『青山経済論集』第
54卷第1号 20026月所収


書評 橋本寿朗『近代日本経済史』『現代日本経済史』『戦後日本経済の成長構造』

三和良一・上田章・杉浦勢之

 1 追 悼

 2002115日、橋本寿朗さんが急逝された。20011217日、日本経営史研究所の忘年会のときには、痛風でアルコ−ルを控えていると言いながら、ワインを楽しみ、元気そうに談笑しておられたのだから、訃報のメールを開いたときの驚きは言葉にならない。最近作の『戦後日本経済の成長構造』を送っていただいたお礼のメール(20011222日)には、『現代日本経済史』を大学院で輪読したときに気づいた問題点を添付し、すこし挑発的な小論(三和『日本近代の経済政策史的研究』の序章原稿)もぶら下げた。そろそろ返信が来るかと心待ちにしていたときの訃報は、私達3人の耐え難い悲しみとなった。

 血管系の疾患が発見されなかった不運への怒りをどこにぶつけるべきかは分からないが、この不運が、ご家族へは限りない悲嘆を、研究者たちには取り返しのつかない損失をもたらした。日本経済史と日本経済論の分野で、つねに先端的な論陣を張り続けてきた橋本さんは、研究姿勢も厳しく、遠慮のない批判者でもあったから、毀誉褒貶も人並みではなかった。しかし、橋本さんの作品から大なり小なりの影響を受けなかったと言える近現代日本研究者は少ないのではないか。あるいは、橋本さんと身近に接して、その強烈な個性に魅力にせよ反発にせよ感じなかった人もいないのではなかろうか。この個性が、どのような新しい経済史・経済論を切り開いて見せてくれるのか、楽しみにしていたのは私達3人だけではなかろう。

 橋本さんが新しい世界を示してくれることはもう無い。ここまでに開かれた橋本的世界を追体験するなかから、橋本さんが何を見せてくれそうだったか推測することしか、私達には残されていない。厖大な業績を残した橋本さんの世界を追うことは、気が遠くなりそうに難しい。ある時には北一輝への親和性を、ある時には車谷長吉への共感を語っていた橋本さんの感性まで含めて、その世界全体を理解することともなれば、ほとんど不可能のように思える。ひとまず、私達3人にできることは、提示された近作で、橋本さんが語ろうとしたことを把握しておくことである。

 橋本さんの作品のなかで、単著として刊行されたものは、『大恐慌期の日本資本主義』(東京大学出版会、1984年)、『日本経済論』(ミネルヴァ書房、1991年)、『戦後の日本経済』(岩波書店、1995年)、『近代日本経済史』(岩波書店、2000年、共著であるが大部分を執筆)、『現代日本経済史』(岩波書店、2000年)、『戦後日本経済の成長構造』(有斐閣、2001年)、『デフレの進行をどう読むか』(岩波書店、2002年)の7冊である(正確には、『日本経済論』の中国語訳と韓国語訳の2冊もある)。このうち『大恐慌期の日本資本主義』については、三和が書評(『史学雑誌』94-101985年)を書いたことがあるし、『日本経済論』と『戦後の日本経済』はやや刊行が古い。そこで、届けられたばかりの遺作『デフレの進行をどう読むか』は除いて、2000年以降刊行の3著を対象に、橋本さんの世界を探ることにする。もちろん、これらの単著以外の重要論考は数多いが、それらは行論の必要に応じて参照するに留めたい(なお、橋本論文について三和が評したものには下記の書評4点がある。橋本寿朗・武田晴人編『両大戦間期日本のカルテル』[『経済学論集』52-21986年]、大石嘉一郎編『日本帝国主義史2 世界大恐慌期』[『社会科学研究』40-51989年]、馬場宏二編『シリ−ズ世界経済IV 日本−盲目的成長の帰結』[『社会科学研究』43-21991年]、法政大学産業情報センター・橋本寿朗・武田晴人編『日本経済の発展と企業集団』[『経済学論集』58-31992年])。

 3人が分担する書評のかたちを取りながら、橋本さんへ追悼の祈りを捧げることが、私達の気持ちである。読んでもらうことのできない書評を書くのはつらい。悲しみを共にする方々と、橋本さんの学問を語り、継承するよすがになれば、悲しみも多少は軽くなることを念じるまでである。                                 (三和良一)

 

          2 『近代日本経済史』            

評者が橋本寿朗氏にはじめてお会いしたとき、氏はすでに『大恐慌期の日本資本主義』を上梓されており、経済史の地平から、宇野経済学の新たな可能性を切り拓きつつある「最強の論客」としての定評を得ていた。しかし、目の前にした橋本氏は、そのような印象とは全く異なり、ときに人懐こそうに目を細め、いたずらっぽく笑う、やんちゃな大人という風情であった。これが論争となれば相手を完膚なきまでに叩きのめすと言われていた橋本寿朗なのか、そのときの落差の感覚は、今でも鮮やかに残っている。その後、論客としての橋本氏の迫力を目の当たりにする機会をいくどかもったが、どこか居心地が悪そうで、ふっとそんな自分を持て余しているかのようにシャイな表情を浮かべる氏の姿には、何時も最初にお会いしたときの、あの少年の表情が翳めていた。

おそらく橋本氏とはそういう人であり、そうであればこそ、橋本氏の業績が、狭い学会という範囲を越え、あれほどに多くの人々を惹きつけたのであろう。橋本氏との会話で忘れらないものはいくつもあるが、東大社研の氏の部屋を訪れたときのこと、これから大学改革が進んでいくので、研究は続けるつもりではいるものの、そちらのほうにかなり力を割かれることになるかもしれない、というようなことを四方山話の中でお話ししたことがある。当然学内行政などはそこそこにして、研究に精進せよとのお定まりの叱責を覚悟してのことであったが、氏は何時になく真面目な顔で評者を見つめながら、「そう決めたならそれでいいんじゃないか。それは人生の選択だから」と静かに言われ、「選択だから」という言葉をもう一度しみじみと繰り返された。それからほどなく氏は東大を去られ、法政大学に移られた。その後のご報告がてら、氏の選択についてのお話しもうかがいたいと思っていた矢先、突然の訃報が伝えられた。こうしてその時の心優しい表情が評者にとっての最後の橋本氏となってしまった。氏は学問に対し真摯な人であったが、それ以上に現場で苦闘する人間に対する優しさを持ちつづけていた。学問を必要以上に高いものとしてみる人ではなかった。前衛的であったり、進歩的であったりすることは少しも望まなかったことと思う。

個人的な思い出からこの書評を始めたのにはわけがある。橋本氏の著作に触れるとき、何時も感じさせられたことは、その文体が氏の生理に根ざしたものだということであった。該博な知識と、強靭な論理によって読むものを圧倒し、そのコンテクストを追いつづけることには、ある種の息苦しさがともなった。馴染みのある概念が駆使されているのだが、それらが配列されると、そこには橋本寿朗の世界が生まれ、馴染み深かったはずの概念は、氏の手さばきによって安易な流用を許さないまでに扱いにくいものとなっていた。

おそらく氏は、頭で考えるのではなく、自己の生理を通じて対象を噛み砕いていたのではないであろうか。氏は宇野派の若きチャンピオンとして登場したが、その後の氏の研究の流れを追っていくと、氏にとって理論は、現実に肉迫していくための武器に過ぎなかったということがわかる。使いものにならない武器を研ぎ澄ましながら、ほれぼれとする趣味はなかったに違いない。(もちろんフッサールのように、確かなものを追いつづけ、認識論の世界から一歩も出られなかったということがあってもいいだろう。しかしそれをフッサールは、少年の日にプレゼントされたナイフの刃金部分を研ぎ減らしてしまった思い出にひきつけて哀しげに語ったという。フッサールはそれが自らにとっての生理に根ざした運命であったと言いたかったのであろう)。確かに論理がそれ自体として持つリアリティーというものがある。しかし橋本氏には、現実の人々との出会いの持つそれ以上のリアリティーがあったのではないだろうか。

かつて氏は、『大恐慌期の日本資本主義』において、宇野経済学の原理論と段階論との結節部分の盲点をつき、資本蓄積論と労使関係論を結合し、歴史分析に鮮やかに適用してみせた。膨大な実証研究と鋭い理論の発展は、日本経済史学のみならず、宇野経済学にとっての新たな可能性を予感させるに十分なものであった。このときまでの橋本氏は、確かに論理的要請によって問題を設定していたように思う。しかしその後の氏の軌跡は、けっして宇野派のプリンスとしてのものではなかった。『大恐慌期』に反発した人々は言うにおよばず、かつてその鮮やかな論理裁きに感嘆した者もまた、次第に当惑を覚えていくようになった。橋本寿朗は一体どこに向かっているのだろうか、との声も聞かれた。氏の議論を日本型資本主義の賛美論と捉え、嫌悪する向きすらあった。

しかしそんな声も、東欧においてロシア型社会主義の政権がつぎつぎに崩壊していく中でかき消されていった。マルクス派経済史学が自信喪失をみせ、実証研究に立てこもる中、橋本氏のみは精力的に自己の世界を広げていった。その用語の中には、制度派やときに新古典派と共通するものもあったが、ここでも宇野派と同様の事態が起きていたように思う。一見慣れ親しんだ用語に触れ、橋本氏との共通項を見出した近代経済学派もまた、氏の論理の扱いにくさに閉口していったのではなかろうか。本書の「はしがき」において、氏は「『日本経済史』の書き手が世界経済史のモデルとなった社会の住人と自分を同一視する」ことに強い「違和感」があったと述べている。おそらくこの点は、経済学全般の書き手に対してもそうだったのではないであろうか。橋本氏の理論使用が恣意的に過ぎるとの批判があったとも仄聞する。そのような批判者の目には、氏の理論展開がアングロ・サクソン的なコンテクストから逸脱したもののように見えていたのであろう。しかし氏が生涯にわたって課題としてきたものは、2世紀にわたる2つの世界システムに、日本がどのように対応したのか、その過程でどのような努力が払われ、その努力が日本的な洗練を通じ、どのように熟練として経済の担い手の中に身体化されていったのかを明らかにすることであった。そのような課題が、「横」のものを「縦」にする議論で済まされるわけはない。背負わされたものがもともと違うのである。

私事におよんで恐縮ではあるが、マルクス派経済史学が東欧で起きている事態にまったく沈黙してしまっていたころ、評者はそのこと自体に驚きを感じ、尊敬する少数の先学に対し、何のために歴史学を研究するのか、と問うたことがあった。いまから考えると若気の至りで、冷や汗ものであるが、お尋ねした方々からは、それぞれ真摯なご返答をいただくことができた。その中に橋本氏もいた。

評者は、経済史学は価値中立的であることはできないと考えている。歴史に恣意を持ち込んだり、事実を軽んじていいという意味ではない。しかし経済史学が、現実の社会や歴史に力を持ちうるのは、何らかのかたちで歴史的な主体を研究当事主体が立てこむかぎりでであると思う。我が「我々」としてある可能性を排除してしまえば、それこそ単なる恣意に過ぎないということになろう。それが市民なのか、国民なのか、プロレタリアートなのか、あるいは大衆なのかは、選択の問題ではない。それは歴史研究者にとってのリアリティーの問題であり、そこには歴史研究者自身の「歴史内存在」ないしは歴史への被投企性、歴史拘束性があるのだと思う。歴史に客観的立場という安全地帯はあり得ない。我々は生まれながらにある歴史的な身体性、生理を与えられており、研究者だけがそのことから無縁で自由であることはできない。この意味で、歴史研究者が誰に向けて語っているのか、ということは、大変重要なことといえる。それは何をもって歴史の主体と考えているかを語っているのとも同じことであるはずだからである。歴史家はそれ自体歴史の所産であり、自らがウロボロスの結節であることを自覚したとき初めて、歴史学は現実の歴史の生成に関与することができる。そのためにこそ歴史家には、強い自律性と絶えざる価値相対化が問われるのである。ましてや経済史学は、措定された時間の違う経済と歴史の「相補性」というやっかいな宿命を自らに課した学である。「ヒステリシス」などといって何かを語った気になることが許される世界ではない。

そんな問題関心があってのことであったが、橋本氏からは、このとき直截な返答をいただいたという記憶はない。しかし若干の会話などを通じ、氏にはある手ごたえがあるのだな、ということは察することができた。それが何か普遍的なものであると橋本氏は考えていなかったかもしれない。しかし氏にとっては確かなリアリティーとして生理において感じられるものだったのであろう。評者はそれが、日本の企業の中で自分に運命として与えられた課題に忠実でありつづけようとしたサラリーマンたち(経営者であろうと現場の労働者であろうと)の原イメージであったと想像する。彼らは自己の所属する企業に特殊な言語でしか語らない。それらの言葉を歴史的に発見し、一般化し、普遍化していくこと、おそらくそこに氏は自己の歴史への参加の機縁を見ていたのではないであろうか。まただからこそ、ヘーゲル流にいえば、氏と関わった多くの企業人が氏の仕事に自己の歴史的表現を見出し、ファンになっていったのではないであろうか。

