北京滞在記10月 その1

10月1日

 国慶節。ホテルで朝食。8:15、サンタナで莫高窟へ出発。道の両側の畑には棉花が栽培されている。丈の低い品種で、棉つみは腰をかがめなければならない。運転手の柴さんが、敦煌の綿は品質が良く、ピンク色のも採れるとのこと。飛行場の手前を右折して砂漠を走ると左右に丘陵が見えてきて右手に窟がある断崖が現れた。あれは僧侶や職工の住居跡が大部分で、仏像などのあるものは少ないと説明してくれた。すこし走ったところが莫高窟。入場料@100元を支払って、説明人の劉さんとなかに入る。

 ほかの日本人ペア2、3組と一緒に、17262961949613014823724925733542742845415窟を回る。第17窟は有名な蔵経洞で、戦乱期に右脇の部屋に古文書を隠してから開かれることなく忘れられ、1900年に発見された窟。発見された敦煌文書は、フランス、イギリスなどに持ち去られて中国に残存するのは小部分になっている。ヨーロッパのシナ学レベルが高いのも、エジプト学同様に文化略奪のお陰だ。説明板では、敦煌の古文物の略奪者の名前には、日本も上げられている。

 敦煌の表看板になっている第96窟の34.5mの石仏を囲う9層の楼閣の前には、平山郁夫が日本円2億円を寄付して敦煌保存ファンドを作った記念碑が建っている。石窟の向かい側には博物館が、これも日本政府の援助で建てられている。敦煌好きの日本人が、遺物保存に協力するのは、罪滅ぼしにはならなくても、悪いことではない。

 15の石窟は、それぞれ美しく見ごたえがある。第249窟の眼が4つある阿修羅像とその下のイノシシの親子の線画は上手だ。顔料に含まれる鉛のために、肌色が薄黒く変色して、仏がインド人風になっている壁画が多い。ゴールデンウイークに入ったので訪問客は多く、前のグループが終わるまで扉の前で待つことになる。この期間は一般公開される窟が増やされて15になったが、普段は10窟とのこと。公開することに伴う壁画の劣化が懸念されているので、公開を制限する方向に向かっているとのこと。

 15窟を見終わって、預けたカメラとバッグを引き取り、作品展示場に入る。敦煌研究院所属の画家による模写作品が展示販売されている。黄河という画家の作品を勧められ、なかなか見事なので3点購入。画家本人がいたので、一緒に写真を撮る。

 昼食は唯一のレストランで、北京肉絲、トマトの炒り卵、ほーれん草と豆腐炒め、紫菜湯、ビール(70元)。

 午後は、劉さんの案内で特別窟、4557254275320を見る。前4窟で料金は@300元。

 第45窟は、盛唐(8世紀)期の開発で、本尊を中心に弟子、菩薩、天王各2体の塑像があり、壁画は法華経由来の仏画。向かって右に立つ文殊菩薩が美しい。S字形に体をひねった立像は、少し豊満で美人。平山画伯が敦煌の恋人と呼んだ逸品だ。

 第57窟は、初唐(7世紀)のもので、樹下説法図の向かって左側の観音画像が評判の美しさ。右の菩薩画像が薄黒く変色しているのに、観音像は肌色が美しく残っている。飾りの金箔も残っている。こちらは、井上靖の恋人。さすがに見事だ。この観音像の模写を午前中に購入した。

 第254窟は、脚を交差した弥勒菩薩の塑像がある。台座には、翼をもつ天馬が描かれている。北魏(5世紀)のもので、菩薩の表情にガンダーラ仏の影響がうかがえる。壁画は、サッタ太子の餓虎への献身の話。捨身飼虎図だ。ここでは、崖から身を投げた太子の肉を虎の親子が食べ、骨が両親兄弟によって舎利塔に祭られるストーリーになっている。一般公開の第428窟の壁画も同じテーマだが、巻絵をS字型に描いたものとは違って、254窟のは時系列的描写でなく同一平面上に散らばって各シーンが描かれている。

