韓国旅日記1

6・13

 早めに地下鉄で水原に向かう。地下鉄といってもソウル駅を過ぎてからは地上を走る。約1時間10分ほどで水原に着く。これだけ乗って、料金は1200W、初乗りは700Wだから、驚くほど交通料金は安い。沿線はほとんどが市街地化していて、方々で高層住宅団地が目に付く。

 水原は、ワールドカップで有名になった地方都市。ここにある世界遺産の城郭都市、華城を訪ねるのと、名高い焼肉がお目当て。まず、案内所で地図をもらって、バスを聞く。ここも地下道で道を渡ってバス乗り場に行かねばならない。地下街があって、小食堂が並ぶので、ここで朝食をとる。海苔巻きとスープ、キムチ、タクアンのセットで@2500。海苔巻きは酢めしではなく、中にはハム・卵焼き・タクアン・キュウリ・ニンジンが巻いてある。日本の巻き寿司との関係はどうなっているのだろう、どっちが本家か?

 バスに乗ったが、地下鉄で通った成均館大学のほうまできてしまった。運転手に聞くと、華城に行くと言うのでそのまま乗っていると、駅に戻ってきてから華城に向かった。循環バスの乗り場を間違えたらしい。郊外見物のバスだった。

 八達門の案内所で華城の地図をもらって所要時間を聞く。目の前は急な石段が長く続き、最高地点まではかなりの登りだ。きれいなトイレに行くと、歯を磨き顔を洗っている中年男性が居る。石段のふもとあたりにはホームレスがたくさん居ついているようだ。この国でも、ホームレスは多い。ソウルでも方々で見かける。物乞いも、道路や地下道階段などでときどき見る。

 意を決して石段を登り始めるが、蒸し暑く、かなりきつい。華城は、18世紀に築かれた城郭で、東側は平地に土塁を築いて門や楼を造った平城風、西側は八達山に石垣を廻らした山城風になっていて、周囲は5.7kmある。

 ところどころで写真を撮りながら休んで、南砲楼、西南暗門、西舗楼、西暗門と過ぎて西将台へ到着。ここが最高地点で、将軍や王が采配を振る場所になっている。この先には、これまでのような整備された歩道が無く、山道を下るようになっていて標識もないので、黄色いベストを着けた人にたずねるが、言葉は通じない。案内するというらしいので後をついていくと、どんどん山道の階段を下る。着いたところは華城行宮だった。1000Wチップをあげてガイドと別れる。新しく建てられた宮殿で、16日から始まる水原文化祭の準備が進められていた。

 城郭に沿って下りたかったのだが仕方が無い。街中を華西門まで歩く。巻貝を思わせる形の防衛門で地図の写真より小さかった。ここからまた城壁に登って、平坦な道を北舗楼、北西砲楼、北西敵台、長安門、東北砲楼、華虹門と歩く。長安門は八達門に対する北の大門だが、朝鮮戦争時に破壊されて再建されたもので、八達門だけが国宝になっている。華虹門は、川をまたぐ形に造られた門で、下の石橋のアーチから水が流れ落ちる姿が美しいと説明されていたが、今は水量が少なく、迫力に欠けている。城壁の上から見ると、レンガ建ての立派な1戸建ての個人住宅が並んでいる。木造住宅の国ではないようだ。

 かなりくたびれたので、名物カルビの昼食を華虹門近くの漠布カルビでとる。明洞では味付けカルビを食べたので、ここでは生カルビを注文。15cmくらいのアバラ骨に20cmくらいの薄切り肉が巻いてある。木炭型に成型したコークスが燃料で、網焼きスタイル。大きな鋏で切りながら焼いてくれる。和牛に比べるといまひと味という肉だが、美味しい。付いてくる小鉢は12種類。薦められたので冷麺をひとつ追加する。さっぱりした味は、カルビのあとによく合う。食後には、砕き氷を浮かべた梅ジュースとスイカ。支払いは60000W。

 バスで駅に戻り、案内所で利川への行き方を聞いてから、ロッカーのバッグを取って、長距離バスセンターまでバスに乗る。水原市のバス交通は縦横に発達していてバス停にはひっきりなしにバスが来る。路線ごとに区分された乗り場ではないので、乗客は来るバスの番号をみて手を振る。

 陶器の里、利川には鉄道は通っていないので、長距離バスで行く。高速道路は使わず、約1時間半ほどで到着。案内所を探したがどこにもない。「地球の歩き方」ソウル版だけが頼りの旅なので、案内所が無いとお手上げだ。温泉があるはずというが、見当がつかない。やむを得ず、目についたホテルに歩く。近づくとHotelではなくてMotelだった。ここではMotelとは、簡易ホテルを意味する。41000Wでツインに入る。ロビーに日本語の案内パンフレットがあった。たしかに、温泉のあるホテルもあるようだ。山登りの後の温泉は効いただろうと残念がっても後の祭り。世界陶芸祭りなども開催する市なのだから、バスターミナルに案内所くらい置くべきだ。