こういった経緯もあって、長らく橋本氏の明治期についてのまとまった歴史像に接してみたいと思っていた。氏が共感する歴史の担い手が現われてくるのは、言うまでもなく両大戦間期、重化学工業化を通じ、日本においても大企業体制が問われることになったころからである。評者としては、それに先行する明治期を、氏がどのように描き出すのかを知りたかったのである。明治期に対してどのようなスタンスをとるか、ということは、資本主義世界システムへの包摂が、日本人にとってどのような意味を持っていたかを考えることと同義といってもよい。いささか意地悪く言えば、橋本氏が資本主義というシステムに最終的にどのような距離感を持っているのか、それを知ることができるだろうと期待してのことであった。本書は、そんな長年の評者の勝手な希望に、共同執筆の教科書というかたちではあれ、真正面から回答を与えてくれたのである。

常道にしたがって、まず本書の構成を紹介しておこう。

はしがき

 

 序章

 

第T部国際経済システムの形成と経済小国日本

 

第1章19世紀への緩やかな包摂

 

2章「政治革命」と西洋の輝ける文物

 

3章経済制度とインフラストラクチャーの整備

 

4章企業活動の興隆

 

5章市場経済化と家制度

 

第U部パックス・ブリタニカへのコミットと債務危機

 

第6章パックス・ブリタニカへのコミット

 

7章企業勃興と財閥

 

8章日清・日露戦後経営と財政赤字

 

第V部温室のなかの経済発展と末席の列強

 

9章パックス・ブリタニカの崩壊

 

10章空前の好況と商社の活躍

 

11章重化学工業化の進展

 

12章財閥のコンツェルン化と労働運動の台頭

 

13章大衆生活の洋風化と社会事業行政の発展

 

14章末席の列強

 

あとがき

 本書が、著者の該博な知識の下、もっとも新しい知見を網羅した新しい教科書であることはいうまでもない。本来であれば、その一章ずつを取り上げ、個別に評価を論じることが筋であろう。しかし、本書評の意図はおそらくその点にはないし、紙幅の関係でそのような余裕も許されてはいない。そこで、各章の内容の紹介は思い切って省略し、本書の独創的な部分を指摘し、その後は本書のねらいと構成自身に的を絞りたい。そのことがもっとも評者が氏に求めていたものであり、またこの点において橋本氏にはまったく妥協がなかったからである。

 後述するように、本書が、これまでの近代日本経済史の教科書と比べ、もっとも独創的な点と思われる第一点は、近代日本の経済の歴史を国際政治経済システムとの連関において明らかにしようとしたことである。そのために重視されたのが、インフラ部分の導入およびその定着の過程である。貿易外収支を改善し正貨節約的な効果をもつネットワーク産業としての海運業、技術的波及性の著しく高い総合機械産業としての造船業、リスクマネージメント産業としての損保会社、情報メディア産業としての総合商社が特に大きく扱われ、19世紀システムから20世紀システムへの転換点に対する日本経済の対応のための情報の「導管」およびシステムの「軸」として描き出されている。これは個別には指摘されることはあっても、歴史的構造理解としては、従来の研究史では明示的に総合化されてこなかったものである。おそらく橋本氏がこのような着想を得たのは、工業化、重化学工業化につづく情報化という現代における最大の技術および産業構造変化の分析からであろう。氏は、当面経済史の守備範囲を重化学工業化後期の達成までに限定しているが、現代経済の変容を射程とすることによって、従来の綿業−鉄鋼業という基軸産業論を相対化し、自由主義段階−帝国主義あるいは独占段階という理解に対置するかたちで、新しい日本経済史像を再構成したものといえよう。評者としては、橋本氏によるこのような野心的なフレーム・ワークの提供に共感を覚えるものの、なおメディアとしての国際金融の契機が手薄であるとの印象をもった。産業史の研究と金融史の研究とが並行進化し、かならずしも稔り豊かな対話となってこなかったという学界的事情が、ここではいささか災いしているのかもしれない。

 ついでもう一点注目されたのは、第T部および第V部に配された生活過程の変貌についての叙述部分である。これはすでに三和良一などによって、両大戦間期の日本経済のマクロ的変化を考える上で重要であることが指摘され、社会史研究の発展とともに豊かな成果が生まれつつある。その後の幕末開港期の綿業についての経済史研究においても、需要構造の分析がきわめて重要であることが明らかになってきている。さらに事実上橋本氏が口火を切ったといってよい高度成長期日本の経済史的分析および現代日本経済についてのこの間における氏の研究業績は、日本経済史研究にとって生活過程および消費過程の分析が無視できないものであることを示した。氏が教科書という本書の性格を考え、この点に配慮をみせたことは、十分納得できる。しかしこの点は、より本質的な問題を含んでおり、これについては本書の構成とねらいとかかわらせて語ってみたい。

 本書のねらいについては、「はしがき」が簡潔に語ってくれている。それは冒頭の「副題を付けるとするなら、『適応と創造の1世紀』と題したい」という言葉にかかっている。日本近代の国際的環境としての政治経済システム=パックス・ブリタニカの盛衰に、@日本がどのように対応し、またA日本経済の発展が、どのような主体的努力の累積の結果として実現したのか、そしてこのような発展に対し、B人々の生活の安定への努力がどのようになされたのか、あるいはなされなかったかを問題とする、これが本書の目的であるとされる。

さりげない筆致に見落としがちであるが、ここには橋本氏自身の研究史の総括がこめられているといえよう。@は、従来日本経済史が、一国経済史に立てこもり、国際的契機が不十分であったことから、いわゆる「日本特殊論」に傾斜していった根拠ともなった部分についての反省であろう。宇野経済学における段階論のタイプ論的把握(鈴木・岩田世界資本主義論との対峙)についてのこれまでの論争史を踏まえれば、そこには若き日から橋本氏が温めつづけてきた問題意識の根が見出されよう。一方Aは、資本蓄積論から労使関係論への理論的包摂を進めながら、橋本氏自らが主導的に切り拓いてきた経営史の蓄積の上に、日本経済史の再構築をめざすことを宣言したものといってよい。この限りでは意外の感はなかった。注目されたのは、Bである。橋本氏の研究の流れにあって、これまでBのような視点が主題的に打ち出されたことはなかったのではないかと思われる。「あとがき」において氏は、社会に関わる領域と明治という時代を考慮し、大杉由香氏の協力を求めることとしたと述べている。これまで氏は、やや不得手な領域であったとしても、あっという間に対象を咀嚼し、自家薬篭中のものとしてきた。明治という時代は、やはりその橋本氏をもってしても、何がしか身構えざるを得ない時代だったのであろうか。あるいは最近になって、効率性に対し、公平性や安定性に重きをおく心境の変化が生まれたのであろうか。

橋本氏は、どのような論争の中にあっても、「問題の限定」ということに注意深い人であった。氏の研究については、これまで供給サイドおよび市場構造変化に関するミクロ的視点が強く、体制的な把握が弱いとの批判が付きまとってきた。論争においてときに氏が見せた苛立ちは、限定された課題に外部を対置する批判の安易さに対するものであったと思う。先述したように、教科書という本書の性格から、経済史の全体像を明らかにする必要に迫られたというのが、一つの理由であろう。だが理由はそれだけではなさそうである。もう少し、氏自身の言葉をフォローして考えてみよう。

氏は、3つのねらいを掲げた上で、その基本的立場について述べている。それはまず、先にも引用した、世界経済史の担い手である社会の住人かのようにして、高みから日本の経済史を語ることへの強い違和感から、日本経済史を学ぶということは、「自分の力で自分のこと、背負った歴史を考えること」であるとする。もう一つは日本経済史の中で展開されてきたたゆみなき努力を重視することだという。学生に向けて語っているが、橋本氏自身の日本経済史学に対する覚悟であることは容易にわかる。マルクス派経済史学と一線を画し、新古典派成長理論・開発論などにも迎合しない固有の日本経済史学の可能性、その立脚基盤を氏は語っているのである。

さらに序章において氏は、現在を過去に託すことと過去に縛られた記憶で現在に対応することとの二重の呪縛を解くことが経済史の課題であるとして、日々の繰り返しの中に「履歴の重さ」を感じること、一見昔と変わらないものに大きな変化を見、そこにどのような「ドラマ」が埋め込まれているかを知ること、社会的構成の変化と生活水準の変化が無名、匿名の人々のうむことのない創意工夫、努力の集積によって得られたという事実を大切に考えること、そして最後に我々の誰もがなんらかの傷を負った存在である以上、日本経済社会は人々にどのように生きる場を与えてきたか、ハンディキャップを持った人々を社会はいかに処遇してきたかを問うことを自己の課題であるとする。

このようにみてくれば、Bの視点が、単に全体に対する目配りから求められたものだったからでも、生産過程の分析にとって消費過程論深化の必要性が高まったからでもないことがわかる。氏は、日本経済史研究にとって、生活過程の変容と、その中に生きている、傷ついた人々の生の在りようを掬い上げることが不可欠なのだと意識していたのである。このような視点が橋本氏にどうしても必要であったのは何故であろうか。氏は語る。「電車のドアの迅速な開閉は日本社会の行動規律が高いことを示しているが、視点を変えてハンディキャップを背負った人々からみれば、厳しすぎる規律であろう。迅速とは効率的ということであるが、社会には効率を原理とした関係だけでは律しきれない面がある」。氏は無名、匿名の人々のたゆまざる努力に敬意を払い、また愛着も感じていた。しかしそのような無名、匿名の人々であってすら、競争社会の中で生き残ってきた人々であり、なんらかのかたちで歴史に選ばれた人々である。明治近代以後の日本の経済成長は、一方で選ばれなかった人々、無機質に開閉するドアの前で呆然と佇む人々を生み出した。ことの初めから誰でもがスタートラインに立てたわけではないのである。明治という時代の本質は、資本主義システムという「運命」が、仮借なく両者をわけ隔てていったということにある。そしてそれは今でも繰り返されているのである。われわれの社会の分岐点である明治を考えるとき、どのように経済の成長の秘密を探り当て、そこに人間の努力の結晶を見出したとしても、ある種の割り切れなさが付き纏うのはそのためである。

しかしこのことを頭で理解したとしても、体で実感することは難しい。そのことを本当にこの社会に突きつけたのは、少子高齢化の急速な進行であった。高齢化社会の到来は、これまで我々が「正常」で「自由」であるとしてきたものが、実は生産年齢期の身体能力を標準とした人生のせいぜい半分のことであったことを示した。そのような基準からすれば、我々の人生の前後する半分は、「不自由」であり、「異常」だということになってしまう。この意味で、この社会はいまや、誰もが「ハンディキャップ」を背負う者であることを宿命づけられた社会であるといえよう。そしてそのこと自体は、けっして否定されるべきことではないであろう。橋本氏の述べるように、そのような社会を創りあげてきたのは人々のたゆまぬ努力である。問題は、そのようにして築き上げられたシステムが、本当に人々の努力に報いるものになったのかどうかである。氏は、おそらくそのことを問い直したかったのであろう。

失礼を顧みずにいえば、氏が思い描いた歴史の主体は、おそらく重化学工業化段階の働き手の中心であった壮年の男性だったのではなかろうか。しかしその外部には、女性たちが存在し、子どもたちが存在し、老人が存在し、そして企業社会に受け入れられなかった、あるいは馴染むことのできなかった人々が存在した。残念ながら近代日本経済史は、これまでのところ、これらの人々の歴史とはなっていない。しかし高齢化社会の行方は、経済成長の歴史の担い手であった男性たちが、もう一度これらの人々と出会い直し、またその中に戻っていくことの必要をさし示しつつある。企業社会が社会を「内部化」するのではなく、社会が企業社会を「内部化」する時代が始まろうとしている。かつて氏の『現代日本経済』を学生向けに紹介した文章で、評者は、同書を「父たちが息子たちに語る経済史」として読んで欲しいと書いたことがある。本書では、氏は妻たち、老いた親たち、そして自分たちの老いについて語り始めているように思われる。そしてそれは、日本経済のたどりつつある過程と見事に重なり合う。本書の成立事情については、「あとがき」以上のことを詳らかにしないが、氏が共著者として女性であり、日本における社会事業史を専攻する大杉由香氏を選んだということには、そういった背景があったのではなかろうか。しかし氏は、その道を切り拓く途上で逝ってしまわれた。

橋本氏が常に、自己の生理に根ざす不可避的な場面から問題を設定してきたということはすでに指摘した。氏は衒学趣味や知識の競い合いとは無縁だった。氏が最後まで信じていたのは、同じような不可避的な場面に立ちつつ、声を発することなく黙々と事態に処する人々が現にこの社会にはいる、ということであったろう。不幸にして氏は、氏が愛して止まなかったそれらの人々の中に紛れることはできなかった。氏には、語ることのできる声と、語るべき内容が与えられていた。それが氏の背負った「現場」、ないしは「運命」であったのであろう。また氏は、日本の経済と歴史について、すべてを語っているとは思っていなかったに違いない。おそらく自己の実感が及ばない範囲が存在していることは十分承知していたであろう。だからこそ天性与えられたフットワークで、氏は自己の身体を鍛え、社会に対するアンテナを常に研ぎ澄ましていた。