 第275窟は、他の窟の2倍の120元の拝観料。北涼(5世紀初)のもので、今日の見学のなかでは最古の窟。脚を交差させて獅子台に座る弥勒菩薩塑像。腕が破損していて、芯に麦藁が使われているのが分かる。壁画の飛天は、たくましくて男性的な表現。古い時代の飛天は、みな男性的だ。

 最後に劉さんが特別に見せてくれたのが第320窟。天井の装飾模様が美しい彩色を残し、デザインとしても実に見事だ。敦煌の絨毯の図柄に使われるという。他にも天井の図柄が美しい窟が沢山あるそうだ。そして、飛天が見事。盛唐の作品で、もう、しなやかな女性として表現されている。入場券に印刷されている飛天だ。4体描かれていて、急上昇するものや振り返って手招きする構図は、流れるような動きがあって素晴らしい。

 見終わって、図録を買いに作品展示館に行く。黄河さんの飛天図を見て、また購入する。図録2冊、絵はがき3種も買う。

 待っていた柴さんの運転で、劉さんも一緒に帰る。劉さんは北京第2外国語大学で2年間日本語を学び、敦煌研究院に入って18年のベテラン説明員。建築など自分でも研究して論文を発表している。祝日なので、小学生のお嬢ちゃんも敦煌に来ていた。

 かなりくたびれてうとうとする。7時過ぎてようやくたそがれてきたので、街へ。とても賑わっている。鶏湯麺の店で夕食。2人で5元。帰路、飛天の模写画を購入。ホテル売店で敦煌絹絨毯の工場経営者に大幅値引き提案で迫られるがペンディングにする。

 

10月2日

 朝、5時に目覚めるがまだ真っ暗。社会科学院の講演レジュメを完成させた6時45分頃、ようやく砂丘の上が白み始めた。国内に時差がない国だから、実生活上はすこし不便だろう。ホテルで朝食。オムレツを頼み、適当なところでストップしてもらったら半熟のができて美味しい。8:00、柴さんの車で出発、途中で給油する。ガソリンは1リッター3.01元で、日本の半値以下だ。レギュラーとハイオクの区別は無いらしい。劉さんは研究所の通勤バスでもう着いていた。

 劉さんの案内で156158159220285322の特別窟を見る。料金は1人640元。一般入場券は買わないで入れた。

 第156窟は晩唐(9世紀後半)期のもので、敦煌の支配者、張議潮の外出の行列風景を描いた出行図が向かって左側、夫人の宋国の出行図が右側に描かれている。当時の貴族、軍人や役人の風俗画になっていて面白い。夫人の図の先頭には竿灯乗りの雑技者も描かれている。

 第158窟は中唐(8世紀末〜9世紀前半)期の窟。大型の涅槃仏がある。左端にかがんでお顔を見上げると実に美男におわす。敦煌の3美人のひとり。壁画は、涅槃に入った仏陀を取り巻く菩薩、弟子、大衆。遠くから馳せ戻った迦葉(カショウ)が仏陀にすがりつこうとするのを他の弟子たちが止めたり、悲しみのあまり剣や小刀で自殺しようとしている民衆がリアルに描かれている。各国を代表する王子などの人物も悲しみの表情。飛天までが、泣いているようだ。菩薩たちは、悲しむ群像と対照的に、静かに仏陀の涅槃を見守っている。

 仏陀の表情は、肉体が滅びて仏になることを喜ぶような微笑みとか、「絶える喜び」と言われているようだ。たしかに、厳粛な涅槃ではなく、ある種の喜悦を感じさせるお顔だ。これまで看取ってきた親たちは、安堵・静安を感じさせる死を見せてくれはしたが、喜びというのではない。凡人はこうはいかないのだ。

