年報近代日本研究 13
 『経済政策と産業』1991年

経済政策史の可能性

三和良一   

                         一

近代日本経済史研究のなかで、経済政策を対象とする経済政策史は、近年かなり関心が高まり、論考が増えている分野といえる。しかし、経済的基礎過程を対象とする研究領域では、経済事象の事実確認と事象間の相互関連ないし因果関連の分析作業を進める方法がある程度までは確定されていると言っても良いが、経済政策を対象とする領域では、なお分析方法について未解決の問題が多いように思われる。これは、おそらく、研究の量的蓄積の多寡から生じる問題というよりは、むしろ、研究対象の質的差異によるところのものであろう。

経済的基礎過程を対象とする時には、そこに現れる経済的事象(諸商品の生産・分配・消費にかかわる事象)を、ひとまずは、人間行為の累積的結果の総体として捉え、個別的な人間行為が総体に及ぼす影響は検討不要と見なして分析を進めることができる。これにたいして、経済政策を対象とする時には、或る政策を人間行為の累積的結果として捉えるところから出発して分析を進めることも可能ではあるが、やはり、経済政策史とすると、或る政策がどのような人間行為の累積のなかから決定されてきたのかという政策決定過程を解明する作業が必要になる。そこでは、個別的な人間行為(個人ないし集団の行為)が政策決定に及ぼす影響の分析がひとつの大きな課題となる。

人間行為の累積的結果の総体を対象とする場合には、そこにある種の法則性を想定し、諸事象を必然性の作用する因果関連のなかに位置づけることがある程度まで可能である。たとえば、恐慌という事象については、すくなくとも事後的には、それを生起させた諸要因を、経済学が提起する経済法則についての仮説に従って、因果律が支配する諸事象の連鎖として描き出すことができる、そこでは、恐慌に対処した経済政策も、ひとつの外生的要因として、因果連鎖のなかに組み込んで理解されるのが普通であろう。

しかし、経済政策史の観点からすると、恐慌への政策的対応を、外生的要因とするわけにはいかない。そのような政策が採られたことのいわば必然性を解明する作業がまず要請され、決定された政策を内生的要因として分析過程のなかに取り込む必要がある。そのうえで、因果連鎖的に生起した恐慌という事象にたいして、その政策が与えた影響を評価することになる。とはいえ、個人的ないし集団的な意思決定としての恐慌対処政策は、現実に進行する恐慌事象との間にフィード・バック関係(恐慌のありかたに規定された対処政策が、恐慌過程に影響を与え、それによって、さらに、対処政策が変化するという連鎖的関係)があるにしても、経済的法則に支配される恐慌という客観的経済事象にたいしては、なお、政策主体による主観的人間行為という異質性を持ち続ける。

そこでは、たとえば、政策主体が、恐慌の発生要因をどのように分析し把握しているかという状況認識が、現実に進行している恐慌の客観的状況とは一致しない場合が起こり得るし、恐慌対策として採られる政策手段が、適切に選択されないという事態も生じうる。また、状況認識が的確で、政策手段選択が適切であり、政策が当初期待した効果を発揮したとしても、景気循環とは別の経済事象、たとえば、対外経済関係に、予期せぬ変化(政策主体としては意図しなかった政策効果)を発生させてしまう場合もあり得よう。

つまり、経済政策は、それが、政策主体の主観的人間行為の結果であるために、経済法則の支配する客観的経済事象に一元的に規定された内生的要因としては把握しきれない面を持っている。また、その政策の効果を判定する際には、意図された目的がどの程度まで達成されたかの評価とは別に、意図せざる効果も評価することが重要となる場合がある。

このような特性を持つだけに、経済政策の歴史的分析に際しては、分析者の問題関心に応じて、多様な分析方法が採用されてきている。経済政策史の研究蓄積がかなり厚くなりつつある現在、あらためて経済政策史という学問領域が果たし得る役割を考えたうえで、分析方法としてどのような可能性があり得るかを考えてみるのも無駄ではあるまい。

経済政策が対象とする経済的事象、そして、政策にかかわる人間行為は、ともに、ある時空間に起生する現象である。ひとまずは、物理的時間の流れの特定の区切りのなかで、地球上の特定の空間範囲で、経済的現象は出現する。一八八一年から松方財政が日本で、一九三三年からニュー・ディール政策がアメリカで開始されたという具合である。しかし、研究者は、物理的時間を現象出現の先後関係の確定尺度としては利用するものの、経済的現象を、物理的時間の区切りのなかで把握しようとはしない。その物理的時間の区切りが、歴史時間としてどのような区切りであるかを考えながら、経済的現象をある歴史時間の区切りのなかで出現したものとして把握しようとする。そしてこれまでに、古代・中世・近代を区分する歴史学の古典的な区切り方に始まる様々な歴史時間の区分法が提起されてきている。つまり、時間を歴史時間として分節化することによって個別的な経済的現象(あるいはその他の人間行為の諸結果)を歴史の座標軸に位置付ける作業が、歴史分析の大きな課題のひとつになってきた。

