフレーションに拍車をかけてしまった」、「見返り資金の主要な機能の一つは、購買力を縮小するために使用されることである」、「生産と生産性の上昇に直接寄与する投資に最重点が置かれるべきであり、住宅・教育・福祉などへの資金投入は間接的にしか寄与しない」、「インフレーション問題は、単に輸出を拡大するだけでは解決できない。輸出拡大には、消費の縮小と生産の拡大が伴わねばならない」などの断定的短文を28項目にわたって書き上げ、最後に、「ドルは、必要とされる努力の代替物ではありえない」と記している。 アメリカの対日援助を早期に打ち切ることができるように、日本経済を自立させるという政策目的を設定したときに、採用すべき政策の基本線を検討したドッジの、まさにsimple thinkingの成果がここに表現されている。財政・金融の緊縮⇒過剰購買力の削減⇒インフレーション抑制⇒輸出拡大、あるいは、緊縮財政⇒貯蓄増加(+見返り資金からの生産的投資)⇒生産能力・生産性の上昇⇒輸出拡大という政策路線が簡明に示されている。これに、単一為替レート設定による国際市場との関係の正常化を加えると、ドッジ・ラインの基本的政策体系が完成することになる。採るべき道が確定したときには、いかなる反対論に遭遇しても、断固として自己の選択を貫き通すことも、ドッジの信条であった。自己の経験に「他人の得た知識を取り入れ」ながら、simple thinkingを行って得られた問題の本質の鋭い把握のうえに、断固として実行されたのがドッジ・ラインであった。 ドッジは信念の人ではあったが、理想を高く掲げてその実現に邁進するようなタイプではなかったし、政治的な野心家でもなかった。ションバーガーは、ドッジを「精力的なナショナリストvigorous nationalist」[19]と呼んでいるが、これは、ドッジがアメリカとアメリカ企業の利益を擁護する立場に立って、共産主義との対決姿勢を鮮明にしていたことを指す言葉で、ドッジの行動には、アメリカ人が広く共有するアメリカ中心主義、反共主義が、やや強めに現れているに過ぎない。アイゼンハワー大統領のもとで予算局長官に就任するが、これも、共和党支持者としてというよりは財政金融専門家としての政権参加であった。 ドッジ・ラインの成果が現れてきた頃、1949年9月に、ドッジは、W.マーカット総司令部経済科学局長に、自分はマッカーサー最高司令官に取って代わろうなど考えてもいないという手紙を送っている[20]。これは、マーカットが8月に送った極秘の手紙への返事で、マーカットは、この手紙で、人騒がせな風評alarmist dataをW.シーボルト総司令部外交局長がワシントンから持ち帰ってマッカーサーに報告したことをドッジに告げていた[21]。この風評とは、国務省が日本占領の主導権を握ろうとしており、ドッジを新しい最高司令官に据えようと画策しているという内容のものであった。ドッジは、本国政府の高官達は、だれも日本占領の責任をマッカーサーに代わって引き受けようなどとは考えていないと断言し、自分についても、その役に推薦されたこともなければ、そのようなことへの望みも、意図も野心もないと書いている。ドッジは、これまでも、政府や占領地での責任ある地位に就くつもりがあるかと誘われてきたが、すべて断っているとも述べている。この時期に、占領地行政の担当者を軍人から民間人に切り替えるべきであるとの考え方が表に出たことは事実であったらしく、ドッジもそれに賛成ではあったが、自身の問題としては野心のないことを強調したのである。ドッジは、「私は何も欲しくないI want nothing」と述べて、「そうすることで誰かが幸せになるのであれば、私はいつでも日本での職を辞任する」と言い切っている。ドッジ・ラインの実施途上で、マッカーサーとの関係が悪化することを避けようとした発言でもあろうが、ドッジは、本来、権力志向の強い野心家ではなかったと見ることができよう。 ii) アメリカ政府・GHQ このドッジの弁明事件でも分かるように、アメリカ本国政府と占領軍の間には、しばしば意見・利害の対立関係が生じた。そもそも、アメリカ政府は対日占領政策に関しては、その基本線のみを指令する場合が多かったから、政策の具体的実施方針はGHQが決定することとなった。GHQは、決定した方針について陸軍省経由で本国政府の了承を求めるのが通常のルールであったが、冷戦体制に入る頃から、両者の間の認識のズレが表面化してきた。たとえば、非軍事化政策を徹底しようとしてGHQが立案した経済力集中排除法案は、占領政策の転換を模索し始めた本国政府にとっては不適切な措置と考えられ、法案承認の交換条件として集中排除審査委員会DRB派遣が行われ、集中排除政策は実施段階で大幅に緩和されることとなった[22]。 ドッジ・ラインの時期には、前に述べたようにヤング勧告を支持する本国政府と中間安定路線を主張するGHQが対立した[23]。対日占領政策の転換を進めていたアメリカ政府は、前述のように1949年10月には国家安全保障会議でNSC13/2文書を採択し、それをマッカーサー最高司令官に伝達したが、マッカーサーは、それを受容することを拒んだ。NSC13/2文書では、GHQの機能縮小、権限の日本政府への委譲、日本の警察力の強化などが新しい方針として掲げられていたが、マッカーサーはそれらに反対の意向を持っていた。そこで、マッカーサーは、NSC13/2は、アメリカ極東軍司令官を拘束する新政策文書ではあるが、連合国最高司令官にたいする正式指令ではないから、執行責任は負いがたいという態度をとったのである。 本国政府と現地司令官との間の軋轢が極めて大きくなった時に、ヤング勧告を軸とした経済安定政策を日本で実施するためには、マッカーサーに新政策を承認させることと、その実行を確実にするための方策をとることが必要であった。陸軍省では、W.ドレーパー次官が中心になって、新しい経済安定政策を連合国最高司令官にたいする「中間指令」として発出することと、政策の実行を担当する人物を日本に派遣することの両面での準備が進められた。 1948年6月にヤング勧告が提出されると、マッカーサーは、原則的には賛成できるが単一為替レートの設定時期(勧告では1948年10月)については全く同意できないことをドレーパーに伝えていた。ヤング勧告を検討した国際通貨金融問題に関する国家諮問委員会NACでは、為替レート設定は「可能な限り早い」時期にという表現に改めた経済安定措置を決定した。GHQは、この決定を受けて、1948年7月には、日本政府に、ヤング勧告の内容を盛り込んだ「経済安定10原則」を非公式メモのかたちで指示した。しかし、公務員法改正問題などに忙殺されていた芦田内閣はこの指示に対応するゆとりがなく、10月に成立した第2次吉田内閣も選挙管理内閣を自認していたので積極的な取り組みを示さず、また、GHQも強く実施を要請することはなかった。本国政府がヤング勧告に沿った一挙安定政策の実施を求めたのに対して、GHQはこれまでの中間安定論寄りの路線に固執し、賃金統制を行うことでインフレーションを抑制する方針を採ったのである。1948年11月には、いわゆる「ヘプラー賃金3原則」を提示して、まず公務員給与改定に厳しい姿勢を示した。 