 第159窟も中唐期。普賢菩薩と文殊菩薩の見事な立像で有名。顔の肌が白く艶やかに光っている。顔料に卵白を加えた技術。唐代の美人の典型で、ふくよかな顔立ちと体つき。向かって左の菩薩はワンピースにスカ−フ、右像の上半身は短いスカーフを纏うだけの異国風。並ぶ2体の天は、皮の鎧を着て邪鬼を踏み敷いている。

 壁画は普賢菩薩が白象に乗って行列する様子。東側には、仏典の権威者、維摩詰が病気と偽っているところに文殊菩薩が見舞いに来て問答をする場面も描かれていて面白い。

 第220窟は初唐(7世紀)期の壁画の上に11世紀に千仏画が上書きされていたのを、1948年に剥離させて唐代の壁画をよみがえらせた窟。このために色彩の保存状態が良く、莫高窟随一と言われている。作成年を記した墨書も残されていて年代確定ができる。

 図柄は阿弥陀、薬師の浄土を描いたもので、舞い踊る人物と楽隊の描写が素晴らしい。胡旋舞と呼ばれているように、踊る人物が纏っている長いスカーフが空中を流れるように描かれていて、急旋回しながら舞っている様子が活写されている。楽士の眼も、笙を吹く男性は一点を凝視しているのに対して、横笛を吹く女性は目線が流れて首を振りながら演奏している感じが出ている。なかなかの描写力だ。

 楽隊は15種類の楽器を奏でているという。この図などから、敦煌研究院では、現存しない古楽器の復元をしたそうだ。

 拝観料@200元と最高額を取るだけのことはある。

 第285窟も@200元。西魏(6世紀前半)期のもので中央に30cmほど盛り上がった正方形の壇がある。戒壇と推定されているが確定してはいない。壁面には、岩をくりぬいた坐禅室が並んでいるので、坐禅窟とも呼ばれる。天井・壁画は白地基調に青・緑・茶を用いていて、極めて印象的だ。宝珠と蓮の花を持ち上げる2人の力士を中心に、雷太鼓を持つ雷神・稲妻剣を持つイナズマ神・鹿のような風神・9つの人面を持つ龍・翼を持つ天馬などなど古代神話や伝説のイメージが書き込まれている。裸身の飛天も2体描かれていて珍しい。森で坐禅を組む修行者が籠もる祠とそのまわりに出没する動物たちを描いた部分もある。図柄の面白さと色彩では、見学した窟のなかでは最高だ。

 最後に第322窟を見る。初唐のもので、螺髪の仏を中心に2弟子・2菩薩・2天を左右に配した塑像。邪鬼を踏まえた天の表情が憤怒ではなく、至極ノンビリしているのが面白い。壁画の菩薩は変色が激しいが残る筆線を辿るとなかなかの美人のように思える。圧巻は天井のデザインで超モダンな感じだ。

 特別窟を昨日5窟、今日6窟、劉さんのレベルの高い解説を聞きながら、2人だけでゆっくり回ることが出来たのは幸いだった。SARSのお陰様々だ。特に今朝は、上の方の窟から下がってくるルートを選んでくれたので、扉を開けると朝の陽光が射しこむ。涅槃仏や唐美人の菩薩像などは、じつに柔らかな自然光で拝顔できるから最高だった。恵子や劉さんが動くと反射光が変化して、像の表情が微妙に変わる。

 現在公開されている石窟すべてを最高の条件で拝観できたから満足至極。

 昼食は敦煌食堂で。回鍋肉、ポテト唐揚げ、炒醤面、竹詰め八宝飯で81元。午後は劉さんのお嬢ちゃんとお友達も一緒に向かいの博物館、敦煌石窟文物保護研究陳列中心を見る。代表窟を同寸で再現した展示は見事だが、ここでも撮影禁止なのは残念。劉さんは、子ども達に壁画を解説していた。教育効果は抜群に違いない。