 昼食が重かったのと、大遠足の疲れで、そのまま就寝。
 

 

6・14


 バスで陶芸の里に行く。海剛陶磁美術館は、青磁を再現して人間国宝になった海剛が建設した美術館で、古陶磁器のコレクションと海剛記念室がある。青磁から白磁に進む中間期に現れた粉青沙器は、日本の三島につながることが分かった。

 秀吉の侵略で疲弊した朝鮮では、青磁の伝統が継承できなくなって技法が絶えてしまったのを、海剛が復興させたと案内の女性が説明。朝鮮美人だと思っていたら、日本人で、結婚して7年ここに住む人だった。海剛1代目を継ぐ2代目と若い3代目の作品を展示即売している。2代目の湯のみ茶碗2客と海剛作品の絵はがきを購入。

 外の登り窯を見る。10mくらいの比較的小型の窯が、4基並んでいる。松薪が次ぎの火入れのために積んである。丈が低いので、製品の搬入搬出は苦労だろうと思った。

 日本女性が紹介してくれた食堂正一品で、韓定食の昼食。石釜で炊いたご飯は、茶碗に移した後、おこげにお湯をかけて食べる。ここらは米が美味しいとの評判がある地帯で期待したが、日本米ほどではない。おかずは22種類で、イシモチの干物とタチウオの焼き物、焼肉、豆腐チゲ、茶碗蒸しが主菜で野菜の煮物やサラダ、和え物、漬物など。@9000Wだから安いし、栄養バランスが良い。サラダに付いていた太い唐辛子をかじったら辛くなかったので半分ほど食べると、辛味が強くなり、何回も水を飲んで舌を洗い流すはめになった。キムチなどの辛さには慣れてきたが、この唐辛子には降参だ。

 隣の松坡窯売店をのぞく。曹(に似た字)利鉉の作品で、曜変を創り出せる腕前。なかなか見事な作品だ。青磁のなかにイチョウの葉のような曜変が浮いている中くらいの壷が気に入ったが、150万Wなのでパス。湯のみ2組を購入。

 バスでターミナルへ戻る。男生徒が席を譲ってくれた。水原の小学校に1980年代に建てられた孝忠碑があったが、儒教的な道徳教育が行われているのだろう。

 利川の中央市場をのぞく。薬種・野菜・鮮魚・肉売り場とスーパーがある。価格は日本に比べてかなり安いと恵子が言う。イカとタコ、貝類が豊富だ。市場の周りには、ニンニクの皮を剥いたり、青菜を1枚1枚そろえたり、ならべた青菜・青葉に水をかけたりしながら野菜類を売るオモニたちの露天の小店が並ぶ。肉屋の前にはバーベキュー炉が置いてあり、肉を買った人がその場で焼いて食べている。チキンや練り物を揚げて並べる店、などなど、賑やか。

 ソウル行き高速バスに乗る。バスターミナルのはずれに高速バス乗り場があるのを見つけるまでがひと苦労。日本語はもちろん漢字・ローマ字表記もないので、道路標識にあったのを写して書いたソウルというハングルをたよりに、ようやく発車場所と売り場を見つける。ソウルまでは1時間ちょっとかかるが、料金@3300Wは驚くほど安い。

 3:00に発車したが、ターミナルから出てしばらくは大混雑。高速道路も車の数は多い。走っているのはほとんどが現代・起亜・大宇の国産車で、たまにジャガーなど高級輸入車を見るが、日本車は見かけなかった。ソウル近くになると片側4車線のアメリカ並の道路となり、沿道には、高層住宅群が目立つ。ソウル・ターミナル近くでは右路線に次々にバスが寄ってきて、見たこともない壮大なバスの車列になった。

 ターミナルは広大で、多分、北京の長距離バスターミナルよりも大きい。降りてから地下鉄まで165mという表示がある。途中で地下街に下りると、小さい衣料品店がものすごい数、並んでいる。人ごみの中、カートを引くのが気がひけるほどの混雑だ。ハルビンの地下街も大きく衣料品店が密集していたが、ここのは店舗も道幅もひとまわり小さく、それだけに繁盛している感じだ。

 3号線をP329で1号線に乗りかえる。地下鉄駅には路線毎に番号が付いていて分かりやすい。バスターミナル駅は3号線のP339で、乗り換えの鐘路3街がP329、降りたのが市庁・City Hallで1号線のP132という具合。Pの意味は不明。

 まず手近かのプラザ・ホテルに行くが、特1級だけあって@270000Wと高い。元が薦めてくれたウエッブサイトで見たときにはプレジデントが1万円と出ていたが、いまさらネットで予約も面倒。特1級は身分違いとあきらめて、1級のBest Western系のニュー・ソウル・ホテルに@106000Wで投宿。バスローブもあってまあまあの部屋。