アメリカでは、1948年12月のNACスタッフ委員会で、GHQの姿勢に厳しい批判が出され、ヤング勧告に沿った経済安定政策が直ちに実施されない限り対日援助予算を承認しないという結論が出された。ドレーパー陸軍次官は、マッカーサーに状況を説明した電信を送り、NAC本会議では、ロイヤル陸軍長官が、マッカーサー最高司令官に為替レートの早期設定を含む経済安定政策を指令することを約束して、ようやく対日援助予算への同意を取り付けた。この経済安定政策は、国家安全保障会議NSCに付議された上で、トルーマン大統領の承認を受けて、「中間指令」として、マッカーサーに送付された。 マッカーサーは、正式な指令である以上、これを受け入れざるを得ず、結果についての疑義を述べながら、実施のために最善を尽くすと返電した。そして、マッカーサーは、中間指令を、「経済安定9原則」として、1948年12月19日に吉田首相宛の書簡のかたちで日本側に指令した。ただし、中間指令では、経済安定政策実施後3ヶ月以内に単一為替レートを設定することが明示されていたが、この部分は日本側には示されなかった。為替レート設定は時期尚早としていたGHQが、本国の指令で政策を転換せざるを得なくなったという事実を、日本側に知られたくない配慮が働いたと推察される。 一方、経済安定政策の実施を担当する人物の日本への派遣を考えたドレーパーは、まず、ドイツ占領時代の同僚であるドッジに協力を要請した。ドレーパーは、1945年から陸軍次官に就任する1947年まで、ドイツ軍政部経済部長・軍政長官経済顧問を務め、4歳年長の財政部長ドッジの力量を熟知していたし、ドッジが在職中の1946年5月に立案した西ドイツ通貨改革案(コルム=ドッジ=ゴールドスミス案、新通貨発行・旧通貨価値切り下げ・単一為替レート設定)が、1948年から実施されて大きな成功を収めたのを知っていた。 ドッジは、全米銀行家協会会長として多忙であることを理由に、最初はドレーパーの要請を断った。ドレーパーは、他の候補者と折衝したが合意を得られず、再びドッジに連絡して、日本行きは不可能でも経済安定計画立案への協力を求めた。ドッジは、日本問題を検討して、意見を示し、安定計画を主導する重要人物のグループの日本派遣を提案し、ドッジ自身もそのグループに加わる可能性を示唆した。そこで、ドレーパーは、トルーマン大統領とドッジの会見を斡旋し、中間指令を発出した翌日に、トルーマンはドッジをホワイトハウスに招いて日本赴任を要請した。ドッジは、デトロイト銀行の役員会の同意を得る必要があるし、長期間の日本滞在は無理であろうと述べて回答を保留した。デトロイト銀行役員会がドッジの要請を受けて3ヶ月の離任を承認した後、ドッジは、日本行きを正式に受諾し、同行するメンバーを選んだ。GHQと本国政府間の軋轢も知らされ、マッカーサーとは面識が無いことを懸念するドッジに配慮して、ドッジには最高司令官財政顧問と同時に公使の資格が与えられ、日本派遣にはロイヤル陸軍長官が自ら付き添う手順が決められたのである。ドッジは、自分に課せられた任務の困難さを、十分に理解した上で、日本に出発したのであった。 iii) 日本政府・日本銀行・財界 この時期の日本側の舞台裏Off-Arenaとして、まず、政権政党を見ると、社会党・民主党・国民協同党が、3党連立の片山・芦田両内閣を組織した後には、民主自由党(のち自由党)の吉田内閣が続いた。諸政党の経済政策は、社会党が計画経済的な経済統制に力点を置き、民主党・自由党系が自由主義的な政策を主張するという違いはあったものの、ドッジ・ラインのような厳しい財政金融引き締め政策を提唱する政党はなかった。ところが、経済安定9原則が指令されると、表向きは各党ともそれに賛成の態度を示した。鈴木武雄は、「いかなる反対も許さないというマッカーサー書簡の強い態度のためか、民自党のみならず、共産党を含めたあらゆる政党が『九原則』には忠誠を表明したのであって、折からの総選挙において、あらゆる政党がわが党こそ『九原則』実行の適任者であるとして競い合ったことは、占領下とはいえ、まことに悲しいことであった。」[24]と書いている。 第3次吉田内閣でドッジと直接折衝したのは池田勇人蔵相であった。大蔵官僚として健全財政主義を身につけた池田ではあったが、ドッジの超緊縮予算の要請には、直ちに応えることはできず、緊縮の緩和に動いたが、ドッジの壁は固かった。財政面からドッジの緊縮方針を崩すことは困難であったが、金融面から緊縮政策の影響を和らげる余地があった。日本銀行の一万田尚登総裁は、政府の金融政策と協調しながら、貸出の積極化を進めた。 財界では、中島久万吉、加納久朗などの人々が、ドッジへの意見表明と情報提供をおこない、ドッジは、丁寧に彼らに対応していたが、もちろん、ドッジへの影響力はほとんど持たなかった。このほか、池田蔵相の秘書官として宮沢喜一、大蔵省渉外部長の渡辺武らがドッジとしばしば接触して、かなり親密な関係を結んだが、同様に、ドッジの意思決定に対する影響は無かった。 おおむね、日本側の舞台裏では、ドッジ・ラインをどのように受容するかをめぐっての駆け引きは盛んに行われたものの、ドッジへの影響力を行使しようとする試みは、ほとんどすべての場合、不成功に終わったと言って良かろう。 D 政策の選択 i) 初期の政策選択 ドッジ・ラインについては、すでにかなり研究の蓄積が進んでいるから、ここでは、詳細にわたってその内容を記述する必要はなかろう[25]。初期の政策としては財政緊縮と単一為替レートの設定を概観しておこう。 a. 財政緊縮 ドッジは、1949年2月1日に、6名の専門家チーム[26]を連れて来日した。ロイヤル陸軍長官にエスコートされた一行は、厚木飛行場でマッカーサー元帥に出迎えられて東京に入り、GHQ経済科学局から提出された資料を分析することから活動を開始した。2月16日に第3次吉田内閣が成立してから後、池田勇人蔵相との会談を通じて、ドッジは構想を確定していった。池田蔵相との会談は、2月19日の顔合わせを最初に、3月1日、3日、9日とおこなわれ、20日の会談の後、22日に予算原案がGHQから内示された。この内示案に対して、池田蔵相は、24、25、28日と3回にわたってドッジと会談して、民主自由党の公約であった減税の実施などを要請したが、ドッジに拒否され、結局、内示案を政府案として国会に提出することとした。国会でも修正提案がおこなわれたが、GHQに拒否されて、昭和24年度本予算は、4月20日に政府原案、つまり、ドッジ案のまま国会を通過した。 ドッジは、予算編成についての基本線を、2月17日付けのマーカット経済科学局長の非公式覚書[27]として日本側に文書で示した以外には、文書による指示は行わず、会談に際して口頭で要点を指示した。しかし、本国政府への報告の形では、方針の要点を記述しており、3月22日付けの報告書原案[28]がドッジ文書のなかに残されている。これによって、予算編成方針の要点を要約すると次のようになる。