 時間があるので、博物館裏の小砂丘の登る。莫高窟の全景を見ようと思ったが、少し低すぎた。9層の大仏殿を撮す。僧侶の宿泊した窟を遠望する写真は撮れた。砂丘には色と形の面白い小石が沢山ある。拾ってはポケットに入れながら歩いたので、上着がかなり重くなった。小石まじりの砂の上に動く影を見たので近寄ると小さなトカゲ。砂色の地と薄黒い縞模様の保護色で分かりにくい。

 澄みきった青空と白楊・ポプラの白い木肌と葉の緑のコントラストが美しい、研究院の門塀に繁るツタが紅葉し始めている。数葉の写真を撮る。

 劉さん親子も一緒に車で帰る途中、絨毯工場へ寄った。絹絨毯の製作作業を見本的にやっている。縦糸を裏表2組に分けて、表裏2本の糸に、絹色糸を8の字に絡ませてから包丁で規定の長さに切る。一色の色糸を型紙の指定する位置に絡み付けてから、次の色糸を絡む作業に移り、一段終わったところで鉄の櫛で全体を打ち締める。女工さんは、慣れていて型紙は見ないで作業を続けていく。社長の話では、方々にある工場で1500人くらいが働いているとのこと。月給は400元から600元。眼が良くないと仕事にならないので、40歳未満の女性が働く。

 展示場には、大小さまざまの絹絨毯。同じ大きさなら、1フィートに縦糸が何本あるかによって価格が決まる。300本から600本まであって、300段とか600段とか呼ばれている。

 いろいろ勧められたが、ホテルの売店にも良いのがあったので、ここでもペンディングにする。

 部屋でビールを開けようとしたが栓抜きがないので氷挟みで代用した。休憩してから街に出る。雑貨屋で栓抜き(まけさせて2元)を買ってから、一昨日の露店でシシカバブー(7本@1元)とビール(5元)。甘栗を買って(10元)、麺広場で刀削面を待つあいだに囓る。こねた塊から刀状の道具で薄い麺を直接に鍋に削り込んでいく。茹で揚がった麺を野菜を入れて炒めて出来上がり。一昨日の搓魚子とほぼ同様の味付けだが、この店の方が美味しい(@4元)。帰り道で絵はがきと石窟CDを買ったところ、上質な菩薩の模写画があるので交渉して購入。なにやら模写画が沢山になった。

 

10月3日

 朝食をとってから日程変更を夏さんに電話しようとしたら、ロビーにガイドを連れて来ていた。それではということで、今日は陽関などを回り、明日は玉門関に行くことにした。凧を持って出発。ガイドは周さん、運転手は張さん、車はサンタナ。途中で給油したら、ここは1リッター2.84元だった。訊ねると、これは90のガソリンで、別に9397のもあるとのこと。昨日、柴さんは93のハイオクを入れたのだ。

 まず、市内の白馬塔。鳩摩羅什が経典を積んだ白馬と敦煌まで来たら、白馬じつはそこまでの守護神が、ここから長安までは安全な道だから自分の役目は終わったと夢で告げて昇天した。敦煌の人が白馬を慰霊して建てたのが白馬塔。4世紀末の塔を清代に修復したもの。入場料は@15元。近くに、敦煌城壁の遺跡があって、崩れた日干しレンガの上を羊がのんびりと歩いている。綿花を積んだオート三輪がノロノロ走っている。今年は、SARSのお陰でマスク始め綿製品需要が伸びたので、綿花価格が去年の2倍に跳ね上がり、農家はホクホク顔だとは周さんの話。

 鳴沙山の山並みを左に見ながら砂漠の一本道を走る。影視城に寄る(@20元)。映画「敦煌」の撮影のために作られたセットで、その後、いろいろな映画のロケに使われ、10世紀の敦煌と洛陽が同居した奇妙な市街になっている。正面の城門には登れるが、裏の城門は「敦煌」最後のシーンで炎上させてしまったので、その後、張り子の城門になっている。中に葫芦細工の売店がある。ヒョウタンに書画を彫ったり書いたものだった。作者は書画家、阮文輝の娘で、婿が売店を開いている。奥に書も展示してある。「學無涯」の書に惹かれて350元で購入。

