資本主義はどこに行くのか
【書評の書評】

森川 英正氏の書評についての手紙

三和良一  

拝啓

お元気にお過ごしでいらっしゃいましょう。

『経営史学』394号に、『資本主義はどこに行くのか』の書評をご投稿いただきまして、誠に有り難うございました。

書評では、加藤榮一、馬場宏二と私の根本的テーマを「体制選択」と指摘され、@資本主義に代わる経済社会体制とまで言って社会主義と明言しないのはなぜか?A論文のキーワードとして民主主義、基本的人権が使用されないのはなぜか?B「資本主義暴走」のトレンドの中に中国をどう位置づけるのか?という3つの疑問を提起なさいました。

大変大きな問題を問いかけられて、いささか腰が引けますが、私の考えているところをお答えいたします。森川さんも哀悼されたように、加藤はもはや自ら答えることができない彼岸にあります。まさに「痛恨やるかたない」想いを、森川さんと共有するしかありません。馬場には、おそらく彼独特の明快な答があるでしょうから、機会をみて聞いてみましょう。

森川さんは、「見果てぬ夢」として「人間の顔をした社会主義」を、ご自分の体制選択として明言されました。大学院時代の鋭いマルキスト論客としてのお姿が、鮮明に想い出されます。森川さんの「見果てぬ夢」には、私も共感いたします。中島みゆきが、「行く先を 照らすのは まだ咲かぬ 見果てぬ夢 はるか後ろを照らすのは あどけない夢」と詠い、「旅はまだ終わらない」と語りかけるのに励まされながら、若いころの「あどけない夢」から育ってきた「見果てぬ夢」を追いかけています。

新しい経済社会を社会主義と呼ばなかったひとつの理由は、ご指摘のように、その言葉が惹きおこす誤解を恐れたためです。「20世紀社会主義の登場への対応として20世紀資本主義が出現し、20世紀資本主義の成功によって20世紀社会主義は退場を迫られ、20世紀社会主義の崩壊とともに、20世紀資本主義も過去のものになって、資本主義は新しい時代を迎える」と書きましたように、社会主義にも、ある種の段階区分が可能だと考えています。つまり、ソ連社会主義は、「20世紀社会主義」という歴史段階であり、それは失敗したと見ています。望ましい新しい経済社会を社会主義と呼ぶと、この「20世紀社会主義」のイメージが想起されてしまうことを恐れたのです。

20世紀社会主義」は、私の「あどけない夢」で、これは、はかなく消えました。なぜそうなったのかが問題です。スターリン支配に象徴されるような抑圧の体制は永続しえないからソ連社会主義の崩壊は当然だが、社会主義自体は間違っていないという見方がありますが、私は、この見方は採りません。森川さんの第2の質問と関係しますが、民主主義と基本的人権の価値は、私も原理的には認めていますから、ソ連社会主義の独裁と人権抑圧は、批判されるべきものでした。しかし、ソ連崩壊は、単に、独裁と抑圧の体制の崩壊ではなかったと思います。

社会主義は、人々を「富裕化」することに失敗して、資本主義に敗れたのではないでしょうか。資本主義が大衆消費社会を実現して、あふれかえる消費財で人々の物欲を満たすことに成功したのを、社会主義圏の人々は、羨望の眼差しで眺めていたに違いありません。指導者たちは、いつか資本主義に追いつき追い越すことを公言していましたが、これは無理な話でした。史上最強の成長システムである資本主義に、社会主義は、とうてい対抗できないことは、理論的に明らかです。

マルクスは、資本主義のなかで育った生産力は、やがて資本主義を桎梏とするにいたり、新しい社会構成体としての社会主義のなかで、さらなる発展をとげて人類を「自由の王国」に導くと期待していました。このマルクスの期待は、2重の意味で間違っています。

社会主義は、生産力を発展させるには、それほど適した経済システムではありません。競争を基本原理とし、労働力商品化によって社会的余剰を効率的に利潤化し、私企業が存続を賭けて利潤を投資し続ける資本主義は、生産力を発展させるのには最適なシステムです。平等を基本原理とし、社会的余剰の形成とその投資は、政府の政策に委ねる社会主義は、所詮、低成長型の経済システムです。マルクスは、この基本的な差異に気づかなかったのではないでしょうか。多分、景気循環の恐慌・不況局面を過大に見ていたのでしょう。