すでに送付済みの電信では、@政府債務を増加させずに、一般会計・特別会計を通じて総合予算を均衡させること、A政府支出は、現実的な歳入評価の限度内でおこなうこと、B予算が均衡化しても支出の性質によってはインフレーショナリーであることに注意することを勧告した旨を報告した。以下の勧告は安定達成に必要な特別の問題に関するものである。 I 政府の長期信用供与は、見返り資金以外には停止する。復興金融金庫の新規起債は停止する。 II 合衆国援助は、見返り資金として、SCAPの承認の下で運用される。 III 民間貿易のための適当な実行勘定を開設する。 IV 補助金は、すべてを予算に計上し、将来廃止する方向で削減する。 V 累積政府債務の償還計画を樹立する。 VI 人件費の削減と定員削減をおこなう。 VII 主食穀物価格は適正な水準にまで引き上げ、公団赤字を増加させるような補助金支出はおこなわない。 VIII 鉄道通信事業は収支均衡を原則とする。 IX すべての政府専管事業は、現存施設の範囲で最大の純収入を挙げるよう再編する。 X 現在の税制を維持し、減税はおこなわず、完全な徴税をおこなう。 XI 地方自治は財政的自立を伴わねばならず、中央政府同様の均衡を保たねばならない。 XII 公共事業はインフレ圧力を高めるから、最少必要限にとどめる。 XIII 失業救済費は、失業保険分のみを中央財政に計上する。 XIV すべての政府関係機関は、予算均衡を原則とする。 XV 財政余剰は、債務償却に充当する。 XVI 適正な予算統制法を制定する。
以上のような基本方針で立案された昭和24年度予算案は、周知のように、前年度が1419億円の歳出超過であったのに対して、1567億円の歳入超過となる、超均衡予算となったのである。復興金融金庫の新規貸出も停止され、財政インフレ・復金インフレの根は断ちきられた。 予算に関連して注目すべきことは、隠れた補助金を含めてすべての補助金を予算に計上して、その削減と早期の撤廃方針が取られたことである。ドッジは、各種の補助金に支えられながら価格統制がおこなわれている現状を不自然ととらえ、市場を媒介として価格が決定される資本主義本来のメカニズムを回復させようとしたのである。また、援助物資の払い下げ代金を見返り資金特別会計で管理し、政府債務の償還原資と復興設備投資資金として運用する仕組みを作ったことも、ドッジの安定政策の一環であった。 b. 360円固定為替レート 1948年12月の「中間指令」では、経済安定政策実施後3ケ月以内に単一為替レートを設定することが指令されていたが、ドッジは、予算編成を優先させて、為替レート問題については発言を控えていた。 GHQでは単一レート早期設定が不可避と判断して、1948年12月に為替レート特別委員会を設けて算定作業を開始し、1949年2月には、1ドル330円の単一レート設定をドッジ調査団に提案した[29]。日本側でも、1948年12月に単一為替設定対策審議会が設けられ、300円〜400円の範囲の諸案が検討されたが、1949年1月末には350円程度が妥当との合意が得られた。 ドッジは、GHQと協議し、3月下旬には330円を適正レートと判断した。しかし、ドッジは、GHQが提案した330円レートの論拠をそのまま承認したのではない。GHQが、330円レートを適当と判断した際には、単一レート導入によって国内価格水準に大きなインパクトを与えないことを前提として、輸入補助金1235億円を支出し、さらに72億円の輸出補助金も支出することを条件としていた。予算編成に際して、ドッジは、330円レートを想定して作業を行ったが、補助金に関しては、輸出補助金はゼロ、輸入補助金は833億円と裁定している[30]。つまり、ドッジは、同じ330円レートでも、輸出入補助金をGHQ案より引き下げることによって、一層厳しく、単一レート設定後の合理化を企業に求めたと言うことができる。 GHQは、3月22日に本国政府宛に330円レートの承認を求める電信を送った。この提案を審査した国際通貨金融問題に関する国家諮問委員会NACは、330円レートよりも360円レートの採用を勧告した。NACは、ポンドの切り下げを見越して、円安レートを選んだと考えられる。 NAC勧告を検討したドッジは、それを受け入れたが、円安レートは輸入補助金の増額を必要とするし、輸出企業の合理化努力を鈍らせる効果もあるから、ドッジとしては不本意であったに違いない。NAC勧告の検討メモ[31]によると、ドッジは、360円レート提案は、輸出振興とそれによる国内消費抑制を重視した案であると分析し、今の政策選択肢は、@輸出促進を第1義として物価水準の上昇ないし輸入補助金の増加を伴う円安レートを選ぶか、A物価を現在の水準で安定させることを第1義として330円レートを選び、補助金削減による合理化と原料割当方法の改善によって輸出を促進するかの2つであるとする。そして、GHQが、輸入補助金はじめ他の補助金を2年以内に撤廃し、原料割当を改善して輸出を促進する効果的な計画を実行することに原則的には合意しているが、それは、難しくて早急には実現しそうにないから、円安レートを選ぶことに同意すると結論を出している。また、国際価格が低下しつつあり、他の通貨の切り下げがあり得ることを勘案すると、円安レートは妥当だとも述べている。ドッジは、理想的には330円レートが望ましいが、GHQの政策能力と世界経済の現状を考慮すると、360円レートが現実的には妥当だと判断したのである。そして、360円レートは、予算成立後に設定することが望ましいと提案した。それは、予算案は330円レートを想定して作成してあるので、予算案審議中に360円レートを設定すると、政治的に複雑な要因が生じて予算成立が遅れるおそれがあるとの判断によっている。 昭和24年度予算は、360円レートを前提に輸入補助金などを増額して4月20日に成立した。そして、4月23日には、GHQの覚書「日本円に対する公式レートの樹立」が出され、4月25日の大蔵省告示によって、1ドル360円レートが設定されたのである。 ii) C時空変化後の政策選択 ドッジ・ラインの実施は、物価を安定させることには成功したが、日本経済を不況におとしいれた。ドッジは、昭和25年度予算編成に際しても超均衡予算を維持することを指示し、総合予算歳出は前年比15.2%縮減され、歳入超過額は前年度の1567億円より減少したもののなお415億円に及んだ。さらに、財政緊縮の影響を金融面から緩和させる効果を持った日本銀行の金詰まり対策、国債買オペレーションと貸出に対して、GHQが警告を発して、1950年春頃から日本銀行の政策変更が行われたから、不況は深刻化した[32]。 安定恐慌と呼ばれるような状況に直面したときに、朝鮮戦争が勃発して局面は一変した。1950年6月25日の北朝鮮軍の攻撃で始まった朝鮮半島の戦争は、アメリカ軍中心の国連軍の派遣、中国義勇軍の介入とエスカレートし、在日米軍の戦争関連物資・サービスの調達で、日本経済は、いわゆる特需ブームに沸き返ることになった。ドッジ・ラインは、朝鮮戦争発生という偶然的な出来事、C時空変化によって、初期条件とは異なった環境に置かれることとなったのである。 1949年10月に来日したドッジによって編成された昭和25年度予算の執行中に朝鮮戦争が発生したわけで、状況の変化がもたらした最初の財政問題は、マッカーサー書簡によって指示された警察予備隊創設・海上保安庁強化への対応であった。補正予算の提出によらずにポツダム政令で処理することとされたため、憲法の財政条項解釈にも関わる問題となって日本側は苦慮したが、結局、補正予算は組まずに、財政法の特例に関するポツダム政令に基づいて、既定予算中の国債費からの移用で、246億円を支出することとなった。