また、空間にしても、研究者は、それを単に物理的空間としては捉えていない。動植物・鉱物の賦存状態、地形・気象の状態などから地理学的に特徴付けられる空間として捉えることからはじまって、様々な仕方で特徴付けられた空間を措定しながら、経済的現象を把握しようとする。つまり、空間を人間の行為空間として分節化することによって、個別的な人間行為の諸結果を人間的空間の座標軸に位置づける作業を、研究者は試みているわけである。

では、時間と空間を分節化する際には、どのような方法が採られているのであろうか。ひとつは、超越的な作用主体を措定して、その主体の作用によって時間と空間を分節化する方法が、とくに宗教的世界認識として採られてきた。カミが時空間を支配し、現世と来世を、あるいは聖なる空間と俗なる空間を区分するという考え方は、それ自身としては興味深いが、われわれの方法としては採用しがたい。やはり、ひとまず、人間行為を、社会・経済・政治・文化などと呼ばれる諸行為に区分する方法を用いながら、時空間の分節化をおこなうのが適当であろう。

とはいえ、人間行為を、その全体を構成する部分行為に分節化する方法が、社会科学・人文科学の領域で確立されているとは言いがたい。一応、経済学・政治学・社会学・法学・文化人類学あるいは、哲学・心理学などの学問領域が、それぞれに独自の対象としての部分的人間行為を抽出してはいるが、その部分行為が、他の領域から抽出された部分行為とどのように関連するのか、あるいは、その部分行為が人間行為の全体に対してどのように位置づけられるのかを明確にした学問領域はまだ無いといってよかろう。

人間がとりむすぶ生産諸関係の総体が「土台」を構成して、法律的・政治的「上部構造」、社会的意識諸形態を「制約」あるいは「規定」するとはマルクスの仮説であるが、「制約・規定」の仕組みが明示されているわけではなく、「上部構造」・意識形態の「土台」にたいする反作用のあり方も解明されてはいない。また、パーソンズは、行為システムをパーソナリティ・システム、社会システム、文化システム、行動有機体システムに四区分し、機能的要件(適応・目標達成・統合・潜在的パターン維持)を第一次的に受け持つサブ・システムとしてA・G・I・Lの四部門を設定し、部門間の相互交換メディアとして貨幣・権力・影響力・価値コミットメントの四つを想定した。ルーマンは、パーソンズ理論を批判しながら、パースン・システムと社会システムを区分したうえで、社会システムを、経済・政治・科学・宗教・教育など、自己言及性Selbstreferenzを保持する数多くの部分システムに区分し、諸システム間の相互浸透Interpenetrationがおこなわれてシステム統合が実現されるとする。ともに、なかなか魅力的な仮説ではあるが、まだ理論的抽象度が高すぎて、現実の諸システム分析の作業仮説として活用できるシステム論としては確立されていないと思われる。

つまり、時間と空間を分節化する方法は、それぞれの学問領域なりには提起されているが、人間行為を全体として総合的に把握したうえでの分節化方法は未確立の状態であり、また、全体的把握はそもそも不可能であるとしても、部分的人間行為を基準に分節化されたそれぞれの時空間の間の関連を明確にする方法も確定されているわけではない。このような学問状況は、人類史にとって不幸であるのはもとより、経済政策史の分析作業にとってもはなはだ具合が悪い。

人間の経済行為を抽出して経済的基礎過程あるいは経済システムとして区分することは、比較的承認されやすい分節化の方法であり、経済学は、その対象の分析にかなりの成果を収めてきたといえよう。経済政策史は、ひとまずこの経済学の成果の上に乗って分析作業をおこなうが、経済政策にかかわる政策主体は、「経済」として分節化された人間行為の主体であるにとどまらず、「政治」「社会」あるいは「文化」などとして分節化される時空間における主体としても行為する場合が多いから、それぞれの時空間の間を関連付ける方法が未確立な状況は、おおいに不都合なのである。