頭で日本経済を理解した社会科学者はたくさんいるであろう。しかし身体で日本経済を実感できた社会科学者はそうはいない。氏ほど自己の身体に気を配っていた研究者を評者は知らない。氏とかかわった多くの人が、氏から今年は何キロ走って、何キロ泳いだ、という年賀状を受け取ったはずである。知における氏の強靭さは、自己の身体とのひたむきな対話によって支えられていた。黙々と走りつづける橋本寿朗、ひたすら泳ぎつづける(そして周りに対する配慮がなく、ルールを守らずに泳いでいる学生の頭を思わず水に押さえつけてしまう)橋本寿朗、それが氏の実態に最も近いものであったかもしれない。それはまた、日本経済の130年を支えた無数の人々の姿とも重なっている。氏の身体はすでに失われたが、氏が身体を通じて感受し、語ってきたことは、それらの人々に届いているに違いない。         (杉浦勢之)

 

          3 『現代日本経済史』

 『近代日本経済史』に続く『現代日本経済史』は、第1次大戦が終わったところからはじまる。この区切りは、第1次大戦前後で、国際政治経済システムが大きく変化し、パックス・ブリタニカという国際政治システムと自由貿易・金本位制・植民地支配を要とする経済システムが、決定的な崩壊の時期を迎えたという認識を基礎にしている。そして、『現代日本経済史』の記述は1960年代末までで終わる。これは、1970年代以降の時期は、世界経済の20世紀システムが動揺してグローバル化が進んだ新しい時代であり、日本経済史ではなく現代日本経済として分析すべきであるとの認識に基づいている。この対象時期の限定の仕方が、本書の大きな特徴のひとつである。橋本の日本経済史叙述は、縦軸の視点、比較の視点、横軸の視点が交差した点で日本経済を分析するという独自の方法からなされており、さらに、対象となる日本経済が国際関係の中に位置づけられていることを重視している。この国際関係重視から、『現代日本経済史』の対象範囲が、20世紀システムが働いていた時期に限定されたわけである。

 『現代日本経済史』は、第I部「世界大恐慌期に躍進する日本経済」、第II部「失われた20年−戦時計画経済と戦後改革」、第III部「20世紀システムの展開と高度経済成長」の3部で構成されている。この3部構成では、第II部が、戦時期と占領期とを合わせてひとつの部とされているのが特徴的で、これは、不足経済と計画経済という点で両時期が共通しているという見方によっている。類似のくくり方は、岩波日本経済史シリーズの第7巻、中村隆英編『「計画化」と「民主化」』でもおこなわれているが、橋本ほど明確な論拠によるものではない。とくに、不足経済という見方は橋本独自のものである。

I部では、「通貨・貿易システムの再建と世界大恐慌」(第1章)、「産業構造の重化学工業化と産業政策」(第2章)、「労使関係の安定化と入口が見えた大衆消費社会」(第3章)が取り上げられる。叙述は具体的で明確であるが、『大恐慌期の日本資本主義』で展開されたような理論的解析は控えられて、橋本の卓抜な発想である「日本資本主義の強靱性」については、文献参照指示に留めてある。『大恐慌期の日本資本主義』の切れ味の良さが凝縮して記述されることを期待する読者には、すこし、不満が残るかもしれない。この点は、後に問題にしよう。

表現力豊かな橋本は、第I部で、「愚直な帝国」という言葉を創っている。経済的には異例の発展を遂げた日本は、一方で、「政治的・軍事的には理念に欠け、工夫の乏しい帝国主義を愚直に実践」したというのである。そして、「愚直な帝国主義の実践」は第2次大戦まで続くとされる。この「愚直」の意味は説明されていないが、なかなか興味深い表現である。「愚直」という言葉には、「正直すぎる」というプラス評価のニュアンスがあるが、橋本はそのようにこの言葉を使ったのではあるまい。第1次大戦後のいわゆるベルサイユ体制が民族自立・民族自決の原則を内包して、古典的な帝国主義の時代が終わろうとしているときに、日本は、それに無自覚に、古い植民地支配・勢力圏確保に拘り続けたということであろう。加藤典洋が、ワシントン会議以降は、植民地問題に関するディフェンス・ラインが上がって、先発帝国主義国の後発帝国主義国に対するオフサイド・トラップが形成されたと表現している(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣『天皇の戦争責任』径書房、2000年)新事態のなかで、「愚直な」日本帝国主義は、まさにこのオフサイド・トラップに引っ掛かったことになる。経済面では、「創造的適応」をおこなった日本が、政治面では、なぜ「愚直」な対応しかできなかったのかという問題は、かなり奥が深い。橋本に答えを聞いてみたかった問題のひとつである。

II部は、「戦争経済の崩壊」(第4章)、「戦時における経済の計画化」(第5章)、「計画化の不合理とメソ的な組織化政策」(第6章)、「アメリカ的経済制度への大改革」(第7章)、「貧窮の平等化と民主化」(第8章)が論じられる。戦争経済が崩壊してから、戦後の経済復興の努力によって、1955年前後にようやく1935年前後の経済水準に戻ったことから、この間の20年が「失われた20年」と呼ばれている。経済水準が低下した「不足経済」を前に、「計画経済」が大きな役割を果たした時代として、この20年が記述される。

戦時経済を扱った部分では、一般に用いられる「統制」という言葉が曖昧であるとして避けられて、「計画化」が、マクロ・メソ・ミクロの3つのレベルで進行する過程を記述する手法が取られている。マクロ経済の計画化は、物資動員計画を軸に進められるが、陸海軍の対立が一元的な経済の計画化を困難にし、熟練工徴兵などの拙劣な戦時動員と、最終的には海上輸送力の縮減が計画実行を不能にしたことが指摘される。ミクロの計画化は、価格公定・物資配給・企業統制など、メソ・レベルの計画化は、市場取引の制限で、金融新体制・賃金統制・産業別統制会の実態が検討されている。統制会については、電気機械統制会を例にして、計画化の無理が具体的に明らかにされる。

少し気になるのは、「統制」でなく「計画化」を使う用語法である。「統制」が曖昧な言葉で「計画化」が明確な言葉とされる理由が、ちょっと判りにくい。歴史用語としては、物資統制令とか価格等統制令など、戦時法令では「統制」が明示されているから、その限りでは、「統制」は曖昧な用語ではない。橋本は、戦時期の経済の全体像を「統制経済」として特徴づけることが、曖昧だというのであろう。たしかに、個別的な統制を積み上げても経済的再生産が保証されるわけではないから、再生産を市場に委ねるのか、計画に委ねるかが判断のポイントになる。そこでは、「市場経済」か「統制経済」かの二者択一よりも、「市場経済」か「計画経済」かの二者択一のほうが、より明確であるから、橋本は、「計画経済」を選んだのであろう。その限りでは、「計画化」を用いることは納得できる。しかし、従来の研究史では、「計画化」が、別の歴史的文脈で用いられる場合がある。つまり、ソ連の第2次5カ年計画の影響を受けながら、戦時経済の「計画化」が計られたとか、社会主義経済に近づける密かな意図があって「計画化」が導入されたなどという場合の用語法である。いわゆる革新官僚が統制や国家管理、利潤規制などを主張するのに対して、財界が反発するときのマイナス・イメージ語には「共産主義」や「計画経済」が使われた。戦時期の私企業体制と計画的経済運営の対抗関係を読み解くときには、「計画化」を社会主義と関わりを持つ言葉として用いた方が、より歴史をいきいきと叙述できる可能性がある。橋本のように「計画化」を抽象度の高い言葉として使ってしまうと、この歴史の襞が描写しにくくなるように思われる。じつは、橋本自身、以前はこのような意味での「計画化」へのこだわりを示したことがある。岩波日本経済史7『「計画化」と「民主化」』の書評(『史学雑誌』99-41990年)で、「新体制運動や企画院は『革命』を経た計画経済の実現を企図したのではないか、その『革命』の挫折のうえに『利潤動機』を残した『計画化』が進んだのでないか、したがって、40年までは『計画化』の進展、それ以後はその後退、といえないだろうか」と書いていた。概説書という枠のなかでは、このあたりの機微にまで触れる必要はないと考えたのかもしれないが、切りつめるのは、すこしもったいない感じがする。

戦後の部分では、まず経済制度改革が、アメリカ的制度への改造として捉えられる。つまり、日本経済は異常であると見なしたGHQが、非軍事化と民主化を目的に、アメリカ経済を基準とした大改造をおこなったという理解である。そして、これが、20世紀システムへの日本の対応の初期条件となり、そのドメスティケーションの展開が、高度経済成長を支えたと判断されている。制度が外部から導入され、日本化され、洗練される過程に注目する橋本らしい見方である。ただ、残念ながら、この着想が、第II部から第III部にかけて、具体的に記述されているわけではない。初期条件つまり大改造についてはかなり詳しく叙述されている。しかし、その日本化については、株式相互持ち合いが一例として挙げられてはいるが、QCのアメリカからの学習がTQCへと洗練化される過程の記述(第III部第11章)のようには、明快に説かれてはいない。財閥解体がもたらした競争強化や、農地改革・労働改革がもたらした国内市場拡大を高度経済成長の要因にあげるのは通説的理解であるが、そこを一歩踏み込んで、戦後改革と高度成長の関連を、経済システムあるいはサブシステムの導入・日本化・洗練化の過程を軸に捉え直そうとするのが橋本の意図だったとすると、ここは是非、論述して欲しかった。

II部の最後では、国民生活の変化が、不足経済のなかでの貧窮の平等化と戦後の民主化のなかで「階級無き社会」が出現したと言う表現で捉えられる。階級が無くなったか否かを論じるのが目的ではなく、所得格差が拡大していた戦前期の傾向が逆転して、ジニ係数が低下する状態や、農地改革・財産税による資産配分の平等化、企業内で職員・工員の身分格差が解消した事態などを、強調して表現したものである。この記述は、第III部の最後の第12章「平等な所得分布と経済成長依存型社会保障」に繋がっていく。第I部で、日中戦争直前の時期には、大衆消費社会の入口にまでさしかかっていたと評価された国民生活(第3章)が、戦時中には徹底的な犠牲を強いられ(第II部第4章)、貧窮の平等化状態から「戦前型生活への復帰の希望」をもちながら再出発して、高度経済成長のなかで新しい生活様式を獲得するまでの過程の叙述は、社会保障の制度化の過程の記述とともに、橋本が、日本経済史を書くに際して採用した基本的な3つの視点のうちの「人々の生活の安定への努力がどのようになされたか、あるいはなされなかったかを解明する」という視点からのものである。橋本の基本的視点の第1は「20世紀システムの展開に日本がどのように対応したか」、第2は「日本社会でどのように効率性を高める努力が積み上げられたか」で、対応と努力の成果を、生活の安定・公平の点で計ろうということになる。橋本の評価は、日本では、高度経済成長が社会保障を代替して生活の安定が実現されたというもので、福祉を目的とした政策努力は弱く、経済成長を目的とした政策と日本人の努力が大きな成果を上げたと見ている。日本は、福祉国家というよりは福祉企業(橘木俊詔の用語)というシステムを採用したというわけである。

この評価には同感できるが、高度成長が生活安定をもたらす側面が強調される反面で、生活安定が高度成長の市場的要因として果たした役割はあまり重視されていないのは気になる。もちろん、家計最終消費の堅実な伸びは指摘され、それが投資需要と合わさって国内市場が拡大したことが、戦前の輸出依存度の高い経済と異なる戦後の構造であることは指摘されている。しかし、この指摘はごく通説的で面白くない。高度成長の叙述(第III部第11章)では、たとえば「高度経済成長の諸要因」を示す表(表11-2)が、労働・資本投入量変化と全要素生産性上昇の数値で構成されていることに見られるように、供給サイドの分析が中心になっている。たしかに、橋本の分析の鋭さは、企業と企業家がいかにシステムを導入・開発し、それを洗練化していくかを論じる領域で最大化するから、供給サイドを重視するのはもっともである。ただ、せっかく第3の視点として国民生活を対象とするのであるから、この視点から、第1・第2の視点へのフィードバックがあっても良かった。橋本は、「日常生活でごく当たり前だと思っていることが先人の努力の結晶であること」を発見する楽しさに読者を誘いたいと書いている。人間の努力に目を向けて歴史を読み解くことは、たしかに重要である。されば、その人間が、なぜ、そのような努力をしたのかという理由にも目を向ける必要がある。努力するのは、獲得したいものがあってのことで、何を獲得したいかは、時代や階級・階層によってそれぞれであろうが、基礎的には、生活の向上であろう。日本人の生活は、努力の結果であると同時に、努力の目標でもあるのだから、目標の如何が、努力のあり方を規定する。第3の視点は、第1・第2の視点に関わるわけである。生活史、社会史の研究は盛んになりつつあるが、それを、従来の経済史の研究と結びつける方法については未解明な部分が多い。橋本が、この方法をどのように開発しようとしていたかは、是非知りたいところであった。