この予算内容の変更についてドッジがどのように関わったのかは判明しない。 つぎの財政問題は、昭和25年度補正予算であった。朝鮮戦争勃発前の1950年4月から5月に訪米した池田蔵相は、ドッジと面会して補正予算と次年度予算についての話し合いをおこない、基本線で合意を得ていた。朝鮮戦争勃発によって、物価は再び上昇する気配を示してきたから、補正予算では、インフレーションへの対応が新たな問題点となった。1950年10月に三度来日したドッジは、インフレーション効果を打ち消すような財政運営を要求し、外国為替特別会計の運転資金補給、つまり、インベントリー・ファイナンスに関して、借入金による処理ではなく一般会計からの繰入を指示した。 昭和26年度予算についても、ドッジは、緊縮財政の継続を求めた。その結果、予算規模は一般会計総額で71億円の減少、総合予算の黒字額は前年度より縮小したものの、なお1246億円で、超均衡予算は継続されることとなった。日本側にとって意外であったのは、米穀統制の撤廃の提案に対して、ドッジが反対したことであった。本来、統制撤廃論者であったドッジは、朝鮮戦争の動向を見ながら、中国の参戦を予測して、米麦統制の撤廃には慎重になったと推測されている[33]。 ドッジの第4回目の訪日は、1951年10月で、昭和26年度補正予算審議と昭和27年度予算編成の時期であった。ドッジは、インフレーション抑制を政策目標とすべきことを要請したが、直接的な影響を及ぼしたのは、米穀統制撤廃の延期を再度強調して政府の撤廃案を阻んだことなどで、講和条約も締結されたあとでもあって、ドッジの発言力はすでにかなり減退していたのである。
4 ドッジ・ラインをどのように評価すべきか 占領期に展開されたドッジ・ラインは、日本を対象とした政策であると同時に、アメリカの政策でもあることから、その評価は、日本側からとアメリカ側からとの2つの立場からおこなうことができる。ここでは、日本側からの評価に重点を置いて検討することにしよう。 A 初期政策の合理性 i) 大状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 資本主義対社会主義という対立の構図のなかでは、ドッジ・ラインはどのように評価できるであろうか。日本を資本主義国として西側陣営に参加させることは、アメリカの基本戦略であり、同時に、日本の保守政権の希望でもあった。前述のように、朝鮮戦争が開始される前の時点で、すでに、アメリカは対日占領政策を転換して、日本の経済復興を早急に実現することを政策目的としたのであり、ドッジは、日本を資本主義国として再出発させる課題を担ったのであった。 ドッジが選んだ政策は、経済統制と管理貿易という政府介入によっていわば人為的に維持されている日本経済を、市場原理が正常に作用する資本主義本来の姿に戻すことを大きな目的にしていたと見ることができる。国内的には各種の補助金によって、対外的にはアメリカの経済援助によって日本経済が辛うじて維持されている状態を、ドッジは、「日本経済は自分の脚に立って居ない。国内補助金と輸入物資によって松葉杖をついて居る。しかし松葉杖があまり長くては外したときに足を折って了ふ。」[34]と批判した。のちに「竹馬の二本の足」と表現されたふたつの「松葉杖」を取り去ることによって、日本を市場経済に復帰させることがドッジの狙いであった。 戦時経済から戦後経済への移行のなかで、経済統制が再編成され、物資の価格統制・配給統制が続き、公定価格は補給金によって支えられる状況は、たしかに正常な市場経済とは言えなかった。また、貿易は日本政府の円建て管理とGHQのドル建て管理という2元的システムで、日本経済は人為的に世界市場からは切り離されており、複数為替レートという実質的な貿易補助金支給によって輸出入が可能になる仕組みで、国際的な市場原理は作用しないという異常な姿であった。 各種補助金を削減・撤廃し、単一為替レートを設定することによって、国内的にも国際的にも市場経済の作用を回復させることに成功したのであるから、ドッジは、戦後日本経済が持っていた不正常さを払拭して、日本を正常な形で資本主義陣営に復帰させたと評価して良かろう。 もちろん、これは資本主義経済システムとしての正常化であるが、そのことが直ちに日本資本主義が経済的にも社会的にも安定して「アジア反共の砦」になったことを意味するわけではない。この点は、以下で引き続き検討すべき課題である。 ii) 中状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 20世紀資本主義という資本主義の発展段階における政策としては、ドッジ・ラインをどのように評価できるであろうか。戦後改革で階級宥和を実現させる枠組みはできたものの、経済復興が軌道に乗らない状況では、労働者に所得を保証することはできない。インフレーションの進行は、農民には生産物の闇流通による意外の所得をもたらす場合があるが、労働者にとっては実質賃金上昇が抑制されて不満は高まる。1948年の農家所得は、1934-36年を100として113という水準に上昇しているのに対して、実質賃金は1948年で1934-36年を100として48にしか達していない[35]。インフレーションを克服して日本経済を成長軌道に乗せることは、階級宥和の面からも要請されていた。 とはいえ、ドッジ・ラインは、中長期的にはこの要請に応えられるとしても、短期的には、不況と賃金抑制、さらには失業増加をもたらす可能性が大きかったから、階級宥和とは相反する効果を持つことになる。かつての井上財政が、緊縮政策による階級宥和面でのマイナス効果に対して、労働組合法制定による同権化政策を提起したような対応策を、ドッジは用意しなかった。むしろ、ドッジは、まえに紹介したように、インフレーション抑制のためには「賃金稼得者の手に過剰な購買力」を与えないこと、福祉政策への資金投入は制限すべきことを主張したのであるから、階級宥和政策など眼中になかったと言えよう。ただし、ドッジは、労働者への影響を無視していたわけではない。池田蔵相が価格差補給金の即時撤廃を主張したのに対して、輸出補助金は撤廃したが輸入補助金・価格差補給金は削減に留めた理由を、ドッジは、「単一為替レート決定の影響が判然とせぬときに急に補助金をやめることは二正面作戦となり、特に労働者をあまり一度にshockすることになる」と述べている[36]。宥和政策というよりも労働運動が激化することを回避しようとする配慮は、ドッジにもあったわけである。 岡崎哲二・吉川洋は、ドッジ・ラインを、賃金と物価の悪循環を切断する「所得政策」としての意味を持つと評価している[37]。つまり、補助金削減が企業に賃金抑制を余儀なくさせる効果を重視して、所得政策と評価するのである。用語の意味するところは異なるが、20世紀資本主義の政策として、賃金抑制によって資本に利潤を保証する「所得政策」がある。この意味の所得政策としてドッジ・ラインを評価することは可能であろうか。20世紀資本主義は、利潤保証と賃金保証という二律背反的目的を追求する政策体系を持つが、ドッジが、このうちで利潤保証を優先させて賃金保証は目標としなかったとすると、ドッジ・ラインを20世紀資本主義の政策と評価することはできない。