おまけに、現代は、マルクス経済学も近代経済学もともにその有効性が問題視される時代である。経済人、ホモ・エコノミクスを行為主体と措定する方法は、方法論的個人主義にたいする構造主義・制度派・システム論などからの批判にさらされ、あるいは、ホモ・エコノミクスとしての主体の抽出が「虚構」にすぎないとのソシオ・エコノミクスなどからの批判を浴びている。あるいは、均衡分析をおこなう静学としては深化しているが、不確実性をふくむ時間要素を処理する動学としての不十分さが、経済学の内外で指摘されている。さらには、地球資源の供給や廃棄物処理の時空間を無制限と暗黙裏に仮定してきたことへの批判も強くなりつつある。

たよるべき経済学自体が、かなり根源的ともいえる難問に直面している状況は、経済政策史の分析作業を、一層、方法的に難しくしている。このような状況では、いっそのこと没方法的に、研究者の関心のおもむくままに対象を選定し、史実を詳細に掘り起こすファクト・ファインディングの作業に専念したほうが効率的かとさえ思われる。しかし、翻って考えてみると、現在の経済学、社会科学さらには人間諸科学のかかえる難問に切り込むのに、経済政策史という学問領域は、ひとつの戦略的管制高地であるとも見ることができる。

経済政策の政策主体は、ホモ・エコノミクスとして経済合理的に行為する個人あるいは人間集団として抽出されるわけではなく、分節化された複数の時空間に生きる個人・人間集団として特定される。その政策主体の行為は、経済的時空間の経済事象にある変化を生じさせるが、その行為は、大なり小なり政治・社会・文化などの他の時空間にも影響を及ぼす。とすれば、経済政策の分析は、分節化された諸時空間の関連如何を問う応用問題を解く作業という面を持っていることになり、ケース・スタディを積み重ねれば、部分的人間行為の間の関連を分析する理論的方法論に有効な貢献を果たすことが期待できる。

あるいは、経済政策をその歴史的生成根拠から検討し、それが作用する歴史的経済的時空間の特性を確認しながら、結果としてそれが経済的時空間にどのような変化を発生させたかを判定する作業は、経済動学の深化になんらかのヒントを提供し得るかもしれない。

また、ここまでの記述は、ほぼ近代資本制社会における人間的行為としての経済政策を念頭に置いてきたが、経済史が対象とするように、前近代社会あるいは近代の非資本制社会(社会主義社会など)においても経済的時空間が分節化できるから、非資本制諸社会についても、研究領域として経済政策史を設定することが許されるであろう。このように経済的時空間を幅広く設定した経済政策史は、経済政策の生成過程・作用過程の比較分析によって、経済的時空間ばかりでなくその他の諸時空間の歴史的・空間的特性を検出できる可能性を持っているように思われる。

さらに、経済政策史は、政治・社会・文化などの時空間を主たる場とした政策(内治政策・外交政策・教育政策・家族政策・文化政策など)の歴史的検討作業と対比して、問題整理の場としての適性が高いのではなかろうか。経済的基礎過程が「土台」であるからというのではない。そのような強い仮定を設けると、経済政策史自体の出番がなくなってしまうおそれがある。「土台・上部構造」という観点から適性が高いと見るのではなく、人間の経済的行為は、ほかの行為の場合に較べて、その累積的結果のなかに作用する法則性を想定しやすいという観点からそう考えるのである。言葉を換えれば、経済的事象に関しては、人間の行為の恣意性・偶発性が作用する度合いが比較的小さいという特性が指摘できるからである。これは、初源的には、経済的事象のうちで、特に物財の生産が、自然に働きかけて人間労働を対象化する作業であることから、それが自然科学的法則の作用領域によって限界を与えられているという事実に起因し、さらには、人間労働が対象化した物財の交換では、貨幣によってそれが媒介されることが示すように、等質性と等量性の社会的承認が成立しやすく、人間行為の目的合理性が貫徹する機会が多いという事実によって強化されている特性である。このような特性を持つ経済的事象の生起する時空間における政策を対象とする歴史分析は、他の政策を対象とする場合よりも、いわば場の設定が容易であるという利点を持っているといってよかろう。

そして最後に考慮すべき点は、人類史が現在直面している危機的状況の検討に際しての経済政策史からのアプローチの有効性である。現代、一部の国々の国民生活水準は「過剰富裕化」(馬場宏二)と呼ばれるほどに上昇したが、それは、同時代の他の国民あるいは将来の世代の「困窮化」を前提として可能になっていることが指摘され、さらには、遠くない将来における人類史の終焉さえ危倶される状況にある。仮に、現在、全世界人口がその生活を「過剰富裕化」水準で享受しようとすれば、資源(エネルギー・食糧・鉱物)の面からも環境(生態系)の面からも地球にそれを実現させる能力はないであろうし、長期的に見ても現在の「過剰富裕化」傾向の経済成長が持続すればやがて地球は人類を存続させる能力を失うであろうというわけである。この危機的状況は、第一次的には人間の経済行為が生み出したものであるから、それへの対応は、ひとまず経済問題として検討されねばならない。「地球に優しい技術」の開発が望まれてはいるが、自然科学技術の発達のスピードが資源・環境の蕩尽のスピードに追いつくという保証はないから、当面は、蕩尽スピードを減速させることが急務であろう。人間の経済行為を制御する途を検討しなければならない。