人々が、「富裕化」を求めるとすれば、社会主義を捨てて資本主義に向かうのは、当然の選択でした。

マルクスのもうひとつの間違いは、生産力の発展に無限の期待をかけたことです。資源制約や環境破壊の問題は、19世紀にはほとんど意識されていませんでしたから、マルクスを責めることはできませんが、現代に生きるわれわれは、このマルクスのあまりに楽天的な生産力への期待と信頼を共有することはできません。生産力の無限の発展は、「自由の王国」ではなく、「人類史の終局」をもたらすに違いありません。

このように考えると、抑圧の体制としてのソ連社会主義はもちろん、マルクスの社会主義も「あどけない夢」として抱き続けることはできません。社会主義という言葉を使わなかったのは、このような理由からでした。

森川さんは、それでは、新しい経済社会の姿はどのようにあるべきかと問われます。私には、まだ、明確なイメージはないのですが、その経済社会について、今、準備している小論、森川さんから見ると「時論」では、次のように書くつもりでいます。

「新しい経済社会が持つべき基本的特性は次の3点となるであろう。

 第1は、平等原則を軸とする新しい共同体が内包されていること。

 第2は、社会的余剰の形成とその配分を社会的に規制するシステムを内包すること。

 第3は、社会的再生産の調整を市場に全面依存するのではなく、社会的に調整するシステムを内包すること。

 このような特性を持つ社会は、経済成長を目標としなくても存続することができる社会となり得る。そこでは、失業と飢餓の恐怖に駆り立てられながら経済成長への競争を展開するかわりに、乏しさを分かち合う共同存在意識、あるいはフォイエルバッハの言う「共苦Mitleiden」の関係を形成することで、人々は和やかに生活できる。あるいは、記号論的消費の誘惑を退けながら、釈尊が示した「吾知唯足」の欲求基準に従うことで、人々は充実した生活を楽しむことが出来る。そして、人類以外の生物を含めて他者を排除する独善性を捨てて、生命の本質理解に基づく「共生」関係を育むことで、人々は<超状況場>に流れる時間の限りを、人類として生きることが出来る。」

このような新しい経済社会は、ご指摘のように「新しい社会主義」と呼びうるもの、あるいは、「21世紀社会主義」とでも名付けられるものかもしれません。このような経済社会が具体的にどのような制度となるかについては、まだはっきりしたイメージは持っていません。イメージを明確にするには、森川さんの第2の論点を避けて通れないと思っています。

民主主義と基本的人権は、たしかに、近代が築き上げた、原理的にレベルの高い理念です。しかし、森川さんも指摘されるように、「基本的人権を犯す民主主義」もあるわけですから、基本的価値は、基本的人権であり、民主主義はそれを保証する手段という関係にあります。それでは、基本的人権は無条件に価値として承認できるものでしょうか?基本的人権も時代と共に内容を充実して、現在では自由権・社会権(生存権・労働基本権)・参政権・受益権(裁判を受ける権利・請願権)が主内容とされています。近代の開幕時に掲げられた自由権に加えて、20世紀資本主義時代に社会権が明確化し、手段的な参政権・受益権も確立したと思われます。

このような基本的人権は、おおむね近代の産物で、その価値を否定することはできません。しかし、近代の産物は、やはり、時代の制約を受けています。自由権は、封建的身分制からの解放を主張するところから生まれましたが、同時に、共同体的制約からの自由も含まれていました。「村八分」が否定されるわけです。共同体から自由になった個人は、近代的「自我」を洗練させて、市民社会の構成員つまり私的所有の主体となります。そして、資本主義経済の場では、労働力商品の「自由な」売り手か買い手になり、経済成長を担います。

さて、経済成長をプラスの価値とは言えなくなった現代においても、なお、自由権は、手放しにプラス価値と評価できるのでしょうか?私は、近代の産物であることの限界を明確にしながら、自由権には新しい内容規定を与える必要があると考えています。前に述べましたように、21世紀の経済社会が、新しい共同体を基盤とするならば、自由権は無制約というわけにはいきません。少なくとも、私的所有権についての制限は不可欠でしょう。モノの処分・使用・用益を、個人の自由に任せておいては、経済成長を抑制することは不可能です。

自由権のほかに、生存権についても新しい規定が必要でしょう。すでに、憲法論議で、環境権が問題とされ、生存権あるいは人格権(幸福追求権)として明記する提案がなされています。それはそれとして有益な議論ではありますが、私は、環境権を近代的な基本的人権の枠組みの中に取り込むのは限界があると思います。