III部は、「20世紀システム」(第9章)、「戦後復興」(第10章)、「高度経済成長」(第11章)と前にふれた国民生活を扱う第12章で構成されている。20世紀システムについては後に問題にするとして、戦後復興の章では、企業家活動・アントルプルヌールシップを描き出した部分に、橋本の面目躍如たるものがある。企業システムの分析に力を発揮する橋本は、企業家の評価にも鋭いものを持っていた。公にされた橋本の発言の最後は、『エコノミスト』(2001124日)の「『勝ち組』と『負け組』の分水嶺」(談話記事)であるが、そこでは、企業の明暗を分けるのは経営者の力量の差であると語っている。『セゾンの発想』(共著、1991年、リブロポート)で書いた堤清二の評価は、その後の状況をフォローすると変わるのかもしれないが、経済活動の分析に人間的主体を取り込む橋本の方法は変わらなかった。

高度経済成長の章では、技術革新の導入、日本化、洗練化の過程がいきいきと描写され、橋本の創見にかかる長期相対取引関係を重視する日本的企業システムの役割が述べられている。さらに、経済計画・財政投融資・産業政策の役割についてもかなりの紙数が費やされている。橋本は、経済政策全体が有効であったとして政府の役割を過大評価する見解は排除しながら、産業政策がもっとも広範に洗練されて展開したのが1950-60年代であったと見ている。企業システム・企業家とならんで、経済活動のもうひとつの主体である政府の政策にたいしての分析評価でも、橋本は鋭さを発揮するから、この部分の記述は迫力がある。企業システムと産業政策に関する橋本の分析については、次項の上田書評に委ねるとして、やや気がかりなのは、以前、橋本が使っていた「会社主義」や「日本型生産方式」という言葉が用いられていないことである。長期継続雇用・企業別組合・年功賃金体系にはそれぞれ1項が立てられているが、それらの要素を包含して日本的労使関係の安定性を表現する「会社主義」概念(「企業経営と労使関係」馬場宏二編『シリーズ世界経済IV 日本』、御茶の水書房、1989年)は見あたらない。あるいは、トヨタ生産システムは描かれているが、それを「日本型生産方式」と読み替えて、アメリカ的大量生産方式とかフォード・システムと対比させて、日本の生産力の優位性を論じる視点(「国際的優位を確立した日本型生産方式」『エコノミスト』1988524日)も取られていない。それらは、高度成長が終わった後の世界的低成長期における日本経済のパフォーマンスの良さを説明する際の道具立てで、本書の範囲外、日本経済論の分野であるというのなら多少納得できるが、「会社主義」や「日本型生産方式」は、高度成長期にも機能していたと考えられるから、この概念の不在の理由は気になる。もし、橋本が、これらの概念を、積極的に放棄するのであれば、その判断の根拠は是非聞いてみたかった。

橋本に聞きたいことは沢山あったが、なかでも、この書評で後回しにしてきた「20世紀システム」と『大恐慌期の日本資本主義』で理論基準とした「現代資本主義」の関係は、一番知りたいところであった。この疑問点をめぐっては、橋本と三和のつき合いが始まって以来のいきさつがある。『大恐慌期の日本資本主義』がエコノミスト賞(第25回、1985年)を取った年に、三和は、その書評を『史学雑誌』(前出)に書いて、橋本が、大恐慌期の日本は世界経済の中心の変化に強制されて現代的政策体系を採用し、いわば他律的に現代資本主義化したと見る点に異議申し立てをした。これは、さかのぼれば、1980年の社会経済史学会大会(第49回)の、共通論題「1930年代の経済史的分析−日本を中心にして−」(『1930年代の日本経済』、1982年、東京大学出版会、参照)で、橋本と共に報告者に加わったときからの論争点であった。この時期の橋本は、戦間期経済を分析するツールとして、「現代資本主義」概念、もちろん宇野経済学系の概念を採用していた。

ところが、橋本は、その後、ツールとしての「現代資本主義」を使わなくなり、替わって「20世紀システム」を採る。この変化を詳細に跡付けるには、橋本の全作品を読み返してみる必要があるが、とりあえず大筋だけは追える。橋本の「現代資本主義」離れは、2段階で進んだ。

第1段階は、端的には高橋財政の評価替えである。「世界大恐慌と日本資本主義」(『経営志林』23-21986年)は、『大恐慌期の日本資本主義』の第3章に示された基本的構想の修正を目的に書かれた論文であり、そこでは、大恐慌期の日本資本主義の「健全」さが指摘される。大恐慌のなかで欧米諸国が現代資本主義化の内圧によって政策的な景気調整を採用したのとは異なって、日本は、恐慌が強制する「健全」な調整、つまり、過剰資本の整理によって自律的な景気の反転上昇が進んだと見るのである。日本は「先進諸国の現代資本主義化と異なった地点にあった」のであり、「形式的には現代資本主義的政策とみえる、周知の高橋財政もそのように性格付けるということは一面的な認識となる」というのが結論である。この見方は、『日本帝国主義史2 世界大恐慌期』(大石嘉一郎編、東京大学出版会、1987年)の第2章「経済政策」でさらに明確に展開された。高橋財政は、世界システムの転換によって国際関係からの制約が弱まったところで、後発で劣位の資本主義国がとった経済発展策であって、現代的性格のものではないと断定された。もともと、橋本は、日本資本主義が現代化する内圧(階級対立)は弱く、他律的に現代資本主義化したと言っていたから、さらに一歩進めば、やや筋立てに無理のある他律的な現代資本主義化論からは離れても当然であった。

しかし、ここまでは、橋本も、「現代資本主義」をツールとして捨てたわけではなかった。この第2章の第1項「課題と方法」は「三和良一説の継承と批判」という副題が付けられたもので、三和の生産力保証政策を批判しているが、資本主義の発展段階論としての現代資本主義論そのものを批判しているわけではなかった。「現代資本主義」離れの第2段階に入ったのは、1989年頃である。

「両大戦間期の日本経済」(『経営志林』26-31989年)は、『大恐慌期の日本資本主義』に対する書評(10点)への回答論文であるが、橋本は、そこで、「この5年のうちに私自身の考えや歴史の評価も大分変わってきており、伊藤氏や須永氏とはちょうど逆のベクトルで私の研究が進んだため、私にとっても『大恐慌期の日本資本主義』には〈異和〉感がある」と書いている。伊藤氏は伊藤正直、須永氏は須永徳武で、橋本は、両氏とも「講座派」に比較的近い立場にあると見ていたから、「逆のベクトル」は、「講座派とは逆」つまり「労農派の方向」とも読めるが、ちょっと違いそうである。あえて推定すれば、「逆のベクトル」は、「マルクス的方法とは逆の」ではなかろうか。この推定は、上掲の『シリーズ世界経済IV 日本』(1989年)の第1章「石油危機後の産業発展」で、橋本が、ゲーム理論を援用した見事な「長期相対取引」仮説を提起していることに基づいている。第2次大戦後を対象とする産業論・企業論や日本経済論に関心の軸を向けたときに、マルクス的方法よりは近代経済学的、とくに新古典派的方法のほうが切れ味が良いと感じるのは、なにも橋本だけではなかろう。1990年以降の橋本の作品は、戦後を対象時期とするものが圧倒的に多くなるから、方法的には、ますます「逆のベクトル」にシフトしたものと見える。橋本にとって、『大恐慌期の日本資本主義』は、ますます〈異和〉感の強い作品になったに違いない。

この方法論シフトは、『大恐慌期の日本資本主義』書評への回答論文のタイトルが「両大戦間期の日本経済」となっているところにも表現されている。「日本資本主義」を「日本経済」と呼び替えたのは、橋本が、「現代資本主義」にたいして、あるいは、さらに、マルクス的範疇の「資本主義」にも〈異和〉感を持ち始めたためではなかろうか。三和の書評に対しては、事実分析に関わる部分には回答していたが、「現代資本主義」の方法論に関わる部分は、『日本帝国主義史2 世界大恐慌期』の上記箇所の参照に留めている。そして、すでに三和が寄せていた橋本論文(『日本帝国主義史2 世界大恐慌期』)の書評にたいしては、別の機会に検討を試みたいと書いていたが、この検討がなされることはなかった。

方法論のシフトは、別の面からも見られる。1985年の『両大戦間期日本のカルテル』(武田晴人と共編、御茶の水書房)では、橋本は、方法論としては宇野経済学に根拠を求めていたが、1992年の『日本経済の発展と企業集団』(武田晴人と共編、東京大学出版会)では、宇野経済学の姿は消えている。どうやら、1989年頃を境として、橋本は、分析ツールとしての「現代資本主義」を捨て去ったようである。

橋本は、「現代資本主義」を捨てただけではなく、宇野経済学的発展段階論それ自体を捨てたものと思われる。199110月の社会経済史学会大会の共通論題報告(「『経済発展段階論』と日本経済史」『社会経済史学』58-11991年に掲載)で、橋本は、世界経済史の「大転換」期のなかで、日本の企業システムがその「大転換」の原動力のひとつになった現在では、外国にモデルを求める日本経済史研究は不適切になったのであり、「もはや日本が後進的であるといえなくなっているとすれば、その発展段階論は成立しようがない。」と語った。もちろん、歴史分析の方法としての発展段階論の必要性を否定しているのではない。ただ、従来の各国民経済の発展史に普遍的に現れ、継起的展開の順序は不可逆的であるというようなリジッドな「発展段階論」ではなく、「柔軟な発展段階論」でなければならないと主張する。そして、具体的には、最高の生産力を体現している企業システムのタイプによって段階を区分する方法が示唆されている。この「柔軟な発展段階論」から見ると、宇野的発展段階論は有効性を喪失しているという判定になる。この橋本発展段階論は、近現代経済史全体を分析する体系として語られることなく終わったが、「現代資本主義」段階に関しては、「20世紀システム」概念が提起された。

橋本は、「迷路の先にあったもの」(『経済セミナー』4951996年)というエッセイで、自分の研究歴の初期の部分を回顧している。そこでは、宇野経済学との出会いは書いているが、別れについては暗示的にしか触れていない。橋本は、産業論に研究対象を絞ってから、工場現場を見たとき、「経営者と関心を共有する労働者」に接して「階級社会論は役に立たない」と感じ、「コペルニクス的転回」を経験したと述べている。いつの時点での話かは分からないが、このあたりに方法論シフトの原点があるのかもしれない。

「現代資本主義」に替わる「20世紀システム」は、「20世紀システムの動揺と日本経済」(『エコノミスト』1886527日)あたりでも言葉としてはつかわれているが、本格的な分析ツールとなったのは、この論文を書き直した『日本経済論』(ミネルヴァ書房、1991年)第1章からである。この時期には、橋本は、「20世紀システム」を、それ以前のシステムと対比して説明するときに、加藤榮一の「前期資本主義」と「中期資本主義」の対比を全面的に援用しているから、まだ、宇野経済学的発展段階論を決定的に捨てたわけではないのかもしれない。その後『20世紀資本主義I』(東京大学出版会、1996年)では、「設計された世界システム」という用語で、20世紀の国際政治経済が特徴づけられ、社会科学研究所の『20世紀システム』シリーズ(6卷、東京大学出版会、1998年)では「20世紀システム」が全面的に使用される。「20世紀システム」とは、第1次大戦後、アメリカが提起した民族自決に基づく国際民主主義と新たな自由貿易・金融システムの構想を起点として、第2次大戦後、アメリカをセンターとする西側世界を軸に、対抗的な位置にソ連中心の社会主義世界を配して安定的に成立した、国際政治経済システムである(『20世紀システム6 機能と変容』序章)。橋本は、「現代資本主義」論について、加藤榮一が「現代資本主義を『後期資本主義』と規定する修正を加えたものの、それでももはや有効性を主張できない」(『20世紀システム3 経済成長II』序章。ここの『後期資本主義』は『中期資本主義』の誤り)と断定したうえで「20世紀システム」を採るのであるから、この概念は、完全に宇野経済学的発展段階論とは異なる歴史区分の方法仮説として提起されたことになる。