唯物史観は、生産関係はそのなかで成長した生産力を包摂できなくなった時に新しい生産関係によって置き換えられるとの仮説を提起している。社会システム論も、システム内あるいはシステム間に不均衡が発生した場合に社会変動・社会進化が起こると見ている。現代は、まさに生産関係や社会システムの転換が要請されている状況にあるとも言えよう。しかし、唯物史観も社会システム論も、そのような転換がどのように起こるのか、あるいは、どのような方向で転換を意識的に促進するのが妥当であるかについては、有効な発言をしていない。唯物史観についてのこのような言い方には、あるいは異論が出るかもしれない。ソ連型社会主義の失敗は、社会主義の可能性の全てを否定する論拠にはならないという見方があり得る。この見方には、筆者も同感である。しかし、唯物史観が描き出した社会主義には、生産力の拡大こそが人類に「自由の王国」を約束するという信念、そして、社会主義のもとでこそ生産力の拡大が達成されるという確信が付き回っていた。この確信が誤りであったことは一九八○年代の歴史が証明し、この信念には重大な疑義があることが今や地球資源・環境間題として提起されている。社会主義という経済体制の持ち得る可能性は、生産力信仰とは訣別したうえで再検討する必要があろう。

つまりは、人類史の危機回避のグランド・デザインはいまだ不在であり、「環境税」など断片的な対応策が提起されているのが現状である。人類の知的営為のいたらなさが痛感されるが、慨嘆して手を拱いているわけにはいかない。人間諸科学が、協同して危機回避の途を求めるべき時である。

さしあたり、資源・環境蕩尽スピードを減速させるための経済行為制御の途を探らなければならないが、そこでは、まず適切な経済政策があり得るか否かを検討することが課題となろう。この検討作業に当たっては、経済政策史の知見が役に立ちそうに思われる。それは、経済政策史の立場から積極的な政策提言ができるという意味からではない。経済政策史は、ある時空間で、ある政策が選択されたことの因果性の分析を作業課題のひとつにしている。政策選択に際して、社会諸階級・集団の利害意識がどのように作用したかを分析する能力を経済政策史が持っているとすれば、現時点で提起される経済政策の実現可能性を検討する役割を果たすことができるかもしれない。提起された経済政策の実現を阻止しようとする社会的利害意識の存在箇所を確認できれば、その利害意識を削滅する方策の形成を政治・文化・社会など他の領域の政策主体に要請することも出来ることになる。

以上に述べたような点から、経済政策史は、現代の人間諸科学が直面する問題に取り組むに際して、戦略的管制高地たり得る可能性を持っていると筆者は考えている。そこで、次に検討すべきは、経済政策史の方法である。

経済政策史は、経済的時空間を主たる場とする人間行為が、他の時空間の作用を受け、あるいは、他の時空間に作用を及ぼす過程をも分析する学問領域であるとすれば、分析作業をおこなうに当たって、経済政策がどのような時空間に位置するかを確定する座標軸を明確にしておくことが望ましい。時間と空間を分節化する方法が未確立である学問状況のもとでは、座標軸を厳格に設定することは不可能であるが、見取図程度のものを仮構しておいて、逐次修正をほどこすつもりで分析作業に着手することはできるであろう。この見取図は、さしあたり研究者それぞれの抱く世界像にしたがって描きだされるものであるから、同形の図柄にはならないであろうが、研究者の間での意思疎通と協働関係を成立させるためには、たがいに自分の見取図を示しあうことが必要と思われる。

そこで、筆者が現在のところ考えている見取図を素描する試みに着手したいが、能力と時間の制約から、本稿では、対象を空間の分節化に限定する。これは、かつて、経済政策史の分析の方法として田島恵児氏とともに設定したフレーム・オブ・リファレンス(「経済政策の比較史的研究の方法について」、『青山経済論集』第二九巻、第一号、一九七七年六月)で、「経済的利害状況」「非経済的利害状況」から「利害意識」が形成されると仮定した際に、「経済」「非経済」という分節化の仕方を明示しなかった不備を補う努力であり、分節化の明確化によって、このフレーム・オブ・リファレンスの再構築が可能になると考えている。