 南西に走ると遠くに雪の連山が見えてきた。祁連山脈だ。ここからの雪解け水がオアシス都市敦煌を潤している。4000m級の山なみで、かなりのところまで冠雪している。雪解け水の流れのひとつ党河に水庫つまりダムが造られている。その手前、党河のつくった河岸壁に西千仏洞がある。莫高窟の西にあるので西千仏洞。19の石窟があり、今日は345679の6窟が公開されていた。

 第3・4窟は盛唐期のもので、中央に仏壇があり、壁面に説法図が描かれている。仏塑像は、みな清代のもので駄作。壁画には後代の書き込みが多く、ひどいものは素人が顔の輪郭線を描いたようなものもある。

 第5窟は北魏のもので、本尊塑像は破損が激しいかたちで残っている。木・藁の芯に粘土を被せて彩色する方法がよく見える。壁画は、飛天が比較的保存がいい。光背やスカーフの薄緑色が地の赤色とマッチしている。千仏にはそれぞれの名前札が付けられているが字は見えない。その上は天宮伎楽図で、いろいろの天の舞踊の姿がダイナミックに描かれている。

 第6窟は北周のもの。中央には仏壇がなく、壁にある。白地に茶・薄茶で描かれた飛天が良い。

 第7窟は、西魏のもので、薄緑の地に赤・白・茶色で描かれた3体仏と飛天が良い

 第9窟は北周のもので、中央の柱の後ろの壁に、涅槃仏が描かれている。足をさする貴顕の姿が面白い。入って左上には、飛天の下書きが残っている。赤の線書きで、なかなか上手い筆遣いだ。これから彩色しようというところで、何かの理由で製作が中止になったのだろう。

 莫高窟と同時期の石窟で類似点が多いが、保存の程度はかなり劣る。道教の道士たちの手で長く守られてきて、現在も道士が管理役を果たしているようだ。参観料は@40元。案内パンフレットは50元。

 砂漠の道を進み、玉門関への道を右に見、チベットへの道を左に見ながら陽関へ向かう。やがて緑の木々が見えて、オアシスに入る。左右がブドウ畑になったところで農家飯の店に入って昼食。ブドウの樹の下のテーブルで張さんが勝手に採ってきたブドウを食べながら待つ。緑色の細長いブドウで美味しい。片側方向にだけツルを伸ばしてJを逆にした形にブドウを育てている。種なし種で、果物として出荷するほか、干しぶどうやブドウ酒にも加工する。新彊のほうが甘味が強いらしいが、ここのも人気とのこと。

 待つあいだにブドウ畑をくぐりながら歩くと、子供2人が水路の分水板を調整していた。綺麗な水で、手を洗うと気持ちがいい。濡れた手はすぐに乾いてしまった。さすがに湿度がすごく低いようだ。オアシスの泉からの灌漑でブドウは育っているわけだ。

 泉にいる大きなニジマスのスープ、地鶏と野菜の煮物(大盤鶏)、ほうれん草炒め、青菜炒めに麺。ニジマスは他の川魚に比べると臭みが少ないが恵子は敬遠。地鶏は堅いが味は良い。野菜の炒めは赤唐辛子がたくさん入っていて辛い。口に残る辛さを、ブドウの甘さで消しながら食べる。麺は歯ごたえのある手延べ麺で、ジャガイモ・ニンジン・ピーマン・豆腐・肉などを細かいさいの目に切った具の入った汁麺。名称は、月偏に「操」の旁をいれた字と子麺。美味しい麺だ。合計172元。

 給仕してくれたのが素晴らしい美人。漢族ではなく、西域の血が入った感じのエキゾティックな婦人だが、声は中音で太く、話す言葉に中国語の美しさは無い。周さんに聞くと、敦煌語で、四川・福建系統の方言とのこと。周さんも張さんも敦煌育ち。2人とも1児の親。周さんは敦煌の高校卒業後、蘭州の専門学校で2年間、日本語を学んだ。かなり正確な日本語を話す。張さんは19歳で自動車免許を取って、運転歴12年のベテラン。