さて、この「20世紀システム」仮説に基づいて、本書は叙述されている。第1次大戦を経ることによって世界システムの「20世紀システム」への転換が開始されたが、1920年代には、いったんは19世紀的な金本位制再建のような旧システムへの回帰現象が現れ、第2次大戦後、「20世紀システム」が確立するとされている。このような世界史の動きのなかでは、井上財政は当然に「古典的健全財政」であり、高橋財政は「ケインズに先立つケインズ政策」であると位置づけられる。橋本は、第2章の注で、三和は、「対照的にみえる井上、高橋財政が対になって日本資本主義の生産力的発展を促したと解釈しているが、本書の観点からいうと、それは『近代』で詳しく説明した縦軸の視点一本槍という難点がある」と書いている。三和は、第1次大戦後、日本でも「現代資本主義」化が進み、一見古典的と見える井上財政も、生産力保証政策の観点からすれば「現代資本主義」的政策と位置づけられ、高橋財政と連続していると主張したから、これを橋本は「縦軸の視点一本槍」と批判したわけである。橋本の「柔軟な発展段階論」では、「段階やその特性について時間軸にそった序列を不可逆的な展開と見るのは誤り」(上掲『社会経済史学』58-1論文)とされるから、進みはじめた「20世紀システム」が、1920年代に一時的に旧システムに回帰するのも当然と認められるのであり、三和のように、進みはじめた「現代資本主義」化はとまらないと考えるのは「リジッドすぎる」発展段階論の悪しき典型ということになろう。

橋本と出会った時以来の論争点が、ここでも再現した。岩波経済史2冊を送ってもらった礼状で、いずれ書評を書きますと約束した。発展段階論をめぐっても、議論を吹きかけるつもりであった。忙しさにかまけて約束を果たせずにいるうちに、このようなかたちで書評を書くとは思いもよらないこと。いま約束を果たしても、ただむなしい。この論争点についての判定は、読者に委ねることにして、ここで筆を置きたい。              (三和良一)

 

          4 『戦後日本経済の成長構造』 

1.はじめに

  橋本寿朗は、『大恐慌期の日本資本主義』(東京大学出版会、1984年)で、第一次世界大戦を契機に現代資本主義化した戦間期の日本資本主義の生産力的発展を冷静に描きだした。戦間期分析の水準に画期をなした大著において、今後の研究では、戦後の高度成長期を中心に日本資本主義の「成長体質」を解明すると予告した橋本は、その言に違わず戦後の日本経済の分析を矢継ぎ早に公にした。それらの研究は、視野と守備範囲を拡大し続ける橋本にとって、主観的には中間報告であったろう。『戦後日本経済の成長構造』は、戦後日本経済の問題の所在とそれに対する橋本の分析視角や分析内容が明示され、今後の研究対象と研究方向をも予告した研究であるが、早すぎた死は、結果的に『戦後日本経済の成長構造』を我々に橋本の貴重な最終報告として残すことになった。

  序章と続く全10章からなる本書は、書き下ろしの第1章「企業システムの発生・洗練・制度化の論理」に代表される「企業システム」にかかわる類型の研究と、同じく書き下ろしの第6章「産業政策を分析する視角」の問題意識につらなる「産業政策」をめぐるテーマの大きく二つに分けられる。第1章から第5章が前者の問題意識から解明されたものであり、第6章から第10章までが「産業政策」に関連するテーマの分析にあてられている。書き下ろし以外の本書のもとになった論文を時系列で並べてみると以下のとおりになる。

2章

「日本型分業システムの形成」(『ビジネスレビュー』40巻2号1992年)

9章

「機械工業臨時措置法の政策効果」の原論文「機械工業臨時措置法に関する民間企業の評価」(『グノーシス』2号1993年)

8章

「政府・業界団体・企業の関係」の原論文「高度成長期における日本政府・業界団体・企業の関係」(『社会科学研究』45巻4号1994年、もともとは上海復旦大学日本研究中心主催の第3回国際シンポジウム提出論文)

10章

「戦後の金融システムと日本開発銀行の役割」(『社会科学研究』47巻1号1995年、もともとは上海復旦大学日本研究中心主催の第5回国際シンポジウム提出論文)

4章

「生産システムの革新による大量生産型産業の飛躍」の原論文「資源・用地・資金制約下における大量生産型産業の飛躍」(『証券研究』112巻1995年5月号)

3章

「長期的相対取引の歴史と論理」の原論文『日本企業システムの戦後史』東大出版会に所収(1996年)

7章

「戦略をもった調整者としての政府」の原論文「戦略をもった調整者としての政府の役割」(『社会科学研究』48巻5号1997年、もともとは一橋大学主催のシンポジウム「International Symposium on Market and Government: Foes or Friends?」に提出論文)

5章

「企業家企業経営の展開」の原論文「松下幸之助論:戦後日本における企業者企業経営者の典型」(『社会科学研究』49巻2号1997年、もともとは伊丹敬之・加護野忠男・宮本又郎・米倉誠一郎編『日本企業の経営行動』有斐閣1998年に寄稿論文)

以上のとおり、「企業システム」の観点から、企業システムと産業政策、両者の視角は互いに交わり、個別実証を深化させながら論点が深められてきたことがわかる。また橋本の活動の範囲は執筆時期に職場であった東京大学社会科学研究所を足場にしながら、中国の学会をはじめ、他大学等内外の広範囲の研究者を相手にしていたことがわかる。研究の質の高さは当然として、何事にも真摯誠実かついかなる課題にも偏見なく事実や実証をベースに全力で取り組む学者としての人柄が、多くの研究者や学会、研究会の主催者に信頼感を与えたのであろう。「企業システム」にかかわる類型の研究と「産業政策」に関連するテーマの分析は「戦後日本経済の成長構造」に果たした役割と言う点で一個の統一に付されているとみることが出来よう。

  しかし一読して感じたのは、本書と『大恐慌期の日本資本主義』との大きな差である。

  「大恐慌期」と「戦後」期ということから分析対象時期の違いは当然であるが、分析対象としては、前者は『大恐慌期の日本資本主義』と題されたように資本主義分析の視角をとることが明確化されているのに対し、後者では戦後社会は「戦後日本経済」とされ「戦後日本資本主義」とはされていない。視角転換を予想させる。著者の「分析対象としての資本主義観」やマルクス経済学に出ずる「分析方法としての資本主義観」や「現状分析の方法」が変化し、更に根本である「資本の捉えかた」や「市場観」や「市場のプレイヤーとしての企業観」が大きく変化したのであろう。橋本の分析視覚と宇野理論との方法の関連は後述しよう。

  感傷に浸っていては読後感にはなっても書評になりそうにないが、著者との交友をある意味で生きがいとした評者にとっては、この数ヶ月間の状況ではやむを得ない。読者の寛恕を最初にお願いしたい。

2.第T部「戦後の企業システムと革新的企業行動」について

本書のために書下ろされた序章「企業システムの発生・洗練・制度化の論理」は「高度成長期」について「多くの大切な歴史的事実が忘れ去られようとしている」という経済史家の危機感から出発している。また、過去に学者や研究者を対象として執筆された学術論文をもとに本書は編まれているが、書きおろしの序章は、研究者や大学で経済学、経営学等を専攻する学生のみでなく経営者や企業家や企業に勤務する会社員をも対象として、市井人一般に広く語りかけ、共に考えようとする学者としての誠実な姿勢が滲みでている。

具体例を挙げよう。日本における1990年以降の長期停滞と比べ高度成長期には「造れば何でも売れた」という風評を著者はまず批判的に検討する。高度成長期にも設備過剰や過剰生産が問題視されてきた点に読者の注意を喚起する。

次ぎに市場規模の制約である。戦後日本はアメリカの大量生産方式の導入に努めた。フォーディズムの名で知られるこの大量生産方式は、大量販売、大量消費と続く需要連鎖の環が必要になるが、市場規模の小さい日本で大量生産方式のストレートな導入は市場規模の制約から無理であった。何故高度成長が実現したかはアメリカ型大量生産方式の導入に当り、それをどう修正したかについて市場規模との関連で検討されかつ説明さるべき旨が指摘される。そしてこの点は高度成長を担うことになる我が国の自動車産業、鉄鋼業、石油化学工業にとって等しく制約条件になった。高度成長が実現したことはむしろ不思議なことになる。

三番目の制約は資源制約である。鉄鋼業が例にとられ「高炭価・高鉄価」や「鉄原不足」が原因で戦後「鉄鋼産業自立不能論」が一般的であったことが指摘される。何故高度成長が実現したかの謎は通説と異なりより深まることになる。

最後の例は割高な資本費である。この点は鉄鋼業が国内の低い資源生産性に規定され、その確立のためには海外炭や外国の鉄鉱石の輸入が必須条件となり、更に鉄鉱石等の輸入には外航海運が確立する必要があったこと。しかし外航海運の確立には船舶の建造資金について割高な資本費の壁が制約条件であったことが指摘される。

この他、日本資本主義の後進性の裏返しとして、先進国の技術をよりどりみどりで輸入できたことが高度成長の原因であるとの主張や、1970年代半ばまでは生産設備が戦災で破壊されたことや残存設備が陳腐化していたから、最新鋭設備に更新する制約が小さく旺盛な設備投資が行われたという見解を検討する。この見解に対して著者は「技術革新の種があれば、どこでもそれが生かせるのなら経済発展など論じるに値しない」と一蹴する。「1人当りGDPを基準にとれば、1950年に日本と同じ程度の経済水準の国は、ギリシア、コロンビア、メキシコ」があり「ブラジル、ペルーは日本より高く、チリは2倍を超え、フィリピン、マレーシアなどとも大差はなかった」。技術革新の種をまいておけば経済発展の大木が必ず育つなら「それらの国々でも‘日本の奇跡’といわれた高度経済成長と同じような経済発展があって当然ということになる」と俗説に対する批判は徹底され、高度経済成長は「日本の奇跡と言われるように日本に限定されていたことが重要なのである」と高度成長期のシステムが経済学的説明の対象となることが丁寧に説明される。

2章以下は、序章で解明対象とした高度成長が何ゆえ実現したかの謎解きであるが、既述のように謎解きは「企業システム」と「産業政策」というテーマをめぐって展開される。しかし、序章ではこのテーマにおさまりきれず、従って第1章以下でも本格的に検討されていないが重要な指摘がなされている。それに触れておこう。通産省等、日本の産業政策の主たる立案者達に「狭隘な市場に弱小な多数の企業が存在する」ことは暗黙の前提であった。規模の経済を追求する産業組織政策の根拠となったものであるが、「弱小な多数の企業」と認識されたのは、所謂「中小企業」の分厚い存在だった。著者は資本金規模で見た中小企業が法人企業数と同じテンポで増加していることを、『戦後の工業統計表:産業編』第3巻(中村隆英編 産業統計協会、1982年)に基づいて指摘する。またアメリカと比較可能な100人未満の事業所について、1954年と72年を比較し「中小事業所の構成比は、事業所数、従業者数、付加価値額のいずれの指標をとっても、日本のほうがアメリカよりもはるかに大き」く、アメリカでは「3指標すべてで中小事業所の構成比が微減したものの、日本のケースでは1954−63年に事業所数、従業者数でその構成比が低下し」たが「付加価値額では構成比が低下しなかった。そのうえ、1963−72年には3指標のすべてで、中小事業所の構成比が顕著に増加した」ことを明らかにする。

本書では第1章以下で中小企業論に踏み込んでいないことを勘案してか、比較の数値は明示されていない。しかし『戦後日本の経済』(岩波書店、1995年)では、1954年時点で製造業の同様の事業所規模のウエイト比較が行なわれている。従業者数でアメリカの約25%に対して日本が60%弱であること。付加価値額でアメリカの20%強に対して日本が35%弱であること。両国のこの関係は1972年でも基本的に変化せず、従業者数ではアメリカが55年比微減に対し、日本は5%減少して55%弱になるが、付加価値額ではアメリカに変化はない一方、日本は微増して35%になったことが示される。両国の単なる付加価値生産性比較という点だけ見ればいずれも日本の方が低い(付加価値額の数値÷従業者数の比率)し、事実、橋本も『戦後日本の経済』の段階では単なる比較の延長線で日本の時系列比較を行い、1950年代半ばの「二重構造論」の議論の背景として触れるだけなのだが、両国の生産性を時系列比較する観点から言えば、日本では、中小規模事業所の労働生産性上昇メカニズムが長期に亘り働いていたことにむしろ注目する必要がある。本書に戻れば、100人未満の事業所規模を中小事業所と定義したうえの比較であり、更に中小事業所を中小企業と置き換えることは、両国の中小企業の定義の違い等、方法論や手続きの問題を今一度詰める必要があるので、本格検討は今後の課題とするつもりだったのかもしれない。しかし、この問題は、本書において「弱小な企業という見方に代えて、多品種小ロット生産という新たな産業発展のパラダイムに沿った発展がみられた」と述べられており、それは思考の深化の根拠として語られたと類推されるだけに、最小最適規模論を理論的に応用する本格的な「日本中小企業論」として展開して欲しかった部分である。