単なる資本優遇政策に過ぎなくなってしまう。現実には、ドッジ・ラインは、労働者に厳しいばかりでなく、資本にも厳しい政策であった。補助金やインフレーションによって利潤を保証されていた資本にとっては、補助金の削減・撤廃と財政・金融面からの緊縮によるインフレーション抑制は、短期的には利潤形成が困難になる状況をもたらす。この限りでは、ドッジ・ラインを利潤保証政策そしてその一環としての所得政策と評価することはできないであろう。 資本にも労働にも厳しい姿勢で臨んだドッジが意図したところは、緊縮政策と単一為替レート設定によって、企業が徹底的な合理化を進めることであった。ドッジは、帰国後、1949年8月に池田蔵相に宛てた書簡では、「日本は何よりも生産性の上昇と輸出の拡大によって国際競争力を高めなければならない」と書き送っている[38]。ドッジは、合理化、生産性上昇によって日本経済が国際競争力を高めることを期待して、ドッジ・ラインを推進したのである。これは、かつて井上財政が、金解禁・緊縮政策によって、産業の合理化を進め、国際競争力を強化して日本経済を真の繁栄に導こうとしたことと極めて類似している。前稿[39]で、井上財政を、20世紀資本主義の生産力保証政策と評価したのと同様に、ドッジ・ラインも、戦後日本の脆弱な企業、つまり、統制・補助金・対日援助・複数為替レートで温室的に保護され、国際競争力が著しく劣化している日本企業を、スパルタ的ハードトレーニングで鍛え直そうという生産力保証政策と位置づけることができるであろう。ドッジ自身も、日本経済は温室経済greenhouse economyであり、温室の窓に穴をあけるか、企業を水に放り込んで泳がせる必要があると書いている[40]。 井上準之助が進めた金解禁は、第一次大戦時に金との関係を一時断ちきられていた円を、ふたたび金と結びつける措置であり、ドッジによる単一為替レート設定も、対外価値が変動的であった円を、ドルを介して金と緩い関係を持たせる措置であった。ともに、対外均衡を維持するためには国内均衡を犠牲にする政策選択を余儀なくされる仕組みを持つことになる。つまり、円の対外価値が国際収支の不均衡(赤字)によって不安定になる場合には、国内経済政策(緊縮政策)によって国内総需要を調整(縮小)することが必要になる。これは、資本蓄積と階級宥和のために国内均衡を重視する20世紀資本主義としては、政策展開の自由度が、対外関係によって制約される状態であるから、好ましいことではないとされる。その意味では、井上財政もドッジ・ラインも、20世紀資本主義とは不適合な面を持っているが、ともに、国際競争力の劣化という日本経済の再生産の危機に直面しての対応であり、生産力保証を最優先とする手段選択と見れば、20世紀資本主義的政策として評価することができる。 井上準之助が新平価解禁論を受け入れずにデフレ効果が強い旧平価解禁を選択したこと、そして、ドッジが、当初は、360円ではなく企業にはより厳しい330円レートを選んだことは、ともに、それが企業の合理化、生産性向上を一層強く要請する選択である点で共通している。20年の歳月をおいて、ふたつの緊縮政策は、おなじ政策目的を持って展開されたのであった。 iii) 小状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 インフレーションの抑制、経済復興と自立という課題に対して、ドッジ・ラインはどのように評価されるであろうか。浅井良夫の整理によれば[41]、鈴木武雄がマルクス経済学的な均衡財政論にたってドッジ・ラインを高く評価するのに対して、中村隆英はインフレ抑制が成功したのは実態経済面での条件が「中間安定」期までに整えられていたからであると主張し、インフレ抑制一本槍のドッジよりも生産復興とインフレ抑制を同時に推進しようとしたシャーウッド・ファインらの議論の方が「発想がより精緻」であったと評価し、ウイリアム・ボーデンは、ドッジ・ラインは物価にはあまり影響を与えず、むしろ産業復興を遅らせたと批判的な評価をくだしている。 ドッジ・ラインのインフレ抑制効果については、ディック・ナントも疑問を提出しており[42]、ドッジ来日以前から、物価の騰勢が衰える兆しが現れていたことは事実として確認されている。したがって、とめどないインフレが、ドッジ・ラインによってようやく抑制されたという理解は誤りと言える。そこで、ドッジ・ラインが実施されなくてもインフレーションは終息したかということが問題になるが、この判断は難しい。物価騰貴のみを対象とすると、1948年度の実質国民総生産が戦前(1934-36年)の85%程度にまで回復してきていたこと[43]を考えると、超緊縮政策がとられなくても、2〜3年で騰勢は収まった可能性はあろう。ただし、これは、朝鮮戦争が起こらなかった場合を想定したもので、ドッジ・ラインが実施されていなければ、特需ブームのなかで、物価がふたたび急騰した可能性は大きい。 短期間にインフレーションを抑制したのは、やはり、ドッジ・ラインの作用というべきであり、朝鮮戦争の影響下の物価抑制効果を合わせて考えれば、ドッジ・ラインは、インフレーション抑制に大きな役割を果たしたと評価することができる。 では、ボーデンのような、ドッジ・ラインは産業復興を遅らせたという評価は正当であろうか。朝鮮戦争が起こらなかったと仮定した場合に、ドッジ・ラインがもたらしたいわゆる安定恐慌が、日本経済にどれほどの打撃をもたらしたかを推測すると、ボーデンの評価も当たっているかもしれない。しかし、ドッジ自身は、自らの政策を、デフレ政策ではなくディスインフレ政策であると規定していた。渡辺武大蔵大臣官房長に対して、1949年度予算は、「deflationにならぬ程度のdisinflationを目途としている」と語っているし、池田蔵相の補助金撤廃提案に対して「補助金の減額には賛成であるが、今直ちに実行せんとするのは肺炎患者から酸素吸入をとって了ふやうなもので、完全な自由経済をすぐにやるわけには行かぬ」と反対しているところからすると、ドッジは、主観的には、「安定恐慌」のような事態の発生は避けようとしていたと言えよう[44]。ドッジは、復興金融金庫の新規貸付は停止させたが、見返資金特別会計からの生産的資金供給の道は開いたし、財政緊縮効果を日本銀行の資金供給増加によって緩和させることも初年度については容認したのであるから、政策として徹底的な緊縮、デフレ政策をとったわけではない。しかしながら、現実には、ドッジも予測していた世界経済の後退局面が続き、行政整理・企業整理が進む中で、ドッジ・ラインのデフレ効果は、強烈に現れたのである。この結果としての「安定恐慌」から、ドッジ・ラインを「産業復興を遅らせた」政策と評価するのは、いささかドッジには酷であろう。 B C時空変化後の政策対応の合理性−朝鮮戦争への対応 20年前の井上財政が、世界恐慌と満州事変の勃発によって政策としては継続不能に陥ったのとは異なって、ドッジ・ラインは、朝鮮戦争の勃発によって、結果としての「安定恐慌」状態から脱出し、政策として継続することが可能になった。 特需ブームの中で物価騰貴が再燃する可能性が出てきたときに、ドッジ・ラインが継続されたことは、物価をある程度安定させる効果を持ったと評価できる。