人間の社会的行為空間の分節化に関しては、パーソンズやルーマンあるいはハーバマス等が提起するシステム区分の理念的方法がある。しかし、ここでは、行為と組織・制度を統一的に捉える方法ではなく、人間行為の動機にそくして空間を分節化する方法を採りたい。そして、人間の内面的行為としての人格的自己同一性の形成・維持行為そのものはひとまず対象外(所与)として、人間の外面的行為としての社会的行為に対象を限定する。また、人間の行為空間は、視点を移すと宇宙自然的空間のなかに包摂されている。宇宙自然的空間は、人間の外部自然=自然環境としてばかりでなく、内部自然=身体性としても人間行為空間と関連している。この関連性の分析は、極めて重要と考えているが、これも、ここではひとまず対象外とし、宇宙自然的空間は「自然」として所与のものと仮定しておきたい。

さて具体的な人間の社会的行為は、たとえば、オリンピック競技が、スポーツであると同時に、施設・用具の消費であり、人類の一体感の演出であり、国威の発揚でもあるという具合に、多面的な意味を持っている。このような意味が発生する場を、経済・政治・社会・文化の四つの空間として分節化してみよう。

経済的空間は、まず、人間の生物的存在と社会的存在を維持するために必要な物・サービスを獲得し消費することを原基的(一次的)動機とした行為を包摂した空間と考えることができる。そこでは、自然を対象とした労働を出発点とする生産行為(自然資源・生産財の中間的消費と廃物・廃熱の棄却を含む)、生産物(物・サービス)と大地(生産手段と廃物・廃熱棄却場としての)を対象とした分配行為(贈与・交換・再配分)、生産物の消費行為(最終消費と廃物・廃熱棄却)がおこなわれる。ただし、これらの経済行為を動機づける獲得・消費の対象となる物・サービスが、なぜ人間にとって必要なモノとなるかについては検討を要する。「必要なモノ」という言い方をやや分解してみれば、ある有用性・使用価値を持つある量のモノとなる。モノが有用性・使用価値を持つのは、モノの自然的属性を基礎に人間がそれを有用であると評価するためであり、そこでは、経済とは別の人間行為からの評価基準も作用する。食物は、人間の生物的存在の維持に有用であるが、なにを食べるかとなれば、禁忌(イスラム世界の豚)や「衒示的消費」「記号的消費」(超高級品志向・ブランド志向)など、社会的空間の行為動機が有用性を規定するし、武器やスポーツ用品などの有用性は、政治・文化的動機が規定要因になるという具合である。つまり、有用性・使用価値は、経済的空間のなかで一義的に決定されるものではなく、他の空間における行為動機によって規定されるものでもある。

「ある量のモノ」についても同様に考えられる。生産行為のなかで中間的に消費されるモノの量については、産業連関分析(物量単位)あるいは素材視点からの再生産表式の流儀で技術的に決定されるが、最終消費に必要とされるモノの量は、経済的空間内で一義的に決定されるわけではない。生物的存在を維持するのに要する量としてモノの最小限必要量は生活科学的に決定されるとしても、社会的存在を維持するに要する量は、それの生産可能量を最大限とするとしか言い様がないであろう。そして、最終消費に向けられる各種のモノの生産可能総量は、大地・生産された生産手段・労働力とそれらの組合わせ方によって技術的に制約されているが、その制約の枠内でそれぞれのモノをどれだけ必要とするかは、個人・集団の選択の総和としてしか確定されない。その選択には、経済以外の諸空間の行為動機も作用するから、「ある量のモノ」も政治・社会・文化諸空間のあり方によって影響される性質のものである。

経済学の原論(原理論)の場合には、「必要なモノ」の有用性・使用価値は、「所与」あるいは一定期間は不変として扱われ、その必要量(需要)の変動は、内生的(供給価格・所得などの関数として)に生じるものでなければ、「所与」とされる(「需要が何らかの理由で変動すると」とか「需要曲線がシフトすると」などの言い方)。経済原論が、「必要なモノ」をこのように処理していいものかどうか疑問が残るが、ともかく経済史・経済政策史の場合には、有用性・必要量の経済外的規定要因にも着目せざるを得ない。