書き下ろしの第1章「企業システムの発生・洗練・制度化の論理」と第2章「日本型分業システムの形成」第3章「長期的相対取引の歴史と論理」は、「日本の奇跡」と呼ばれる経済成長の構造を日本型企業システムの「発生・洗練・制度化」の論理に基づく分析枠組みの説明とその分業システムの特性に及ぶ。企業内分業や工場内分業が弾力的に編成され、企業間分業は長期相対・継続的と特徴づけられる。企業内・企業間分業のいずれもアメリカと異なることが強調され、その形成過程が「トヨタ自動車と部品メーカーの事例」「松下電器の事例」「富士ゼロックスの事例」「三菱重工長崎と八幡製鉄(新日鐵)」に基づき考察される。分析枠組みの日本型企業システムの発生では、戦後典型の位置を占めたアメリカ型企業システムを日本の企業家、企業経営者等がどう評価し、学び、改変したかという主体的で創造的学習・適応を重視するとされる。ここは理解できる。しかし併せて「占領革命」と称される戦後改革の過程が重視され「占領革命こそ他の国の経験と異なる点であり日本型と命名できる決定的条件であろう」とされるが、このつながりがよく理解できない。序章で記述したアメリカとの比較で小さな日本の市場規模の制約等の論理からしても、またより根源的には著者の日本近現代史の理解からすれば、「占領革命」の時代、アメリカが日本を半封建的体制にあるとみなしたのは誤謬ということになるはずで、アメリカをモデルとしたニューディーラーの影響をうけた日本改造の試みは、経済条件や市場条件の違いから、少なくとも経済制度面や市場システムの改革ではGHQの当初の意図や目的からすればむしろ失敗に終わった。これが占領史の正しい見方ではあるまいか。直接金融の試みが成功しなかったことは周知の事実だが、株式相互持合いの規制も企業グループ間の持ち合いで意味をなさなくなる。三和先生の書評にあるように農地改革や労働改革の国内市場拡大効果や財閥解体による競争強化という通説的理解は一般論として間違いではないが、それを過度に強調する立場に与すれば、著者の主張する初期的制約条件が弱まることを意味するから、一方で著者が強調する企業家の主体的行動やアメリカモデル改変努力の試みと整合しづらくなる。GHQの占領改革における日本経済システム改造の失敗をも初期条件として日本の企業家のアメリカモデルの修正、洗練の努力が開始されたとする方が橋本理論にしっくりするというのが評者の勝手な想像である。

続く洗練の論理は「システムの普及であり、新たな生産要素賦存条件への適応的修正、そしてシステムを構成する要素間における緊密化であり、それによるシステム機能の高度化・効率化のことである」とされる。ここはまさに橋本理論の実証を踏まえた独自の貢献であるが、第1章で雇用システムについて、証券業への長期継続雇用の普及があげられることにやや違和感が残る。ブローカー業務、アンダーライティング等景況の影響を受けやすい「証券業は長期雇用に適さない」が「それが世間のごく当たり前の相場になっていった」というのである。「当たり前の相場」と言われると、そうかという気もするが、全体として労働市場が不完全でも大学や高校の卒業生に「間断なき就職」について労働市場が最低限機能していれば長期雇用の普及は説明できる。『大恐慌期の日本資本主義』において著者は「労資関係の変質メカニズム」に注目した斬新な現代資本主義の分析視角を提出した。その後、戦後期に主たる研究対象はシフトされたが、「労資関係の変質メカニズム」がそれらの研究において正面から問題にされることはなかった。洗練の論理は「間断なき就職」との関わりで労働市場の変質を含めた編成過程を究明することに踏み込んでいれば、『大恐慌期の日本資本主義』以来の企業における若年労働力の導入と生涯雇用システムの成立という問題意識と連続し、前者と整合的な組みたてをも可能にしたのではないかと考えられる。

制度化の論理も雇用に引き付けられて説明される。長期継続雇用が普及すると雇用する側にもされる側にも共通規範が形成される。制度的にもかかる規範に基づき1974年に失業保険法が雇用保険法に改正され、石油危機後の雇用調整に対し「離職者の発生防止」から雇用調整給付金・雇用調整助成金制度が導入される。離職者発生の可能性は産業構造転換に伴う場合も勘案して事業転換による一時帰休等に給付し、一時帰休中の転職訓練奨励制度も追加された。1977年に雇用安定資金制度、特定不況業種離職者臨時措置法、1978年に特定不況地域離職者臨時措置法が制定される。橋本は「制度化の進展は同時に形骸化にもなりかねない」として「企業は長期勤続者を長期勤続したという、ただその一点で評価するということは、成果の公正な評価を放棄し、功績薄き者に過大な報酬を与えることにもなるからである」と正当に評価しているが、同時に一時帰休中の転職訓練奨励制度以下の改正を制度化というより崩壊とみているようでもある。洗練の論理とも関連し繰り返しにもなるが、「労資関係変質メカニズム」は『大恐慌期の日本資本主義』において固定資本の巨大化と独占によって帝国主義段階の特徴を捉えてきた宇野派の通説的見解に修正をせまるものだった。本書において、洗練は普及一般の話に解消され「労資関係変質メカニズム」と切断されてしまう。確かに普及過程から共同規範が形成されて制度化するという筋は常識的でわかりやすい。しかし、普及過程は、長期勤続による企業特有の熟練や技術を形成しそれを身につけた労働者の意思が、日本特有と橋本も指摘する「産業別の企業別組合」の成立の1つの原因として作用していたのではないか。そう考えれば「産業別の企業別組合」が大勢を占める現象を洗練に続く制度化として解釈することになる。少なくとも洗練普及過程の議論を長期勤続と、日本独特の労働組合の両者を因果関係で結びつける方向に展開すれば、1つの工場でいくつもの組合がある欧米の職能別組合の場合新技術の導入にあたり労働組合を説得するコストとの対比で技術革新の成果の素早い導入に日本の企業システムが有利に立ったことの説明が容易になり、『大恐慌期の日本資本主義』以来の問題意識や『日本経済論』(1991年ミネルヴァ書房)の「会社主義」の問題意識と接続することができたのではなかろうか。著者に聞いてみたかった点である。

なお、以上企業システムの発生・洗練・制度化の論理は、サブシステムの1つである「雇用システム」についてのみ検討されている。主要なサブシステムの組み合わせによる日本型企業システムが何時、どのようなプロセスで形成されたかについて『日本型経済システムの誕生』の出版を読者に予告した(第1章P32)。予告は果たされないが橋本の問題提起はこの課題と共に生き続けると思われるのである。

2章、第3章では既述の初期制約条件を克服する過程について、特に企業内・工場内生産システムと、企業間分業である「長期相対取引」の成立の両者を軸に歴史的具体的に究明される。市場規模が小さく規模の経済性を追求出来ないことは、作業場内・工場内でフォーディズムのような厳格な分業を行うことを不可能にした。熟練の解体による単純労働で労働コストを削減できない点は、トヨタ自動車に典型的な1人の労働者による機械の「多台持ち」から複数の工程を持つ「多工程持ち」によってマイナスをプラスに転じる契機となった。「労働者は考えるな」式のアメリカ式の労務管理に対して、現場で生産工程全体の不具合や絶えざる改善を主体的に考える新しい熟練労働が成立してきた。この新しい熟練労働の成立がなければ、著者の注目するアメリカから導入したQC活動がTQCへ展開していくことも、「洗練」としてスムースにいかなかったと想定される。アダム・スミスの分業論の論理やこれまでの経済学の分業に関する批判的検討を軸に展開されるこのあたりの分析は、抑制された表現であるが、規模の経済性を発揮できない「小さい市場規模」という初期条件の制約をどう解消していったか、むしろそれを逆手にとって生産の最前線で常に改善を念頭におく労働者が企業内・工場内で再生産される生産システムがいかに形成されたかを明らかにする謎ときのハイライトである。一方でスミス以来の社会的分業論の系譜につらなる企業間分業については、「長期相対取引」という「意図された計画的な」分業の形成が説明される。

実証に基づく手堅い分析は評者の手にあまる。ただ「長期相対取引」のメリットの説明を検討しておこう。著者によれば「社会的分業という観点からいえば、長期相対取引は企業間分業という社会的分業の一部が意図された計画的分業になっている、ということである」とし、「売手からみれば、予め将来の販売数量をほぼ確定して、生産活動を計画化し、設備や従業員の遊休を回避する」、他方、「買手の立場からいえば、原燃料・部品供給の安定性が重要−中略−安定性というのは、原燃料・部品の在庫を極小化しても、なおそれらが指定時に指定場所に指定数量だけ納入されて、連続的な生産活動が継続できることを意味する。つまり、ここに、売手の側の生産計画化と買手の側の在庫極小化という二つのインセンティブを結合した取引形態が見出せる」として、買手が在庫極小化にメリットを見出すのは国土の狭い日本では在庫のスペースコストが高く1960年頃までの高い短期金利を根拠とすることを明らかにする。また売手の生産計画化の追及は雇用調整の非弾力性に根拠を求めるというきれいな組み立てになっている。これらの理論的フレームワークをもとに、既述の「トヨタ自動車と部品メーカーの事例」「松下電器の事例」「富士ゼロックスの事例」「三菱重工長崎と八幡製鉄(新日鐵)」の事例が考察される。前三者は買手の側から「長期相対取引」の形成を追及したものになったが、トヨタ自動車が部品メーカーの潜在的過小を前提に試行錯誤を重ね、1960年代に部品メーカーとの「長期相対取引」を軌道にのせたこと。松下電器の事例や富士ゼロックスの事例では発達した電気機械工業や、機械工業の存在があり、規模の経済性が達成出来たためスポット的市場取引と内製依存で「長期相対取引」の形成が遅れたこと。製品の差別化競争が強化され、技術的要請が飛躍的に高度化するに伴い「長期相対取引」への転換が図られたとされる。買手の側の在庫極小化メリットの追求が強くはでてこない点が多少気になるし、また理論的フレームワークと異なり、売手の側の想定は多数のメーカーが対象となり実証しづらいこともあって明確な事実関係の究明に至っていないと思われる。

「三菱重工長崎と八幡製鉄(新日鐵)」の事例は前三者と異なり、造船業、鉄鋼業がもともと受注産業という性格の強さもあり売手の側の事情が割合はっきり理論的想定に従った動きをしたことが示されている。

しかし、買手の在庫極小化の要請は商業組織論において「延期原理」として知られているものであった。橋本の「長期相対取引」はこれを応用して日本的企業システムの合理性の解釈を行おうとするものであり、ここに卓越した発想を見て取れる。「延期原理」は特定化された有限の仕入れ先を相手とする市場において商業者が延期的調達を行う場合、取引相手の生産者や卸商と特定の関係を作り出す点を主張する。市場のスポット取引は安定的調達が可能ではなく、その下で延期的調達を行うリスクは顕在化し大きくなる。商業者は生産者や卸商との間で個別的、長期的関係を締結して延期的調達を行うか又はスポット取引を利用して投機的調達(見込み買い)を行うかの選択を迫られる。もし延期的調達に伴うリスク解消の手段があれば在庫極小化のメリットを享受出来ることから延期的調達が選好されると考えるのである。トヨタの「Just in time」の生産システムも一種の延期原理の適用事例と考えられる。これを応用して著者は「長期相対取引」を構想する過程で「相対取引」ということから「売手側」のメリットをも考慮したと想定される。抽象的次元や理論的次元ではこれはもちろん間違いではない。しかし実際の事例分析に当っては三和先生の年来の主張である、理論次元と現状分析の次元の段取りが必要になりそうである。特に市場構造、市場と密接に絡む企業システムについては売手と買手双方のメリットを厳密に分けることが問題になろう。電子・電気機械産業等各種の機械産業がここまで複雑精密に構成されると、自動車や家庭電器製品のアッセンブリーメーカーから見た売手の部品供給者も部品の原料調達者として市場では買手になる。つまり、サプライチェーンマネジメントにおける幾重にも繋がる「供給連鎖」という枠組みで考える必要があろう。橋本は「長期相対関係」が洗練され共通規範「norm」になっていくと主張するが、この共通規範化の前提には延期的原理に基づく「供給連鎖」の形成で連鎖に繋がる企業間で共に延期的調達のリスク解消手段の共有化(win win解)が実現したことが根拠になったと考えられるのである。さらに「供給連鎖効果」が働く場合、企業内組織間や企業間に「協働現象」が生じてくる。狭い職場でなく川下、川上双方に繋がる長年の取引先関係の技術協力や共同開発を含めた協働システムが規範を生み出す根拠として作用すると考えられる。