ドッジは、状況が変化した後も、財政については緊縮、国民生活については倹約、企業に対しては合理化を説き続けた。1950年10月に来日した時に、ドッジは明治大学の70周年記念式典に出席して講演を行ったが、そのなかでは、現在の情勢にたいする過度の楽観主義over-optimismは危険であることを指摘し、この過度の楽観主義が、紙幣の刷り増しや公私の負債増加を是とするような考え方を生むとすると、将来、1930年代の日本資源への過大評価がもたらしたものとは異なった形の災厄がもたらされるであろうと警告している[45]。緊縮路線を捨てた場合にもたらされる災厄とはなにかをドッジは明言していないが、世界経済のなかで自立困難なまま、再生産の危機に陥る日本経済を想定していたのであろう。 緊縮路線を固持しながら、ドッジは、米穀統制の撤廃提案に反対したように、状況の変化への敏感な反応を示した。この反応は、朝鮮戦争が長期化する場合を想定して食糧危機の発生を避けようという判断に基づくものと思われるが、結果としては、朝鮮戦争は短期に終結し、ドッジの反対は、その後長く食糧管理制度を存続させることになった。このことの評価には、別の議論が必要であるから、ここでは保留しておこう。 朝鮮戦争がもたらした特需ブームによって、日本経済は、復興への手がかりを掴み、1951年には実質国民総生産や鉱工業生産が戦前水準(1934-36年平均)を越えた。ドッジ・ラインが目指した経済復興はほぼ達成され、ドル建ての経常収支は大幅な黒字を計上して、経済自立も一時的には実現した。日本(沖縄を除く)に対するガリオア援助は、1951年度限りで打ち切られたから[46]、アメリカの納税者の負担軽減という目標も実現されたことになる。 ここにいたるまでに、ドッジ・ラインがどのような役割を果たしたかを評価することは、朝鮮戦争というドッジ・ラインにとってはC時空において生じた変化の及ぼした影響が極めて大きいから、かなり難しい。一般論としては、ドッジ・ライン下において企業が生き残りをかけておこなった合理化努力が、特需ブームの時期以降に成果を結んだと見ることはできるであろう。あるいは、一人当たり労働生産性が1951年に戦前水準(1934-36年平均)を越えたのに対して、一人当たり個人消費はようやく1953年に戦前水準に達したという推計[47]を、ドッジ・ラインの狙いとした国内消費の抑制と生産性の向上が成功した結果と読むこともできるかもしれない。より広く見れば、ドッジ・ラインが、国際関係においても国内関係においても、統制経済から市場経済への移行を推進した結果として、日本経済が復興から自立へと向かうことができたと評価することもできよう。 朝鮮戦争というC時空変化に負うところが大きいとしても、経済安定・経済自立政策としてのドッジ・ラインが果たした役割は高く評価すべきである。
5 むすび 現在までのところドッジを書名に掲げた唯一の刊行書である杉田米行とマリー・トーステンの共著では、ドッジは、日本におけるマッカーサーの権威を守るために「汚れ役fall guy」を演じたと評されている[48]。「ドッジは、最高司令官の上に落ちるであろう雷を引き寄せる避雷針の役割を引き受けた」というわけで、ドッジ・ラインがもたらす不愉快な結果は全てドッジが責任をとることによって、マッカーサーの名声を守るのが、ドッジの任務であったという評価である。面白い評価で、結果的には当たっている面もあるが、アメリカ政府のドッジ派遣の意図がそこにあったとは言えない。一方で、杉田とトーステンは、ドッジは、単にひとつのラインLineを引いたのではなく、日米関係が20世紀後半期における最も強力な経済関係を形成するための幅広い地政学的構造a broader geometric configuration of political logicを創りだしたとも評価している[49]。この評価は支持できる。 ドッジは、朝鮮戦争の恩恵で総合収支が黒字になった日本が、経済自立を達成したとは見ていなかった。特需に支えられた黒字には永続性があるはずはなく、対日援助が無くなり、さらに、中国貿易が断たれた後に、日本の国際収支が均衡する保証はなかった。GHQも日本側も、この点に危惧をいだいて、アメリカ対日援助打ち切り後にも、継続的にドル供給が行われるような仕組みをつくり出そうとした。これが、「日米経済協力」構想であった。 「日米経済協力」構想の歴史経緯は複雑であるが、中村隆英、浅井良夫らの研究によってかなり解明されてきた[50]。出発点は、朝鮮戦争のなかで日本の潜在的な軍需生産能力を動員してアメリカの軍需動員体制を補完するという軍事色の濃い構想であったが、同時に、アメリカのドル建て発注を対日援助の代替にする意図を含んでいた。1951年4月にはGHQ経済科学局のマーカット局長がワシントンに出張して、構想の具体化について本国政府と折衝し、日本がアメリカの緊急調達計画に参加できるという経済協力の基本線を確認した。この際に、ドッジもワシントンでマーカットと会談し、日米経済協力構想を支持するとともにその実現に協力した[51]。その後も、ドッジは、講和後の日米経済協力関係についての公式覚書の策定にかかわり、さらに、トルーマン政権での日本経済問題に関する国務省顧問としても、あるいは、アイゼンハワー政権の予算局長官に就任してからも、日米の経済協力について積極的に発言した。もちろん、対日援助を松葉杖の1本と言ってそれへの依存を批判したドッジであるから、日米経済協力構想で、日本がアメリカの緊急調達計画に過度に依存することには賛成せず、あくまでも、品質と価格の競争をベースとする経済関係の樹立を促進しようとした。このために、ドッジは、機会あるごとに日本が緊縮政策を取るべきことを主張し続けた。 まさに、ドッジは、ドッジ・ラインを実施しただけではなく、その後の日本経済が、アメリカ経済との関係を安定的に持続することのために尽力したのである。これは、ションバーガーが指摘するように、日本経済はアメリカ経済圏の中に再統合されねばならないThe Japanese economy had to be reintegrated into the American economic orbit[52]という観点からの、「精力的なナショナリスト」ドッジの行動であった。 ドッジは、日本資本主義が直面していた大・中・小状況「場」に規定された課題に対して、極めて的確な合理的な政策を実行すると同時に、アメリカ資本主義が直面した課題に対しても、合理的な政策を選択したと評価することができよう。