ところで、経済的行為は、「必要なモノ」の獲得・消費を原基的(一次的)動機とするが、「必要なモノ」が分配(交換)される行為のなかから、特定の物が「一般的等価物」=貨幣として析出されてくると、その獲得を動機とする経済的行為が発生する。この二次的動機による人間行為を包摂した空間も、経済的空間と考えておこう。この二次的動機による経済的行為のなかで、「必要なモノ」は「商品としてのモノ」に変わり、さらには、大地や人間の労働能力までもが商品化される。もともと「必要なモノ」は政治・社会・文化諸空間からの被規定性をもつから、経済外空間の人間の行為動機に働きかけることによって、新しい「必要なモノ」を創り出すこともできる。二次的動機による経済行為の主体は、「必要なモノ」の内容(質と量)を操作することによって、貨幣増殖を実現する途も発見可能になる。「まだ使えるモノ」を「古臭くて使えないモノ」に、「欲しくもないモノ」を「必要なモノ」に変える手法が発達する。「モノ」に関する欲望の操作可能性が拡大するなかで、主体であるはずの人間の欲望主体性は縮小し、「本当に必要なモノ」は何であるのか選びとることが困難になると見てもよかろう。

また、二次的動機による経済行為のなかでは、分配(交換)行為とともに生産行為も貨幣増殖の手段となる。生産・分配・消費を総合した人間行為の自己目的性は、その行為が二次的動機の手段化することによって、一面では強化されるが、他面ではその「魂」ともいうべきものを失う。経済システムとしての自己完結性(他の空間からの経済的空間の自立性、経済法則・価値法則の作用性)や効率性(時間と空間の細分化と節約、投入産出比率、労働生産性)は高まるが、人間が行為する空間としての快適さが経済的空間から失われる(労働の「苦役化」、消費の「義務化」、人間・自然関係の「敵対化」)。

さて、次に経済的空間以外の空間の区分を簡単に試みておこう。まず、「必要なモノ」・大地・貨幣そして労働の奪取、あるいは、「社会的価値」(後述)やその形成・獲得手段の奪取を一次的動機とする人間行為が包摂される空間を政治的空間としよう。奪取とは、対象の全部または一部をその所有者の意思に逆らって取得することという程度の意味で使う。奪取が可能になるには、特定の個人・集団の命令に、他の個人・集団を服従させること、つまり支配が実現されなげればならない。(支配の目的がすべて奪取にあるという意味ではない。組織が形成される場合には、なんらかの命令・服従関係つまり支配が必要となるが、そのすべてを政治的空間の事象とみるわけではない)。支配される側が服従することを承認するのは、支配されることによって生じるであろう不利益と利益とを衡量したうえでであろう。服従承認が利害の衡量という手続きを大なり小なり省略して形成される場合には、支配は持続しやすくなる。この場合には、支配される側が支配の正当性を包括的に承認しているといってよかろう。ウェーバーが三理念型として提起した支配の正当性信仰は、この例である。支配が持続的におこなわれる場には権力が作用していると想定できる。権力は、制裁(不利益の発生)の威赫・利益誘導・利害衡量に必要な情報の操作・感情の操作・最終的には制裁の発動などの手段を通して、支配を持続させることができる力能である。権力を握ると、種々な欲望の充足手段(富・名誉・快楽対象・領土など)を奪取できる可能性が大きくなるから、権力を獲得すること自体が政治的行為の二次的動機となる。この二次的動機による行為が行われる空間も政治的空間としよう。

服従承認が形成されない場合には、闘争が発生するか、支配しようとする側の譲歩が形成され、この政治的空間の局面が転換する。譲歩によって利害衡量が変化し、服従承認が形成されれば支配関係が成立する。しかし、その譲歩が大きければ、服従が実質的な内容を持たなくなる場合もあり得る。そのような場合には、支配が実現したというよりも、利害の調整がおこなわれたと言ったほうがよいであろう。近代では、この利害調整が、政治的空間では大きな部分を占めるに至ったと見ることができる。

社会的空間は、個人が他の個人との一体感を獲得することを一次的動機として行為をおこなう空間と考えておこう。この一体感は、「われわれ(我々)という主観的共同性」の意識であり、それによって個人の人格的自己同一性Identityが強化される(歴史的に見れば、このような行為は、個人が「自然的・客観的共同性」=「むれ(群)」のなかに埋没している時代には、起こり得ない。そのような時代には、「共同性」それ自体を維持する行為が、社会的空間の大きな部分を占めていたものと推測できる。あるいは、そのような時代については、社会的空間は分節化できないと言うべきなのかもしれない。「自然的共同性」に対立する個人が形成されると、個人は「自然的共同性」からの、そして「自然」そのものからの、離別感・断絶感を抱くようになる、あるいは、自己のうちに「欠落」を意識するようになると考えることもできる。この断絶感あるいは「欠落」が、一体感を求める原基的動機なのかもしれない)。