 食後、ブドウをもらって陽関に行く。自動車路を外れて砂漠の中の上り坂を少し行ったところに、敦煌陽関文物旅游景区がある。@40元を払って入場。西域を探検・征服した張蹇の乗馬像がある両翼にシルクロード展示館と陽関文物陳列館が並ぶ。最近出来たらしく、分かりやすい展示だが、AV説明装置などはなく、古典的な陳列法だ。中央奥には都尉府を再現した建物があり、右手には木製の砦。門を出ると、のろし台までの自動車・ロバ車・馬が待っている。往復@20元の馬車を選ぶ。自動車なら10元。

 来る途中にも漢代ののろし台の廃墟を眼にしたが、陽関は、西域路最後のオアシスで、重要拠点だったから、100里毎に設けられる大型のろし台があった。上部は破損して下部しか残っていないが、砂丘の小高いところにあって、見晴らしは良さそうだ。廃墟の美を感じさせる。古代の陽関の街は、のろし台を中に、旅游景区とは反対側の低地にあった。陽とは南を意味していて、陰つまり北にある玉門関に対して、南の関というネーミング。

 すこし風があるので凧を組み立てて初揚げを試みたが、風が弱いうえに風向きが変化するので3回とも失敗してしまった。周さんが持ってくれたがダメで、おまけに糸巻きへの巻き付けが緩すぎたので、糸がはみ出してきてもつれてしまった。明日を期して退却。

 莫高窟付近とは違う感じの小石を収集して、馬車で戻る。出口に敦煌陶芸の展示があり、オカリナの祖形のような3穴の土笛があったので購入(30元)。ラクダの模様がついている。

 6時半ホテルに帰着、帰路ははやく感じられた。

 恵子が、からんだ凧糸の修復をしてくれるが、全部巻替える必要があるから、夕食に外出しているヒマはないことが判明した。周さんに勧められたラクダの蹄と瘤を食べる予定を変更して、ひとりで買い出しに出かける。麺広場で、肉挟餅2個(@2.5元)と揚げ餅(0.4元)を買って帰る。昨日の小包子、甘栗、ブドウとビールの夕食。このところ、夕食は極めて安上がりに済ませている。

 食後、ようやく凧糸全部を堅めに巻替えて入浴就寝。

 

10月4日

 8:00出発。ガイドは周さん、運転手は劉さん、車はサンタナ。昨日と同じ道を走って玉門関道へ右折。ゲートで玉門関入場料(@30元)を払って、砂漠の一本道を走る。アスファルト舗装された道が60km続く。この道は、1990年代に敦煌太陽能旅行会社が60万元を投資して舗装したもので、入場料の一部は通行料になっている。一種の有料道路なので、道の東側、つまり市街地側には、ブルドーザーが2m巾の穴と小山を作って砂漠から道路には入れないようになっている。西側は50cmくらいの段差があるし、砂が細かくて4駆でも走りにくいとのこと。

 限りなく砂の平原が続く場所、泥岩の残骸が小山となって点々と残りそこに草が生えている場所、小砂丘が茶・黒・緑の3色に重なっている場所などいろいろな砂漠の表情を見ながら、130km位のスピードで北西に走る。

 玉門関を右に見て道を左、つまり西に走り続ける。北側にはオアシスが東西に細長く伸びているが、湖泉には水はほとんど無く、白く塩が析出している。岩塩層を通った地下水が湧き出すらしく、オアシスは植相豊かではないようだ。

 目的地は雅丹(ウイグル語でヤルダン、中国語ではヤダン)で、この道も太陽能旅行社が1998年に完成させた。85kmあるから建設費は85万元か?昔の河床を走る道で、今でも夏には浅い河が蛇行するから、所々には、河の流れを横切る凹んだ箇所が設けられていて、そこだけコンクリート舗装になっている。時速100kmくらいで凹みを通過するとミニ・ジェトコースターの気分。