 ビジネスセンターのパソコンで元にメールを書く。有料だがまけてくれた。

 夕食は、ビビンバとオックス・テール・スープ。ビビンバは初めて食べるが、なかなか美味しい。スープはニンニクがきいていて、恵子は敬遠。ビール共で、18000Wと安い。小鉢は4種類で、空いたらお代わりをくれた。セブンイレブンでアイスクリームを買って帰る。辛い料理のあとの冷たい甘さはとても良い。
 

 

6・15 


 傘を持って散歩に出る。徳寿宮を目指して道路横断を試みる。片側6車線をかなりなスピードで走ってくる車の切れ目を狙う。早朝でもバスは多く、乗用車も走っているから、結構スリリングだった。車道が幅広いことが、横断歩道を作らない理由ではあろう。されば、地下道のエスカレータを整備しないと弱者いじめの人間軽視になる。

 徳寿宮は9時開園で、大漢門は閉まっていた。帰りは地下道を通る。ホームレスがたくさん寝ているが、荷物はほとんど持っておらず、寝床もダンボール1枚。終電に乗り遅れて泊まっているような格好だが、風体は明らかに浮浪者。昨夜はみんなで地下道のテレビを楽しんでいた。

 朝食用の饅頭でもないかと探したが見当たらず、コンビニでカップ麺・粥を買って帰る。

 朝食後、歩いて徳寿宮に。宮殿の建物、石造殿の中の宮中遺物展示館、徳寿宮美術館をみる。朝鮮王朝最後から2代目の王の宮殿で、現存建築物は少ない。白木造りの昔御堂が良かった。遺物は、そこそこだ。御璽を王寶と呼び、握りは亀の彫刻になっている。美術館には近現代の絵画などがある。良元の馬の墨絵が良かった。庭には大きな瓶にスイレンが植えてあり、もう花を咲かせているものもある。

 一回りして大漢門に戻ると、伝統武装の衛兵が2人立っていた。付け髭だがなかなか強そうに見える。衛兵交替の儀式もあるらしい。

 タクシーを拾って独立門へ。黒塗りの優良タクシーで4000W。日本からの独立の門かと思ったら、清国に対する独立意識の表明のために建てられたようだ。恵子が監獄があるはずだというので、案内図を見ると、3.1記念碑と刑務所歴史館が書いてある。

 歩いていくと1919年3・1、万歳運動の碑があった。宣言書を刻んだ石と志士の像。人名や人数は判らないが、激しい弾圧を受けたはずだ。

 左手を行くとレンガの塀が見える。西大門刑務所歴史館があった。1945年後もソウル刑務所として使われ、移転した後に、日本帝国主義の事跡として残され、歴史館になった。赤レンガの監獄棟が4棟残されている。3つの2階建て獄房棟が45度に展開している。のぞき窓と信号棒のついた独房が片側30房くらい並ぶ。30×2列×2階=120房、これが12棟あったというから、1440房。集合獄房もあるからかなりの収容力だ。

 懲役囚の強制労働工場も1棟残る。らい病囚など隔離監房も。そして、死刑場。小さな建物の中に絞首場と立ち合い人席がある。13階段ではなく、小さな椅子の上に絞首綱が下がっている。そのまま床が落ちて執行されるようだ。地下からの死体搬出口があり、裏手の丘に搬出用トンネルが掘ってある。刑場入り口のポプラの前には、執行に連れてこられた死刑囚が、ここで最後に泣いたと書いてあった。

 裁判を経ての死刑ではあるが、やはり、アウシュビッツを想起せざるを得ない。刑事犯とともに政治犯が数多く処刑されたに違いない。重い気持ちで歩くレンガ道に説明板があり、レンガの丸京マークは、懲役囚がここで焼いたレンガだと判る。ますます足は重い。

 木造の建物がある。女性囚の監房で、地下房になっている。3.1独立運動のときに、朝鮮のジャンヌ・ダークといわれた柳寛順が、最後まで抵抗して、拷問のすえ殺された場所だという。

 中央の建物に入ると、資料館で、死刑判決文の展示。急に日本語の説明が聞こえてきたので振り向くと、女子中学生らしい2人連れが、説明員に案内されている。修学旅行の個別行動だろう。ここを見学するのは、ドイツ人がアウシュビッツを見学するのと同じように、歴史教育には必要だ。

 2階は、日帝への抵抗の歴史をジオラマや実物模型で示す。3・1運動の投獄者が、獄房で「万歳」を繰り返し叫んでいる。「万歳事件」と呼ばれる運動で、武装蜂起ではなかったことが判る。地階へ入って驚愕。拷問シーンの模型が各種続き、女囚が爪に竹串を刺される場では、動きと悲鳴が再現される。逆さ吊り、鞭打ち、殴打も悲鳴が聞こえる。傍らには、机に脚をあげてのんびり構える日本官憲の人形。ここまであの日本の女子中学生に見せるのだろうか。

