『日本占領の経済政策史的研究』
【書評の書評】1
 

石井晋学習院大学助教授の書評について


三和良一  


 『社会経済史学』
69卷1号(20035月)に、石井晋氏が、『日本占領の経済政策史的研究』の書評を書いてくださった。著作は、いったん公開されれば、ひとつの作品・テキストとして、読者の自由な読解・評価に委ねられるのは当然で、その評価にたいして著者がとやかく口をはさむことはエレガントな態度とは言えまい。とはいえ、書評もまた、公開されてひとつの作品となったからには、それを評価することは、読者の自由となろう。石井書評の読者として、ここに感想を述べてみたい。

石井氏は、「評者の読後感を一言で表すならば,政策決定過程の論文は興味深い指摘が多いが,占領政策の評価に関しては,論理が混迷し,結論が不明瞭であるだけでなく,問題設定さえミスリーディングなものとなっているということになる。」(『社会経済史学』69卷1号、99頁)と言われる。@論理の混迷、A結論の不明瞭、B問題設定のミスリーディングの3つが指摘されている。欠陥がこの三拍子ほど揃った著作は、ほとんど公刊に値しない欠陥作品に違いない。はたして、そうなのであろうか?

まず、@論理の混迷、とはなにか。石井氏は、どの部分の論理が混迷しているのか、具体的には指摘していないから、書評読者には、はたして混迷しているかどうかの判断はできない。書評の末尾には、「本書ではあまりに文書史料そのものに引きずられ,歴史的な文脈を軽視して問題設定がなされた結果,議論が混迷している感が否めない。」(101頁)と書かれているところから見ると、混迷しているのは、「論理」ではなくて「議論」なのかもしれない。「論理」の混迷と「議論」の混迷とは、まったく別の次元の混迷で、両方をゴッチャにする方が、よほどの「混迷」だと思うが、それはさておき、「議論」の混迷は、問題設定が「歴史的な文脈を軽視」してなされた結果ということなので、@の論理の混迷は、Bの問題設定のミスリーディングという欠陥からの派生物となるらしい。

Aは後回しにして、B問題設定のミスリーディングとはなにか。石井氏は、三和が占領政策を評価するに際して、目的としての「非軍事化」が達成されたか否かという問題設定をしたことをミスリーディングと指摘する。いわく、「評者にとって疑問なのは,連合国ないしアメリカの当初の目的が,無限定の「非軍事化」と解釈され,この点が改革を評価する際に決定的な重要性を付与されてしまっている点である。」(100頁)。石井氏が問題にするのは、「非軍事化」という政策目的が、「無限定」だという点である。「無限定」という意味を、石井氏はあまり「限定」してはいないが、「占領目的の主要部分は,無限定の「非軍事化」や「軍国主義的衝動除去」などではなくて,戦後の新たな国際環境の中で,アメリカの国益に反するような,あるいはアメリカが強い指導性を発揮して形成されつつあった連合国による「国際秩序」に反するような軍事的行動を短期・長期にわたって抑制すること,といった限定付きのものであろう。」(100頁)と書かれているから、アメリカあるいは連合国の国益によって「限定」されていることを捨象した場合を、「無限定」と定義するのであろう。

そうであるならば、三和は、そのような「無限定」な「非軍事化」という概念を使用したことはない。対日占領政策の目的を、通俗的に「民主化」と「非軍事化」と理解して、そこから「非軍事化」目的の達成度を議論したというのなら、石井氏のような批判もあり得ようが、アメリカ国務省を中心とした対日占領政策の策定過程を、原資料を用いて追求する作法を守ってきたのが三和の作品である。『通商産業政策史2』の「対日占領政策の推移」の方が全体像を描いているが、石井氏が、「評者は,かつて筆者の『昭和財政史ー独占禁止ー』(東洋経済新報社,1981年)に知的興奮を覚えたものである。」と書いてくださった『昭和財政史2』でも、この作法はお判り頂けるはずである。「非軍事化」目的は、まさに、アメリカの国益からして選ばれた「限定」された占領目的であり、そうであるからこそ、アメリカの世界戦略の転換のなかで放棄される目的だったことを、三和は書いてきたつもりである。

あるいは、ふたつ並べて占領目的とされる「民主化」と「非軍事化」を、じつは、「非軍事化」が主目的であって、「民主化」はそれに対する政策手段という位置づけであることを指摘して、それこそ「無限定」の「民主化」で占領政策を理解することに異論を唱える三和にしてみれば、目的・手段関係を明確にすることによって「非軍事化」の意味を「限定」したつもりである。

