『日本占領の経済政策史的研究』 |
石井晋学習院大学助教授より以下のようなお手紙を頂いた。お手紙のHPへの掲載のお許しも頂いているので、以下に公開する。 |
【石井晋氏から三和への手紙 2003年7月7日付け】 |
長文のお手紙、拝読致しました。丁寧な解説を頂きましてありがとうございます。 同時期、政治的には、ほぼ三派に分かれ、再軍備は違憲なので改憲して再軍備すべし(民主党)、再軍備は違憲なので反対(社会党)、憲法の範囲内で一定の軍備を持つ(吉田・自由党)という主張が出てきて、最終的には、憲法9条維持・軽軍備(17/18万人の自衛隊体制)・日米安保・経済成長重視という吉田ドクトリンが選択されるということになるわけです。旧来の政治史では、吉田茂が戦略的に吉田ドクトリンを選択し、経済成長路線を導いていったと理解されてきたようですが、近年の政治史研究を少しかじった理解によりますと、三派とも過半数を占めることができないという状況の中で、アメリカの圧力をかわしつつ、消去法の中で残ったのが吉田ドクトリンだということのようです。また、アメリカの圧力をかわしえたのは、ソ連でフルシチョフ体制が成立して冷戦体制が若干緩和したこと、スエズ戦争で米と英仏の対立が生じ、西側諸国の足並みが乱れたことなどが関連しているものと考えられます。つまり、もし、吉田ドクトリンを戦後型の「非軍事化」体制と呼ぶことができるのだとすれば、それは日本人が広範な合意のもとに選んだというものではなくて、国際・国内政治環境からしてほかの選択肢をとり得ず、なし崩し的に成立した結果にすぎないということだと思います。
同時期に、経済的な条件が変化し、船舶輸出が増加し、鉄鋼の生産も増え、一般的に内需が拡大したこともあって、軍需なしに重工業が成立し得るという見通しがたち、軍需工業化路線は自然消滅していくというよく知られている過程を辿るわけです。 私には以上のような認識があったのですが、そういう点からも、三和さんが「非軍事化」というテーマでどういう議論をされるのかに興味があったというわけです。恐らく、私と三和さんの「非軍事化」に対する関心はかなり共通点があるのだと思います。吉田ドクトリンは、確かに戦後の経済成長の前提条件として有用であったとは思います。しかし、私は、戦後、憲法9条・日米安保・自衛隊体制が、必ずしも日本人が積極的に選択したわけではないということをもって、「非軍事化」が決して定着しなかったのだとも考えています。特に、近年の日本の一種の再軍備論争を見ていると、50年代半ばに再軍備問題自体が議論半ばで自然消滅したことのつけが回ってきたように思います。 そのようなわけで、三和さんが丁寧に政策決定の議論を進めようとされた手法と戦後の動向を踏まえた議論を求める私の期待との間に多少、ずれがあったという気がしています。しかし、三和さんと対話でき、かなり共有できる問題意識もありそうだとわかったことは、私にとっても大変貴重な経験になりました。どうもありがとうございます。
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