 名古屋刑務所のリンチ事件が今もあるのだから、ここの展示は誇張ではないだろう。しかし、これほどのリアリズムは、アウシュビッツや東独の収容所記念館、中国の抗日記念館、9・18歴史記念館でも見たことがない。子供のころ、今の環7と13間通りの交差点に在った交番に連行される朝鮮人が、「アイゴー、アイゴー」と泣き叫んでいた記憶がよみがえる。気持ちの重さは最高になった。

 フーコーが描くまでもなく、権力は非情な暴力装置としての監獄を必要とする。ヨーロッパの古城にも拷問用具は不可欠だ。一般論としては当然の事柄だが、日本近代がおこなった歴史行為ともなると、一般論で納得することは不可能だ。過去にばかりこだわらずという日本の政治家は、この刑務所歴史館でなにを感じるのだろう?

 地下鉄で鐘路3街まで乗って、雨の中、タプコル公園に歩く。3・1記念碑と十重の仏塔がある。記念碑は宣言書と主導者2人の立像。湿気でカメラはまた動かなくなった。

 雨なので、宗廟見学は中止して、地下鉄で千戸駅まで行って、現代デパートで昼食。オープンの食堂で、韓国モチの辛味煮込み・チジミ2種・練り物の串・おでんを試みる。まあまあの味。

 隣のEマートで、韓国海苔・辛子メンタイと焼酎2種とマッコリ酒を購入して帰室。マッコリ酒を飲んでひと休み。1200mlのマッコリ酒は@1600Wで、ホテルの水ボトル1本より安い。

 夕食は、SFC、Seoul Financial Centerの地下の民俗酒場に行ったが日曜で休み。ロッテ・デパートへ歩いて、朝食用のパンを買ってから、11階のレストラン街へ上る。いろいろあったが、ユッケが食べられる店に入る。味付け済みの生牛肉刻みは美味しかった。米入り豆スープと焼酎(真露)で35000W。
 

 

6・16


 光化門へ散歩。勘違いして90度違う方向に歩き、鐘閣駅近くに行ってしまった。引き返して李舜臣将軍銅像から門へ。景福宮の入り口が光化門だった。別に門が在るのかと思ったが、これなら先日見た。途中のアメリカ大使館付近には、機動隊員が集まっている。3日前、女子学生轢死事件への大抗議集会が行われたためだろう。起動隊員は若くて背丈が揃っている。痩せ形が多く、あまり強そうには見えない。刀より長い警棒を持っている。木製ではなく、グラスファイバーか硬化ゴムで、鍔が付けられるようになっている。小型の盾を持つ者もいる。一昨日は、東亜日報の社屋前に、警護集団が配置されていた。

 フォーションのパンとホテル備え付けのお茶で朝食。横断地下道のおかげで脚がはっている。足裏マッサージの本場だから頼んではどうかと恵子が薦めるが、まだマッサージにはかかったことがないのでパス。

 10:30チェックアウトしてエアポート・バス乗り場に歩く。来たバスに乗ろうとすると、運転手がお金が足りないという。恵子が計算してバス代だけウオンを残したはずが、料金7000Wを700円と見て、勘違いし2000Wを残したのだ。慌てて銀行で1万円を両替して、次のバスで空港へ。

 チェックインしたが、荷物の事前検査はしないのが不思議だ。預けてからコンベヤーの途中に検査装置があるようだが、入国時の厳しさに比べて、これは呑気過ぎる感じだ。免税店より安いという空港売店で蔘鶏湯パックの買い物。たしかに出国検査後の免税店より安かった。水冷麺とビビン冷麺で韓国料理最後の昼食。

 NK1930に搭乗しようとすると、なぜか席をグレードアップしてくれて、ビジネスクラスに納まる。食事はまあまともな献立だが、鶏肉煮込みはかなり辛い。韓国のコックは辛くなければ料理ではないと思っているに違いない。ワインを2杯、ウイスキーとブランディを楽しむうちに、1時間55分で成田着。

 ご機嫌で入国手続きに向かうと、途中のサーモグラフィー係りに止められた。真っ赤な顔で、表面温度が37度だという。「飲んでますね」と笑って通してくれたが、恵子は笑いがとまらない。「引っかかるのじゃないの」という予言が的中したわけ。これが中国帰りだったら、もう少し検査されたかもしれない。

 日暮里からの山手線では、青年が席を譲ってくれた。よほどくたびれて見えたのか、ともあれ、日本の若者も優しさを持っていることを実体験。最後まで良い旅だった。

 7:30、帰宅。2003年韓国の旅、無事終了。
 

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