【付記】 青山学院大学経済学会が、『青山経済論集』で名誉教授記念号を特集してくださったことに深く感謝申し上げるとともに、「経済政策史のケース・スタディ」シリーズの第3作の掲載をお認めくださったことに重ねて感謝したい。 このシリ−ズ最終作は、後半を北京日本学研究センターに派遣教授として赴任中に仕上げることとなった。手許資料の制約から細部の詰めが弱い部分が残ったことと、歴史に於ける必然と偶然の問題を最後に論ずる予定が、紙数と時間の制約で果たしえなかったことが残念である。これらは宿題として別の機会に譲りたい。 経済学部在職40年間に、知的営為を共にした同僚と学生諸君、知的営為を支えてくださった職員の皆さまに、この場をお借りして、厚く御礼申し上げたい。 [1] 「経済政策史のケース・スタディ−松方財政−」『青山経済論集』第54卷第3号、2002年12月。「経済政策史のケース・スタディ−井上財政−」『青山経済論集』第54卷第4号、2003年3月。 [2] 対日占領政策の転換過程についての筆者の分析は、『日本占領の経済政策史的研究』2002年、日本経済評論社、第3章に略述した。詳しくは、通商産業省通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』2 第I期戦後復興期(1)(1991年、通商産業調査会)の第1章参照。 [3] 20世紀資本主義あるいは国家独占資本主義、現代資本主義をどのように規定するかについては、諸説がある。筆者の見方は、『戦間期日本の経済政策史的研究』2003年、東京大学出版会、第2章で提示した。 [4] 前掲『日本占領の経済政策史的研究』第8章、270-271頁参照。 [5] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第8章参照。 [6] 国民経済研究協会の推定数値。安藤良雄編『近代日本経済史要覧』第2版(1979年、東京大学出版会)150頁。 [7] 塩野谷祐一「占領期経済政策論の類型」、荒憲治郎他編『戦後経済政策論の争点』1980年、勁草書房所収。 [8] ドッジ・ラインについての研究は別として、ドッジ個人の名をタイトルに含む研究書として公刊されているのは、管見の限りでは次の1書のみである。Yoneyuki Sugita & Marie Thorsten, Beyond the Line: Joseph Dodge and the Geometry of Power in US-Japan Relations, 1949-1952, 1999, University Education Press(大学教育出版,岡山市).
[9] H.B.ショーンバーガー(宮崎章訳)『占領1945〜1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』1994年、時事通信社、245頁。原文は、Howard B. Schonberger, Aftermath of War Americans and the Remaking of Japan, 1945-1952, 1989, The Kent State University Press, p.199. [10] ジョセフ・ヱム・ドツジ氏著『事業経営者の道 外貳篇』、帝国銀行調査部『帝銀旬報附録』、1950年7月。これは、帝国銀行調査部がデトロイト銀行月刊機関誌The Tellerへの寄稿論文を翻訳したもので、ドッジは、「克明な補正を加えた上」で論文を提供したという。本書の存在は、伊牟田敏充・黒羽雅子両氏にお教えいただいた。 [11] 「銀行及び事業經營について」(執筆年不詳)、同上書49頁。 [12] 同、51頁。 [13] 「事業経營者の道」(1939年)、同上書45頁。 [14] 前出「銀行及び事業経營について」、同上書61頁。 [15] 前出「事業経營者の道」、同上書28-29頁。 [16] 前出「銀行及び事業経營について」、同上書66-67頁。 [17] Notes on Inflation, by Joseph M. Dodge. Dodge Papers, Japan 1949, Box 6, Folder: Inflation Notes. ここでドッジが参照しているのは次の4種である。Bresciani-Turroni, The Economics of Inflation; Leon Dupres, The Monetary Reconstruction in Belgium; Bruno Foa, The Monetary Reconstruction in Italy; Pierre Dieterlen and Charles Rist, The Monetary Problems of France. [18] Comments on The Inflation Problem, by Joseph M. Dodge. Dodge Papers, Japan 1949, Box 7, Folder: General Notes—Comments. [19] ショーンバーガー前提書245頁、p.200。 [20] Letter from Dodge to Marquat, September 9, 1949. Dodge Papers, Japan 1949, Box 2, Folder: Correspondence—Marquat. この手紙に言及した研究は、Sugita & Thorsten前掲書が最初である(p.37)。 [21] Letter from Marquat to Dodge, August 24, 1949. op.cit. [22] 大蔵省財政史室編(三和良一執筆)『昭和財政史−終戦から講和まで−』第2卷独占禁止、(1982年、東洋経済新報社)第4章参照。 [23] 以下、ドッジ派遣までの叙述については、前掲『通商産業政策史』第2巻、159-172頁参照。 [24] 鈴木武雄『金融緊急措置とドッジ・ライン』1970年、清明会出版部、241頁。 [25] ドッジ・ラインの研究書・論文は、前出の塩野谷祐一、Y.Sugita & M.Thorsten、H.B.Schonberger、鈴木武雄、三和良一のほかに、下記がある。鈴木武雄『現代日本財政史』第3卷(1960年、東京大学出版会)、中村隆英「金融政策」大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第12卷金融(1)(1976年、東洋経済新報社)、大蔵省財政史室編(秦郁彦執筆)『昭和財政史―終戦から講和まで−』第3巻アメリカの対日占領政策(1976年、東洋経済新報社)、塩野谷祐一「物価」大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第10卷国庫制度国庫収支・物価・給与・資金運用部資金(1980年、東洋経済新報社)、D.K.Nanto, The Dodge Line: A Reevaluation, O.J.McDiarmid, The Dodge and Young Mission, H.Schonberger, The Dodge Mission and American Diplomacy, 1949-1950, L.H.Redford ed.,The Occupation of Japan – Economic Policy and Reform, The Proceedings of a Symposium Sponsored by the MacArthur Memorial, April 13-15, 1978, 1980 The MacArthur