この一体感の形成・維持を媒介するものは、性・血縁・祖先・民族性・地縁性・階層性・国民性・階級性・類的存在性や職業・趣味・好み・受苦、あるいはカミ(神)・聖性・イデオロギーなど様々であり得る。行為の形態も、性行為・祭儀・典礼・祭典・シンボル創出・行動パターン統一・互酬・互助・会同・共同労働・共同生活、あるいは外部から「共同性」が侵された場合の報復・復讐など様々である。一体感の形成・維持は、その反射として他の個人・集団との差異感をもたらす。そこで、顛倒したかたちで、差異感を強化すること自体が行為動機となる可能性がある。社会的空間では、差異化を二次的動機とした、他の「共同性」を持つ個人・集団の差別化・迫害などの行為も生起する。あるいは、一体感を求める行為は、経済的・政治的目的を持つ行為とともに、「客観的共同性」(家族・イエ・同族・共同体・民族・クニ・宗教集団・同志など)を生み出す。個人は、いくつかの「客観的共同性」に帰属することによって、人格的自己同一性を確保することになる。帰属する「客観的共同性」が複数の場合には、個人は、それらの間に主観的評価序列をつけることになるであろう。

ある「客観的共同性」自体からの個人に対する帰属要請が強くなってくると、逆に、個人の人格的自己同一性が損なわれる可能性が出てくる。また、ある「客観的共同性」自体が何らかの原因で弱体化ないし解体しても、個人は、人格的自己同一性の維持が難しくなる。個人が人格的自己同一性維持の危機に直面すると、既属の「客観的共同性」の間の序列の変換や新しい「主観的共同性」の形成を試みる。それは、既属の「客観的共同性」から個人が自己を差異化する行為を伴う。自己差異化を二次的動機とする行為、たとえば、差異を強調したモノや行動パターンの使用・採用などが生起する。

文化的空間は分節化しにくいが、ひとまず、個人が感覚的快楽や好奇心を満たすこと、あるいは心理的抑圧・緊張を解除することを動機としておこなう行為が生起する空間と見ておこう。文化的行為にかかわるキーワードを挙げると、芸術・技芸・芸能・スポーツ・遊び・嗜好・文学・学術・冒険あるいは美・真理・技能・勝負(かち・まけ)・カタルシス・未知世界などとなろう。これらのキーワードを相互に関連づける枠組みを、筆者はまだ持っていない。この空間における行為は、技・芸を習得する、技・芸を表現する(形象化・記号化する)、技・芸の優劣を競う、表現された技・芸あるいはその優劣を享受する、自然自体の特性(自然美・味・音・香・触感など)を享受する、自我と環境世界についての直覚・評価を表現する、情報(識)の分析方法(知)を開発する、知識を表現する、知識を学ぶ・教える、未知世界に入る、などとなろう。

ここで使用した「情報」「記号」「知識」は、「技術」などと同様に、文化的空間に特有の用語ではなく、他の空間でも用いられる。これらの用語の本質を分析する研究は、かなり深化してきており、その研究成果を経済政策史の領域でも活用すべき時期と思われるが、ここでは、それらの成果の検討は保留しておきたい。

さて、以上四つに分節化されたそれぞれの空間では、人間行為のなかから、さまざな「社会的価値」の意識が生み出され、また、一般的にはその行為に関する規則(禁止あるいは許容される行為の限定)が形成される。これまでは行為の一次的動機と二次的動機を考えてきたが、人間の具体的行為は、動機にもとづく行為であると同時に、なんらかの価値評価基準と規則にしたがって方向づけられた行為である。この価値評価基準となるものを「社会的価値」とよんでおこう。

経済的空間では、生産行為(とくに工業部門における)のなかで、自然法則とそこにおける合理性の認識が蓄積されて、「合理性」を「社会的価値」(以下では「価値」と省略)とする意識が生み出される。分配行為のなかからは、「平等性」が「価値」とされてくるが、生産手段の私的占有が発生し、「奪取の禁止」が規則となると、「平等性」は「実質的平等性」と「形式的平等性」に分裂する。「奪取の禁止」規則の適用範囲が拡大して私的所有が確立すると、「形式的平等性」は、「能力にたいする平等性」に転化して「自由競争」が「価値」となる。生産・消費行為のなかからは、モノの特性の優劣を判断する「機能性」「便宜性」が、また、貨幣の獲得を動機とする単位時間あたりの投入貨幣量に対する獲得貨幣量の割合(利益率)を最大にする行為のなかからは、「効率性」が「価値」として意識される。

政治的空間では、支配が持続するなかで、「伝統的権威」「身分」「地位」などが、あるいは、支配に対抗する行為のなかから、「自由」「平等」「平和」「安全」などが、「価値」として意識されるようになる。「名誉」「正義」も、主として政治的空間から意識化された「価値」といえよう。社会的空間では、種々の「客観的共同性」の「一体性」、あるいは「神・聖性」「客観的共同性への愛」「和」が「価値」と意識される。文化的空間では、「美」「真」「知識」「巧みさ」、あるいは、それらを体現できる能力としての「権威」などが「価値」と意識される。