「限定」された「非軍事化」目的の達成度を評価しようという三和の問題設定がミスリーディングと指摘される石井氏は、三和の問題設定をmisreadされてはいまいか。

あるいは、石井氏は、「本書では,「非軍事化」目的の限定性が十分に考慮されず,占領初期に無限定の「非軍事化」が追求され,冷戦構造の中で目的が転換したととらえている。どういうわけか,占領初期の目的であったとされる無限定の「非軍事化」に重要性が与えられ,その目的が達成されたのか否かが問われる。」(100頁)と書いておられるから、占領初期の政策目的ではあったがやがては放棄される「非軍事化」一本槍で、占領期全体の評価をするのはミスリーディングだとされるのかもしれない。しかしながら、占領期を評価しようとするときに、初期の「非軍事化」目的のもとで実行された諸改革を、まず第一に評価することは、当然の手順であろうし、そもそも、三和も、コロコロ変わるアメリカ対日占領政策を全期間にわたって評価しようとして第8章を書いたわけではない。評価対象は、初期の経済改革に「限定」している。財閥解体・独占禁止を主な研究対象としたうえに、農地改革をやや強引に自己流で勉強し、労働改革は竹前栄治氏らの業績に依拠しながら書いた第8章は「戦後改革の評価」であって、この程度の勉強では、「占領政策の評価」などできるはずのことではない。

ここでも、石井氏は、三和の問題設定をmisreadしておられる。石井氏は、「しかし,「非軍事化」目的が特権化される理由は,占領初期の一部の文書以外ほとんどない。国際環境の変化の中で「転換した」政策目的に固執することは奇異である。「非軍事化」という定義困難な社会状態というのは一つの論点となろうが,戦後改革や占領政策を歴史的に評価する(1頁)こととは別の課題であろう。筆者はあまりに無限定な被説明変数を設定したために,この変数の値さえ確定できない事態に陥ってしまった。」(100頁)と言われる。この石井氏の文章は、まことに「奇異」である。「非軍事化」目的が特権化される理由は,まさに戦後改革の中心的部分が「非軍事化」を目的に行われたからであるし、「占領初期の一部の文書以外ほとんどない」のは当然で、政策転換が行われた後の文書に「非軍事化」の言葉を探すことがムダであることはほとんど自明であろう。3大経済改革を占領政策として評価するときに、「特権化」すべき目的が「非軍事化」のほかにあるのなら、ぜひ、お教えいただきたいものである。「国際環境の変化の中で「転換した」政策目的に固執することは奇異である」のは、占領政策を全期間にわたって評価しようとする場合には、まさに適切な表現であるが、あいにく、三和の課題は「戦後改革の評価」であること、前述の通りである。

「筆者はあまりに無限定な被説明変数を設定したために,この変数の値さえ確定できない事態に陥ってしまった。」とはどのような事態を指摘しておられるのだろう。たしかに、三和は、非軍事化のための政策手段のひとつである軍国主義的衝動発生源除去政策が成功したか否かについて、戦争の経済的原因論が未解明である研究史の現状では成否を確定することはできないと書いた。しかし、これは、日本が15年戦争を起こした経済的原因分析が未済である研究史の現状では、財閥解体や農地改革が日本の戦争衝動除去に効果があったか否かを確定することはできないと述べたもので、別段、「無限定な被説明変数を設定したために,この変数の値さえ確定できない事態に陥ってしまった」わけではない。石井氏のこの発言は、意味理解不能である。そもそも、「被説明変数」とか「変数の値」という言葉は、比喩的にはともかくとして、歴史分析に際して、厳密に適用可能な概念であるかどうか、はなはだ疑わしい。石井氏が、ご自分の作品で、これらの概念を用いておられるなら、ぜひ、拝読させていただきたいものである。

問題設定のmisreadingを修正していただけば、多分、指摘されたB問題設定のミスリーディングは、むしろ、石井氏による書評読者諸氏のmisleadingであったことがお判り頂けるであろう。