「長期相対取引」と分業論の関係についてもう1点検討しよう。市場規模が大きく規模の経済を追求すべく工場内分業を厳格に行い細分化・再細分化によって個々の業務を最小の要素にまで分解し職務を簡素化して熟練労働を解体させたアメリカ型大量生産方式に対し、トヨタ等に見られる「多工程持ち」の新しい熟練の対比に注意を喚起したことも著者の重要な貢献であることは既述した。テイラー主義や科学的管理は「生産活動を労働者の能力にまったく依存せず、全面的に管理者側の実践に依存すべきもの」で「頭脳労働はすべて可能なかぎりこれを職場からとりさりこれを計画部または設計部に集め」(テイラーの実行から構想の分離の主張)労働者のなすべき「課業(task)は、なすべきことだけでなく、それを行う方法とそれに要する正確な時間とを詳細に規定」する。このような「機械と課業を組み合わせて工程とし、工程を組み合わせ」る生産システムのもとでは、機械と同じく「労働者は取替え可能な要素」になる。凄まじい熟練の解体である。著者はトヨタを事例に日本ではアメリカと対極的な「柔らかな企業内・作業場内分業」という概念を設定する。柔らかな分業は歴史的事実から帰納的に導きだされる。例えば「生産管理の技術者が作業現場を知悉している指導工の協力と助言を得ることによって、理論的に構築された原理や方法だけでは改善できない諸点にまで配慮を加えることができた」事例等を援用するのである。アメリカ型大量生産方式における熟練の解体と日本における「柔らかな分業」の対比の視角である。しかしもう一歩突っ込んで「作業場内分業の利益」の根拠や前提を詰められなかったか。別言すれば「分業論」自体から説明を試みる視角をもう少し強く押し出す必要があったかもしれない。「柔らかな分業」にヒントはあるのだが、一般的に言って作業場内分業の編成のあり方は、経営史・経営学でいう「組織設計」「組織革新」とかかわる。これが成功するかどうかは分業のリスク・デメリットを解消できるか否かにかかる。分業のリスクとは、程度を超えた細かすぎる分業(著者の言葉では厳格な分業)は、労働者にとって仕事の全体像が把握できなくなってしまうことをいう。この状況(マルクスの疎外?)では労働者はやる気を喪失するだろう。「品質は工程で作りこむ」というが、品質自体相対的な概念であり、改善とは工場全体の生産目的を把握できる労働者が生産物の買手における使用目的から要請される品質の下限を自覚して取り組む生産行為が基礎にあるのではないか。長期相対取引は、一企業や工場における厳格な分業を緩和する効果を発揮し、労働過程における労働の主体性の維持、回復(馬場宏二)機能を果たしたのではないか。実は日本においてこの分業のリスク・デメリットが発生しなかったという問題は序章についてのコメントで既述したが、橋本が指摘する大企業においても「中小規模の事業所」が日本に多いことと関係していたのではなかろうか。そう考えれば、『日本経済論』(1991年ミネルヴァ書房)の「会社主義」における従業員の帰属意識という著者の問題意識と重なるだけに、『大恐慌期の日本資本主義』以来の著者のフアンである評者には惜しまれるのである。

なお、昨今の金融機関の大型合併等日本における構造改革と称した企業合併、また市場シエアや規模の拡大のみを目的とする世界的な企業合併の将来を占う点からも、ここは鋭い分析に基づく掘り下げを期待したかった点も付け加えておこう。第4章「生産システムの革新による大量生産型産業の飛躍」は、川崎製鉄における千葉製鉄所の高炉建設の分析である。序章で謎とされた、資源生産性が低く、資本不足、技術水準が低い状態を与件とした場合、比較生産費説から資本・技術・資源集約的産業(鉄鋼業、自動車産業、石油化学工業等)が何ゆえ日本で確立し高度成長を担ったかを、川崎製鉄の革新的経営者(所有なき創業者)西山弥太郎等トップマネジメントの意思決定過程を中心に明らかにしたものである。主要原料の調達を東亜圏内の豊富な海外資源に求め、それらの輸入に海上輸送革命の効果を享受することを視野に臨海立地を意思決定して、いわば「範囲の経済」を追求したこと。「米国式大量生産方式」を導入するも土地生産性を上げるためコンパクトな工場レイアウトを追及したこと。工場用地の狭さという制約要因を、逆に土地の集約的利用を梃子に資本費用、設備建設費用の節約というプラスに転じたこと等が明らかにされる。橋本は明示していないが、革新的経営者の意思決定や経営が新古典派のいう「生産可能性曲線」自体を右上に大幅にシフトし、与件としての比較生産費構造(資本・技術・資源等の一国の生産要素賦存度)をあっさり変えてしまう過程が、生き生きと描かれる。シュンペーターのアントレプルヌールシップを地でいったような事例に、分析者としての橋本自身感じるところがあったのではなかろうか。トヨタシステムに見られる「新しい熟練労働」といい、西山弥太郎のようなイノベーターといい、従来、橋本が分析基準としていたマルクス経済学や宇野理論の射程には入りにくいものだった。一旦は従来の分析枠組みから離れる必要を固めたのはこのあたりかも知れない。第5章「企業家経営の展開」は、戦後日本における企業家企業の典型的経営者として松下幸之助を位置づけ、企業の創造的適応を支えた経済主体の行動を掘り下げることを意図したものである。松下電器が企業家企業一般の典型といえるかや、幸之助を企業家企業における経営者一般の典型といえるかはやや疑問である。著者もこのあたりを考えてか、幸之助の履歴に「天の配剤」を感じると一度ならず記してもいる。記述された内容は著者の筆の威力もあっておもしろいし、幸之助の事跡を統一的に理解しようとする努力も理解できるが、読み手によって理解の幅が最もぶれそうな章である。おそらく幸之助の言動が経営学でいう暗黙知に属する部分が多く、今なお形式知化しにくい状態のものを多々含み、経済史や産業史本来の分析になじまないことが原因であろう。一方で幸之助の価格についての考え方の既述もあってこちらの方に興味を覚える読者もいるだろう。一例をあげよう。幸之助は「正価」という価格の哲学をもっていた。しかしこの「正価」はスーパーアイロンの場合、市価の7割で開発することを命じた。他方で適正利益率として10%を確保するというのである。家電製品が価格弾力性の高い性質を有することを直感的に見抜いていたことを示すが、適正利益率はマークアップ率になる。著者はこれを「高度寡占企業に特有な行動であることは明らか」とし、マークアップ率に「超過利潤を含んでいないのであろうか」と幸之助の「正価」に一定の経済学的解釈を与えている。通常の寡占企業のマークアップ率と異なるのは、開発する製品を市価の7割で生産する点であり、当初はこれが妥当するケースも存在したのであろうが、この前提が崩れた時点で著者のいう「高度寡占企業に特有な行動」と幸之助の「正価」販売運動は変わらなくなる。事実松下の価格維持行動は後年公正取引委員会や消費者団体から批判を浴びることが指摘されている。

3.第U部 「戦後産業政策の特質」

6章「産業政策を分析する視覚―過大評価された政府の役割と産業政策における政策課題の発見−」では従来「上から」の発展という特徴付けを行われてきた日本資本主義の研究史において、政府の介入とその効果の強調という点で政府の役割が過大評価されてきた事実や、反対に貝塚啓明氏の「産業政策の定義を求められたとするならば、やむをえず(多少の皮肉をこめて)つぎのように答えざるを得ない。すなわち、産業政策とは通産省が行う政策である」との指摘が紹介され、新古典派の影響を受けた学者が産業政策を無視してきた等、産業政策の位置ずけが、学会でも整理され秩序化されているとは言いがたい状況が語られる。

著者はこの両説に対し、産業政策に二つの類型があること。その一つは特定産業の保護政策であり、今一つは比較劣位にある産業への補助や所得再配分政策である。それを受けて産業政策が、後発国における、ある特定時期の特定産業を対象とするものとして理解する立場を宣言した。かって論争のあった三和良一先生の現代資本主義の政策体系としての産業政策(生産力保証政策)についての著者の現時点での論評は聞きたいところであるがこれは触れられていない。しかし、著者の宣言と異なり本書全体を丹念に読んでみると、理論的想定と叙述自体が微妙に食い違っていることに気づく。序章で本格的検討対象から除かれているものの、中小企業についてもアメリカとの対比で1970年代まで付加価値等が上昇していった事実に触れ、この点の解明が重要であることを暗に示唆していることは既述のとおりである。

研究対象のウエイトを「戦後日本経済」に移した近年の橋本は、極力方法論に深入りすることを避けたように思われる。現状分析にあたり出来る限り方法論を含めた先入観念から自由になる必要を自覚していたと類推できるのであるが、第6章の「産業政策を分析する視角」からは直近時の著者の考えがある程度読み取れる。多様な論点が過去の研究史と共に語られ、実は筋を押さえることも素人には容易でないのだが、論旨は以下の如くである。紹介と共に不整合と思われる点を手がかりに考えてみたい。橋本はこれまでの産業政策についての政府の役割は過大評価の連続であったという。1960年代までは、マルクス主義の影響を受けた人々は明治の経済発展も戦後高度成長も上から政府が介入、指導、後押しし国家主導で発展してきた日本資本主義というイメージを作り上げ、これはマスコミにも浸透していた。1970年代になると、アメリカ商務省の報告書が政府・企業が一体となって産業発展を追求する仕組みを「日本株式会社」と呼んで注目したのをはじめ、C.ジョンソンはアメリカが「市場合理的」であるのに対し「計画合理的」という特徴を有する日本における商工省・通産省の大きな役割を指摘した。ハイテク産業の実証的研究を行ったD.I.オキモトも、ハイテク産業においては多くの国で政府支援があり日本の産業政策は必ずしも特異なものでなく、その特徴は産業政策が成功を収めた点にあり、その理由は日本において、企業間や企業・政府間、業界団体・政府間に有効なネットワークがある点に求めた。以上はプラスのベクトルで産業政策の過大評価がなされた事例であるが、1990年代には逆に産業政策は政策目的を達成したわけでなく政策の効果は見出せない(三輪芳朗)という研究成果が現れ、バブル破綻後の金融システム不安が高まり、IT革命に遅れをとったことが明らかになると、逆に「1940年体制」論に見られるように日本経済の難点は政府の役割の大きい競争抑圧的システムが原因として問題視された。現在はこのマイナスベクトルの過大評価の延長上で「市場原理主義」が人口に膾炙しているのだが、橋本はこれらの論調を振り返り、研究史が産業政策の評価にあたり「経済に介入する政府の役割と位置がまったく異なる二つのパターンがあることが無視されている」という。

第一は「国際経済システムに創造的に適応する過程で、政府が経済制度・政策を工夫し、民間経済主体の活発な活動を支援する役割であり、主として明治維新に始まる19世紀後半と1950−60年代の産業政策にみられた」。

第二は「政府が民間経済主体のうち相対的に力が弱いとみられたグループに財政資金を手厚く分配して、社会の安定を図ることを重視することである。二つの世界大戦の間の時期(戦間期)と1960年代半ば以降、高度成長期にそれがみられる」。

以下の橋本の分析は、もっぱら第一のパターンの実証的解明に当てられる。第二のパターンは「弱者グループとは地方や衰退産業」とされ「政権与党を通して、主として地方の利害や経済団体に組織された産業の利害が、政策決定に影響を及ぼした」こと。「これはいわば産業を対象とした所得分配政策」であり「本書の対象外にな」り「第7章以下で具体的にこの利害調整型の所得再分配的な政策について分析することはない」とされた。

従って、利害調整的利益再分配政策の評価と高度成長の内的関連は、ついに橋本から直接語られることはなくなった。それでも橋本はいくつかの示唆を残した。戦後改革の「民主化」は経済的には「平等化」であり、経済成長の成果を弱者に分配する「利害調整的利益再配分」は正義であったこと。1960年代前半の農業基本法、中小企業基本法の制定や小規模な小売業や運輸事業の保護強化、具体的には競争制限、補助金の給付、低金利資金の供給等産業政策と大差ない政策手段がとられた。それらの対象となった分野では、協力な経済団体が形成されて国政選挙で集票マシンとして機能し、田中角栄のような地方選挙区から連続当選する有力政治家を生み出し利害調整型政治を再生産したというのである。

しかし、問題はこの「利害調整的利益再分配政策」に対する評価は、高度成長期の経済システムとの関係性の解明抜きでは語れない点にある。橋本は価値判断を避けるため、「所得再分配政策」や「利害調整的利益再分配政策」という言葉を用いたと考えられるが、より正確には当該の政策は「利益誘導政治」として独自の展開を示した。

言葉の響きとして「利益誘導政治」はマイナスイメージを伴うが、利益誘導政治が再生産される物質的基盤が、経済的に、正確には資本蓄積にとって全面的に不合理なものであれば、1960年代半ば以降、高度成長期に亘ってそれが維持拡大再生産できるはずもない。