個人の行為を内面から方向付ける「社会的価値」として、「善」「徳」が、「仁」「義」「礼」「信」「節制」「禁欲」「勇気」などを内容として、主として政治・社会的空間で意識化される。マイナスの形式で表現される「社会的価値」といえる「罪」「恥」「穢れ」も、政治・社会的空間から生み出された意識といえよう。

人間の社会的行為を規制する規則は、さまざまな社会組織・社会制度を規律するものとして形成されるが、一般的には、政治的空間で、支配の及ぶ事項の範囲限定、合意形成の手続き、合意の効力確保手段が規則化される場合が多いといえよう。

以上、人間の社会的行為空間を四つに分節化してみた。念のため確認しておくと、現実の人間生活のなかでは、この四空間は相互に入り組んだ入子・モザイク型になっている。たとえば現代の学校は、知識・技・芸の教学がおこなわれる文化的空間であるが、しばしば同窓・民族・国民などの一体感を形成する社会的空間でもあり、支配主体にとって好ましい行動パターンを受容させる政治的空間でもあり、また、「優秀な」労働力・「良き」消費者が再生産される経済的空間でもある。

あるいは、各空間は相互に連関しているといってもよい。経済的空間では、他の空間における人間行為を行う際に必要とされる特定の物・サービスが生産されるし、原基的には経済的行為である個人の消費行為にさいしての「必要なモノ」も社会・文化的空間における選択行為がなければ具体的なモノとして確定されない場合があることは前に述べた。政治的空間は、そもそも経済的富・「社会的価値」物などの奪取を動機として分節化されたものであるし、それらを奪取することによって権力は強化され得るから、経済・社会・文化的空間と直接に係わっているといえる。経済・社会・文化的空間における行為主体が、利害対立から政治的空間における行為を要請することもしばしばおこる。

では、このように分節化された空間相互の連関のなかから、何らかの序列化、あるいは審級区分を見出すことは可能であろうか。たとえば、経済的空間における動機・「社会的価値」が、他の空間における人間行為を規定するなどという表現は有意であり得るであろうか。おそらく、歴史のどの時代にも有意である最終審級空間は有り得ないように思われる。もちろん、こう思うことは、いわゆる唯物史観の「土台」の「制約・規定」性をただちに否定することにはならない。「生産諸関係の総体=社会の経済的機構」「法律的・政治的上部構造」「社会的意識諸形態」という分節化は、ここでの空間の分節化とは異なっているからである。とはいえ、空間の分節化を既述のように試みたうえで見直すと、「土台」「上部構造」論には納得しかねる点が多い。

現代の社会を見ると、たしかに経済的空間の諸空間にたいする影響力は極めて大きい。他空間が生み出す「社会的価値」も、しばしばその価値を「貨幣」で尺度され、「貨幣」で獲得できる「モノ」化してきたし、政治的空間における人間行為の動機は「貨幣」獲得に収斂し、文化的空間の動機にも「貨幣」が絡みついている。社会的空間の「客観的共同性」はおしなべて弱体化し、はなはだしきにいたっては、原基的には経済組織である企業=会社そのものが「客観的共同性」となり、一体感維持の主要な場として機能して、ヒトに自死さえ厭わせない。あるいは、「主観的共同性」を求め得ずして「よるべなさに身も心もやつれたよう」(五輪真弓)になった人間が、ひたすら「自己差異化」の手段として「記号」たりうるモノを求め、あげくのはてには、「アディクテッド・ショッパー(嗜癖的乱買者)」となって必要もないものを買いあさる。売れるものが「必要なモノ」であり、需要は供給によって創りだせると信じて疑わぬ企業から「モノ」が商品として溢れ出て、「貨幣」が増殖する。「貨幣」獲得そのものがゲームとなって、「貨幣」はいやがうえにも自己増殖をつづける。

人間の欲望が渦を巻いて経済的空間に流れ込む現代は、たしかに「唯物史観」を実証しているように見える。しかし、近代社会がはじめて経済学を生み出したという事実が示しているように、人類史のなかで、経済的空間があたかも一人歩きしているような状況「場」が出現したのは、ごく最近のことにすぎない。現代のこのような状態が継続する時、人類史は「悲しき唯物史観」(馬場宏二)の検証に終わるとすれば、やはり、社会科学は、この現代を歴史的に相対化する作業を急がなければなるまい。経済政策史の可能性の中心は、まさにこの歴史的相対化作業にある。