では、石井氏ご自身はどのような問題設定を「ミスリーディング」ではないとされるのか。「占領政策それ自体を歴史過程に即して評価するのであれば,前述したように,占領目的を限定されたものに解釈した上で,戦後日本政府の政策がおおむね親米的であり,「国際秩序」の範囲内で極めて受動的に行動する国家に決定的に転換したという,筆者も認める,ほぼ確定的な事実に注目すべきであろう(291頁)。この意味では,「その後の歴史に照らして」(260頁)も,長期にわたって占領目的が達成された可能性は高く,占領政策がどの程度この結果に貢献したのか等が問われるべき課題となろう。占領政策は未来に向けてなされたものであり,「過去の歴史」を参照する前に検討できることがいくらでもありそうである。」(100頁)「占領政策それ自体を問うのであれば,占領者の理論・宣伝等が改革の実行と定着に対してどの程度パフォーマティブな影響力を持ったかを検討する方が重要であろう。戦争原因論とは独立に,改革の成果や政策手段の合理性の検討をより深めることは十分可能である。」(101頁)と言われる。これはごもっともな発言で、三和も、自分の問題設定がすべてであるなど、決して考えてはいない。「占領政策」全般と言わずとも、「戦後経済改革」にしてからが、それが、その後の日本の経済・政治・社会・文化にどのような影響をあたえたかは、まだ、十分には解明されていない問題である。また、「より本格的な研究を目指すならば,これに加え,当時の日本人たちが膨大な国力と侵略先の資源を投じ,既存の生産システムを強制的に改変させながら長期の戦争を戦い,計り知れない戦争被害を受け,復興のために多大な労力を支出し,戦時戦後にアメリカの圧倒的な軍事力と経済力を目の当たりにしたという歴史的経験が,人々の心理の変化,経済システムの変化,対外政策の転換に与えた影響を同時に論ずる必要があろう」(101頁)という石井氏の問題提起も、大変興味深いものである。さらには、同じ占領改革を経験したドイツの事例との比較研究も、残されている大きな課題のひとつである。まさに、「検討できることはいくらでもある」と思われる。

石井氏は、「占領史研究の豊富な成果をより有効に活用する途がほかにあったのではないかと思えてならない。」と書評を結んでおられるが、これにも同感できる。できることなら、石井氏も指摘された上述のような未解明の問題の解明のために、研究史の成果を有効に活用してみたい。しかし、そのためには、さらなる分析・検討作業が不可欠になる。三和としては、これまでの実証的な対日占領政策の決定過程の分析作業を踏まえたときに、初期の経済改革が、その政策目的、つまり非軍事化という目的にたいして、政策手段としてどれほどの目的合理性があるかを検討することによって、ひとまず、これまでの分析作業を締めくくることを課題としたまでである。今後、若手研究者によって、多角的な占領期分析が進展することを期待するところは大きい。

最後に、石井氏が指摘される、A結論の不明瞭というところに触れておこう。じつは、この指摘には、かなり同意できる。問題設定がミスリーディングだったから結論が不明瞭になるということではなく、非軍事化目的に、経済改革が合目的性を持っていたか否かの判定が明瞭にはできないという意味で、結論は不明瞭である。結論を明瞭にするためには、日本がどのような経済的要因から、15年戦争を戦うに至ったかを解明する作業が不可欠であるが、この作業は、経済史・政治史・社会史の共同作業として未だ十分なレベルに達してはいない。

日本近現代史研究は、それぞれの分野で、緻密な成果が積み重ねられてきてはいるが、それらを総合して、戦争原因論を明確にする作業は未済である。日中関係、日韓関係をめぐって、しばしば、過去の歴史に対する現在の日本の対応が問われるが、政治家レベルでの政治的対応は別として、真の意味で、真摯な対応をするためには、歴史科学者による戦争原因の解明が不可欠と思われる。この未済な解明作業のこれからの進展を期待しながら、第8章の結論は不明瞭なままに終わらざるを得なかったのが実情である。

石井氏の書評にたいする読者としての読後評は以上である。『社会経済史学』の編集後記で疋田康行氏が書いておられるように「忌憚なく問題点を指摘」する書評が掲載されることは、研究活動の深化にとって、極めて有用である。書評を契機に、研究者間での対話が進められれば、研究活動は活発化するにちがいない。石井氏の書評は、三和の研究限界を鋭く指摘しながら、残された研究課題が多くあることを明らかにした。三和は、このあと、ドッジラインを対象とする分析作業をひとつだけ準備しているが、それで、占領期との格闘は終戦(敗戦?)にするつもりでいる。若手研究者の皆さんが、占領期について残された課題に積極的に取り組んで、研究史に新しい時代を拓いてくださることを期待しつつ、小論を終わる。

最後に、忌憚のない書評を書いてくださった石井晋氏に、心から感謝申し上げたい。