利益誘導システムは高度成長期の資本蓄積にとって有効な面があったと仮説してみる必要がありそうである。考えられる筋は比較優位を失った農業や繊維産業を放置した場合、失業等に対応して社会保障費が激増したと想定できるが、その資本蓄積に与える効果と所得再分配政策の効果との比較が必要になる。社会保障で支弁される当時の財政資金の所得波及効果に対し、所得再分配政策による所得波及効果が大きかったと想定される。それが3種の神器をはじめとする家電製品等耐久消費財の膨大な需要の受け皿となり、勃興期にあった家電産業の規模の経済性を実現促進させた。家電製品の需要サイドからみてみよう。大仰な話しになるが、レーニンは、『いわゆる市場問題について』で、農業の資本主義化による商品的分解は農民が困窮化することと矛盾しないことを明確に論証したが、これと対比的に家電製品の家庭への普及は、主婦が家事を奪われて困窮化するわけではない。家事労働が軽減され家事に費やす負担や時間が減少するだけで、主婦のパートタイマー労働が一般的になり家計の所得はこの面からも増えたと想定できる。それがまた新しい耐久消費財の需要に反映したことであろう。家電等耐久消費財の需要層が所得再分配政策によりは国民のあらゆる階層に及び、当時呱々の産声をあげつつあった自動車産業の需要におよんでいったと考えられる。家電等は核家族化の進行が更に需要を刺激することになったと考えられる。「利害調整的利益再分配政策」と耐久消費財産業にはある種の適合的な関係がありそうである。

本題に戻り著者は、「産業政策を分析するには特定の産業に特殊な条件に依存して構想・実施されたという観点から検討される必要がある」(第7章)という。特定時期に特定の産業を対象に行われるのが産業政策であるというわけだが、同時にそのような分析フレームと異質な指摘もなされる。第6章の最後で中小企業政策にかかわり中小企業診断士について制度発足の事実が指摘される点と係わる。「中小企業振興のための政策を模索する中から企業診断というコンサルティング活動を編み出した。戦後、戦時期に抑制された企業活動が再開され、中小企業が続々と誕生したが、それらの企業は経営手法、特に管理技術が稚拙であったのをコンサルティングによって指導したのである。以上のような政策活動は創造的であったといってよかろう」というのである。中小企業一般は極めて広い産業分野に及び、特定産業と見做すことは出来ない。具体的な分析対象となったのは、第7章「戦略をもった調整者としての政府」では戦後復興期の運輸省が中心になった「計画造船」が取り上げられ、第8章「政府・業界団体・企業の関係」で「機械工業振興臨時措置法」の仕組みと成果が、第9章「機械工業振興臨時措置法の成果」で会社史を利用して同法に対する民間企業の評価の分析が行われている。第10章「戦後の金融システムと日本開発銀行の役割」では計画造船に対する日本開発銀行のリスク肩代わり機能等が分析される。

特定の産業ということでは、計画造船をめぐる「造船業」と計画造船に係わる限りで、発注者である「海運業」に関説し、第8、9章の対象「機械工業」の3業種を分析したということになるが、機械工業に係わる機械工業振興臨時措置法の分析は特定の産業分析というよりは中小規模事業所を含めた中小企業が技術革新を含めて供給力をどう身につけたか、そして中小企業が供給力を身につけるにあたって政策がどのような効果をもったかの解明が中心論点になっているようにも思える。「機振法」の対象業種は金型、歯車、バルブ、切削砥石、ねじ等を含む小さな部品工業、試験機、計測器等特殊な機械工業に及び、著者の言葉では「対象業種の自主的拡大効果」があったことを認めている。産業政策について理論的想定と分析対象にかかる乖離不整合としたのはこの観点である。

著者の産業政策の考え方である「特定の時期に特定の産業に関してなされる」という理論的立場や発想は、宇野弘蔵の段階論として知られる周知の「経済政策論」に一見近いものを感じる。宇野は、支配的資本「商人資本」「産業資本」「金融資本」が、各々「重商主義段階」「自由主義段階」「帝国主義段階」の政策展開力の中心になることを明らかにした。宇野は明確化している訳でなく単なる例示としたが、各段階の支配的産業は「毛織物工業」「綿工業」「鉄鋼業」とみていたことは容易に類推できる。

産業政策の理論的想定である「特定の時期に特定の産業に関してなされる」ということを極限まで形式化すれば、基本的論理は宇野段階論から引出しているようにも思われる。方法論として興味深い類似点である。また産業政策の終焉の発想は村上泰亮の強い影響が認められる。村上(『新中間大衆の時代』1984年)によれば産業政策の展開によって通産省主導の事実上のカルテルが行われ「仕切られた競争」が作り出される。仕切りは新規参入を規制し、不況になればカルテルを期待できるから重化学工業分野で旺盛な設備投資競争が生じ、平均費用曲線が低減し続ける状況が生まれる。平均費用曲線が低減し続ける状況では、通常市場の失敗が生じ「過当競争」が生じるが、これを緩和ないし是正したのが事実上のカルテルである「仕切られた競争」という筋書きになる。仕切られた競争における政府の介入は、介入を受ける企業によって介入内容が異なる点、介入内容が状況で変化しない点、罰則がない点で「特殊的、固定ルール的、指示的」とされる。罰則がなく指示的でもこの政府の介入システムがスムースに機能したのは、「追いつき型近代化を社会目標として前提」できる国民的合意があったという点を主張することになる。キャッチアップの過程は、耐久消費財が行き渡り主要産業の生産性上昇力が衰えて費用逓増状況が生まれるところで終了する。橋本は、村上の論理を前提に、「村上がのちに役割が終わった産業政策のサンセットの必要を力説したのも、産業政策が時代の文脈に依存した点を明らかにするためであった」と結論するのである。橋本自身の言葉を引用しよう。「1975年に日本の1人当りGDPは、人口の大きな国としてはアメリカ、西ドイツ、フランスに次、アメリカの3分の2を超えた。もはや日本経済には後発の不利益が存在せず、産業の国際競争上、特定の産業で先発国の不利益が発生すると、利害調整型の所得再分配的政策が主流になったのである」(第U部第6章P188)。

このように、宇野『経済政策論』と村上理論という一見異質な論理の合体から橋本産業政策論の骨子と形成を読み取るのは「牽強付会」の謗りを免れないかもしれない。

それはひとまずおき、オイルショック以降の市場環境や比較生産費構造の変化、そして世界市場における日本の位置の変化を正確に見通した村上や橋本の慧眼は認めるとして、現代資本主義の政策体系としての産業政策を、「追いつき型近代化」過程に特有なものと整理するだけでよいものであろうか。そのような理解では、何よりも1970年代から1980年代以降の先進国の経済政策をミスリードする危険がある。アメリカにおける「中小企業イノベーション法」(1982年)や「中小企業イノベーションプログラム(Small Business Innovation Research=SBIR)」等のベンチャービジネス支援策をどうみるか。レーガン政権下の「加速度減価償却制度」は、よもや所得再配分政策ではなかろう。イギリスのサッチャーの改革にも同様のことが言える。

産業政策は、著者のようにミクロ的観点から産業分析として所期の政策目的を達成したか等政策効果を含めて緻密に行われる必要があることはもちろんである。しかし同時に、「現代資本主義論」の一環を構成するものとして、いわばマクロ的観点から行われる必要がある。主権国家の下、国民経済が資本主義の主要なサブシステムとして機能し続けているからである。三和良一先生の「資本にたいする利潤保証政策」「労働に対する雇用・賃金保証政策」「経済過程への政策的介入が、低生産性部門の淘汰作用を鈍化させ国民的生産力へのマイナス効果に対応する生産力保証政策」を軸とする現代資本主義の政策体系は、そのような考えから構想されたと考えられる。著者自身、1980年代以降のアメリカやイギリス(先進国)で経済的停滞が見られ、中小企業が産業構造の円滑な転換、雇用の創出、技術革新の進展に大きく貢献したことを認めている。中小企業に即してではあるが、先進国における生産力保証政策等の展開に注目していたとも考えられる(「中小企業の経営革新支援政策の登場」1999年4月『金属プレス』)。著者が注目する創業5年以内の若い中小企業への支援を目的とする日本における「中小企業創造活動支援法」(1995年)や著者自身が制定作業にかかわった「中小企業経営革新支援法」(1999年)は、企業に対する「技術革新支援」の面からみれば、「利潤保証政策」の展開であり、「雇用の創出支援」面に注目すれば一種の「労働に対する賃金保証」である。また同法の主目的である「産業構造の転換支援」からみれば、現代における「生産力保証政策」の展開であろう。巨大銀行の合併等にも最近利用されている「産業活力再生特別措置法」(1999年)にも同様のことが言えよう。

従って評者には、もし著者が元気で研究活動を続けていれば、三和先生との間で経済政策論を中心にまた活発な学問的交流が復活し、それをとおして我々に新しい世界を見せてくれたであろうことを確信できるのである。

4.おわりに−おもいで−

橋本先生の『大恐慌期の日本資本主義』が出版されてほどなく我々の付き合いは始まった。先生は飯田老の主催された「三輪学苑」の講師として大内力先生、加藤榮一先生、安保哲夫先生と講義にきておられ、評者は受講生としてお目にかかったのである。それ以来、年齢の近いことや、それ以上に評者が青山学院の三和良一先生のゼミ生であったことで、三和先生を学問上の目標とされていた橋本先生は、特に評者に親しみをもたれたようだった。

2人とも30代半ば前後で金銭的に裕福でなかったから、茗荷谷の旧三井銀行研修所での講義が終わった後、池袋の安酒場を探しては夜が更けるのも忘れて夢中で話したことを鮮やかに思い出す。「上田さん、僕は三和先生に4回ほど殺されかけてんですよ」と、しらふのときは悔しそうに、しかし酔うとうれしそうに話されるのが印象的だった。「殺されかけた」というのは比喩で、当時は学会でも気づかれていない、近代史上の重要な画期をなす歴史的事実を実証して学問的成果を上げようと懸命になっているときに決まって先を越されるという趣旨であった。「金解禁政策」「1926年関税法改正」「労働組合法案」「高橋財政」についての各研究に特に打撃を受けたとのことであった。「研究が進んでいる最中であったり、重要性に気づいたばかりのときであったり、とにかく大変でした。1回ならともかく何回となくやられてごらんなさい、これは本当にまいります」としらふの時の真面目な顔がおもしろかった。

ほどなく『大恐慌期の日本資本主義』について三和先生が書評を書かれることになり、また『1930年代の日本経済』(東大出版会)に収録されている三和先生の「経済政策体系」について、橋本先生が本格的検討論文を書かれるなど、両先生の学問的交流はこの頃ピークを迎える。評者は、どういうわけか、いつも両先生から手書き原稿(書評)を渡されてお互いへの言付けを依頼されることが多く、いわば伝書鳩をやっていたから、この間の事情は一番詳しいかもしれない。

『大恐慌期の日本資本主義』の三和先生の書評について橋本先生は特に感じるところがあったようで、評者に「三和先生のお原稿は最初と最後のほめ言葉は別にして、内在的批評のモデルのようなものです。ご指摘の通りと白旗をあげるしかなさそうです」という印象深いが若干気にかかる内容の葉書をくださった。葉書からは詳しくわからないので慌ててお落ち込んでいないか心配になって電話したことを覚えている。

東大へ移られて1〜2年後の頃であろうか。評者の仕事がたまたま上野だったので、帰りに歩いて東大の社会科学研究所の研究室を突然訪問したことがある。予約してあったわけではなく今から考えれば失礼な話だが、久しぶりであったこともあり、先生は大変喜んで予定を変更し赤門近くの飲み屋で12時過ぎまで飲んだことがあった。酒によったせいか、職場を移られた感傷かその時先生は珍しく弱音を吐かれた「上田さん。僕は研究者としてピークは明らかに過ぎていますよ。間違いなくピークは超えています。」その時どうお返ししたか記憶は定かでないのだが、はげましを通り越して叱咤激励したような記憶があるのである。「宇野さんや、大内先生や、三和・馬場・加藤先生を完全に乗り越えるのはこれからでしょう。新古典派の内在的批判もこれからでしょう」と。その後の先生の活躍を支えた努力は自分の身を削るようなものだった。「ピークを過ぎたといっても、もう並みの学者の及ばない仕事をしたんだから後は後進の指導を中心にゆっくりしたらいいじゃないですか」というべきだったのである。誰のいうことでも真に受ける先生だったからより悔いが残るのである。先生との貴重な思いではまだまだ数限りなくある。

評者の招きに応じて、お忙しいのにわざわざ拙宅に遊びに来て下さったこともあった。仕事がうまくいかず、いらいらして研究室に電話し「先生、今日空いていますか」とさそって断られたことは一度もなかった。東大を辞め、法政に移る決心をされる前後であったろうと思うが二人で丸の内ホテルで飲んだことがあった。いろいろ話しをしてその帰路、橋本先生は評者の肩に手をかけ、東京駅まで肩を組んで歩くのだった。こちらはいいかげんな人間だから酔えば「寿朗ちゃん」となるのだが、折り目正しい彼は最後まで「上田さん」と礼儀を崩すことはなかった人だった。よほど寂しく、よほど悲しい気持ちだったのだろう。20年近い付き合いは断続的ではあったが、評者にとって幸せだった。  (上田 章)

                             (2002415日 合掌)

【この書評をホームペ−ジに掲載するに当たっては、上田章・杉浦勢之両氏のご承諾をいただいた。なお、杉浦氏執筆部分は、杉浦ゼミナールのホームページ上でも公開されている                             2003222日 三和良一】