Memorial、江見康一「第六章昭和二四年度予算編成ならびに二四年度決算について」「第七章昭和二五年度予算編成ならびに二五年度決算について」「第八章昭和二六年度予算編成ならびに二六年度決算について」大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第5卷歳計(1)(1982年、東洋経済新報社)、日本銀行百年史編纂委員会編『日本銀行百年史』第五卷(1985年、日本銀行)、伊藤正直「第5章第3節外貨・為替管理と単一為替レートの設定」通商産業省通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』4第I期戦後復興期(3)(1990年、通商産業調査会)、山崎廣明「第2章日本経済の再建と商工・通商産業政策の基調」通商産業省通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』2 第I期戦後復興期(1)(1991年、通商産業調査会)、香西泰・寺西重郎編『戦後日本の経済改革』(1993年、東京大学出版会)、浅井良夫『戦後改革と民主主義』(2001年、吉川弘文館)、浅井良夫「1950年代の特需について(1)(2)(3)」(成城大学『経済研究』第158〜160号、2002年11月、2003年1月・3月)。 [26] 専門家チームは、財務省・国務省・陸軍省から各1名、コーネル大学とラトガース大学の2名の財政学者とヤング勧告を作成した連邦準備制度理事会調査統計局のR.ヤングYoungの6名で構成されていた。 [27] 前掲、大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第5卷歳計(1)、394-395頁。 [28] Supplementary Budget Policy Recommendations, by J.M.Dodge, March 22, 1949. Dodge Papers, Japan 1949, Box 2, Folder: Budget Policy. 日本銀行金融研究所編集『日本金融史資料 昭和続編』第25卷、SCAP関係資料(2)、273-277頁所収。
[29] 前掲、伊藤正直「第5章第3節外貨・為替管理と単一為替レートの設定」通商産業省通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史』4、333頁。以下の単一為替レート関連の記述は、特記以外は同書による。 [30] 前掲、大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第5卷歳計(1)、400頁。 [31] Memorandum, by J.M.Dodge, Undated. Dodge Papers, Japan 1949, Box9 Folder: Program Material Official Memos. 前掲、日本銀行金融研究所編集『日本金融史資料 昭和続編』第25卷、SCAP関係資料(2)、756-760頁所収。このメモは、大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第20卷英文資料(1982年、東洋経済新報社)の625-626頁にもドッジが送った電信として収録されているが、原資料は検討メモである。 [32] 前掲、大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第12卷金融(1)、450-457頁。 [33] 池田勇人『均衡財政』1952年、実業之日本社、280頁。 [34] 1949年3月1日のドッジ・池田会談での発言。渡辺武『対占領軍交渉秘録 渡辺武日記』1983年、東洋経済新報社、319頁。 [35] 『経済白書』昭和25・30年度版の数値。前掲、安藤良雄編『近代日本経済史要覧』第2版、153、160頁。 [36] 1949年4月2日の池田蔵相との会談での発言。前掲、渡辺武『渡辺武日記』340頁。 [37] 岡崎哲二・吉川洋「戦後インフレーションとドッジ・ライン」、前掲、香西泰・寺西重郎編『戦後日本の経済改革』、82頁。 [38] Letter from Dodge to Ikeda, August 9,1949. Dodge Papers, Japan 1949, Box 6, Folder: Ikeda Letter. 前掲、大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第20卷英文資料、777-781頁、前掲、日本銀行金融研究所編『日本金融史資料 昭和続編』第25卷、314-321頁に所収。日本語訳文は、前掲、大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで−』第3卷、425-426頁による。 [39] 前掲、「経済政策史のケース・スタディ−井上財政−」。この評価は、1980年の社会経済史学会大会報告で最初に提起し、その文章化は、拙稿「経済政策体系」(社会経済史学会編『1930年代の日本経済』1982年、東京大学出版会、所収。前掲、『戦間期日本の経済政策史的研究』第10章に収録)でおこなった。 [40] Summary of Meeting with Finance Minister Ikeda, by J.M.Dodge, March 4, 1949. Dodge Papers, Japan 1949, Box 1, Folder: Budget Ikeda Interviews. 前掲、大蔵省財政史室編『昭和財政史−終戦から講和まで−』第20卷、759頁。この部分の最初の引用は、Sugita & Thorsten前掲書、p.79。 [41] 前掲、浅井良夫『戦後改革と民主主義』163頁。 [42] 前掲、D.K.Nanto, The Dodge Line: Reevaluation. [43] 経済企画庁『国民所得白書』(1965年版)の数値による。 [44] ドッジの発言は、1949年3月19日、同年4月2日のもので、前掲、渡辺武『渡辺日記』330、340頁による。 [45] 『七十周年記念祝典に於けるジョセフ・エム・ドッジ氏の講演』1950年12月、明治大学、7頁。11月17日の講演の英文から引用。なお、本書の閲覧に際しては、明治大学大学史資料センターの村松玄太氏にお世話になった。ここで感謝申し上げたい。 [46] ガリオア援助打ち切りにいたる経緯は、前掲、浅井良夫「1950年代の特需について(2)」で詳しく分析されている。浅井のこの連載論文は、特需に関する最新の優れた研究である。 [47] 稲葉秀三・大来佐武郎・向坂正男監修『講座日本経済』1、前掲、安藤良雄編『近代日本経済史要覧』第2版、154頁による。 [48] Sugita & Thorsten前掲書、p.37。 [49] 同上書、p.38。 [50] 中村隆英「日米『経済協力』関係の形成」『近代日本研究 4太平洋戦争』1982年、山川出版社。前掲、浅井良夫「1950年代の特需について(3)」。 [51] ショーンバーガー前掲書、279頁。以下のドッジの動きについても、同書による。 [52] H.B.Schonberger, Aftermath of War, p.233. |