近代的人権は、その主体を個人として想定し、他の個人や国家などの組織からの権利侵害を排除しようとしています。生存権も、出発点は個人の生存で、国家には、個人の生存を可能にする義務があるとして、社会保障制度の必要が説かれます。

しかし、環境権として問題にされているものは、個人の生存や幸福というよりも、人類の存続にかかわる本質を持っています。地球温暖化の影響は、キリバス諸島の住民だけに及ぶのではないはずです。環境権は、個人の生存権としてではなく、人類の生存条件の問題として考えねばなりません。

類似のことは、化石エネルギーの所有権についても言えます。近代的所有権は、ほとんど総てのモノを所有権の対象として認めていますから、再生不能な資源であっても、排他的に所有権を主張し、濫掘しようとリザーブしようと自由勝手となっています。自然科学の現状では、化石エネルギーを必要とする技術レベルは簡単には超えられそうにありませんから、このままでは、稀少化する資源の所有権をめぐっての対立は、個人の生存というよりも、民族や国家の生存をめぐる激烈な闘争となりそうです。再生不能資源の所有権も、環境権と同様に、近代的人権論の枠組みではなく、人類の生存を可能とするような、いわば人類的生存権の枠組みの中で規定されるべき性質のものと思われます。

生存権も、近代の産物としての限界を持っていると言えましょう。

基本的人権を再規定して、それを確実なものにする手段的な参政権などのあり方を考えながら、21世紀の新しい経済社会、おそらく、「21世紀社会主義」の可能性を検討することが、今、社会科学者のなすべき営為と考えています。

最後のご指摘は、中国の位置づけです。2000年の南開大学(天津)でのセミナー開催いらい、中国とのおつき合いが深まり、ご指摘の通り2003年には5ヶ月ほど北京に滞在しましたので、中国への思い入れには特別なものがあります。社会主義市場経済と呼ばれる経済システムは、よく分からないのですが、1993年の憲法改正で、それまでの改革開放路線が社会主義市場経済として明文化されていらい、中国は、社会主義経済からの変質、実質的には資本主義への接近の道を進んでいると思います。

経済の計画的運営から市場における競争へと調整機構を切り替え、生産手段の私的な所有ないし占有を認めるのですから、政府規制の強い資本主義に限りなく類似してきます。市場経済が貧富の格差を生じさせることも承知の上での路線選択でしょう。できる者から豊になれと「先富論」を掲げたケ小平が、現状を見て何と思うかは分かりませんが、すでに、事態は引き返し難いところまで進んでいます。

「あどけない夢」にこだわっているわけではありませんが、中国社会主義の変身には驚きます。南開大学日本研究中心(現、日本研究院)の『日本研究論集』(2001)に「資本主義経済縁何能快速増長」(日本文は、「資本主義経済は何故速く成長するのか−『資本主義は何なのか』−」、『青山経済論集』53-2所収)を寄稿したのも、資本主義の現代的な問題点=人類史的限界を指摘したかったからでした。

今年も4月の南開大学日本研究院のセミナーでは、「経済成長主義から脱却することこそが、21世紀に課された大きな課題である。市場経済、資本主義が、本質的に経済成長主義とは決別できないのであれば、われわれは、新しい経済社会を構想しなければならない。ヨーロッパ社会民主主義や中国社会主義市場経済も、新しい挑戦なのかもしれないが、経済成長主義を捨てきれない限りでは、期待すべき経済社会とは言えない。」(セミナー4、レジュメ)と話してきました。

経済成長主義を指向し、市場経済を基礎に私的企業の自由な競争を認める限り、社会主義市場経済も、資本主義と同じ歴史的役割しか果たせないと思います。中国の新しい路線は、中国の人々の生活水準を上昇させるには有効でしょうが、残念ながら、人類史の観点からは、プラスに評価することはできません。

ながながと書きましたが、森川さんが指摘なされた問題点について、今のところは、この程度のことしか申し上げられません。

森川さんのご意見を伺わせていただけましたら、私の「見果てぬ夢」の中身も、もう少しはっきりできるかもしれません。機会があれば、是非、お話を伺わせていただきたく思います。

書評をお書きいただきましたので、このようなかたちで考えを纏めてみることができました。重ねて、御礼申し上げます。

では、くれぐれご自愛のほど、祈念申し上げます。

敬具

                         200557

森川 英正さま

                                 三和 良一