 まわりは、河が浸食した段丘を、砂嵐がさらに浸食した地形で、浸食が進んでほとんどなだらかな小丘になった場所や、まだ泥岩がさまざまな形で点在している場所がある。植物の生えているところはほとんど無い。

 赤煉瓦の細長い建物と色旗が見えてきて、敦煌雅丹国家地質公園に到着、入場料@40元を払ってなかに入る。泥岩を刳り貫いたデザインの建物に展示室、会議室、レストランがある。展示は、240万年前の蔬勒河の流が作った段丘を、流れが絶えた後に砂嵐が刻んで7030万年前にほぼ現在の地形ができたと説明している。売店でパンフレットと説明シートを買う。なぜか、シートの右上では広末涼子が笑っている。

 公園内には一般車両は乗り入れ禁止で、専用の4駆か小型バスに乗って見学する。4駆を選んで@40元。国産の4駆で出発。しばらく砂漠の道無き道を走る。4駆の本領を発揮した走りで、細かい砂地では雪道のような横滑りをハンドルで抑えながらの走行。小砂丘の上り下りでは、コースとスピードの選定の適否で運転手の腕が試される。

 「金獅迎賓」で停止。泥岩の浸食が横向きのライオンのイメージを創りだしている。建設途中のアスファルト舗装路に出て走るが、未完成の箇所では砂漠に迂回する。獅身人面像、つまりスフィンクスで停車。たしかにスフィンクスそっくりの岩がピラミッド状の岩の隣にある。近くまで歩くと、小石まじりの砂漠で、面白い石を拾う。泥岩は、薄い片に剥離して、岩の形状はどんどん変わるようだ。下部が浸食された岩は、塊になって崩落している。泥岩の小片にも面白いものがある。

 車に戻ってしばらく行くと両側に門のような岩があり、左側にピサの斜塔がある。10数メートルの低いものだが、たしかに斜塔の形だ。ここの砂嵐は北から吹くので、おおむね岩は南北に長い形をしているが、低いところの方が砂の吹きつけが激しいために、下部の浸食が強くなる。塔状の岩は、結果として傾いた形になる可能性があるということだろう。

 また走ってクジャク岩。高さ5mくらいの小さな岩が、クジャクの形に削られている。まさに自然の妙だ。ご丁寧に、後ろには卵形の、クジャクの卵岩。鳳凰とも見ているようだ。まだまだ先には、日本婦人とかゴリラとかいろいろな岩が続いているが、ここで帰路に就く。舗装路から砂漠へと、パリ・ダカ・ラリーもかくやとの4駆の疾走を経験。先を行った4駆が、坂でストップするのを横目に追い越しての快走。20分ほどで出発点に戻る。砂漠走行の得難い経験だ。運転手は、ここに昔、ロブノールがあったと言っていたが本当だろうか?

 レストランで昼食。白菜と豚肉、春雨の炒め、キクラゲと豚肉の炒め、羊肉とタマネギの炒め、瓜と野菜の炒め、炒醤麺。麺は手打ちきしめんのようで美味しい。4人分で245元。材料は敦煌市内から、水は玉門関近くのオアシスから運ぶのだから高めなのは当然だ。現在、ホテルを建築中で、ここの朝日や夕陽を奇岩越しに楽しむのが12年後の流行になるかもしれない。

 食後、再度の凧揚げ。微風だが100mくらいは糸が出せた。劉さんも手伝っての初成功。しかし、砂漠の風はここでも気まぐれで、風向きも風速もコロコロ変わるから、天空高くとまでは行かなかった。まあ満足。急いで作った甲斐があった。昨夜の恵子の努力もまあ報われたか。

 玉門関方向へ走る。途中に漢長城がある。長城もここから少し西で終わる。玉門関オアシスに茂る葦の類と粘土をサンドイッチ状に重ねて城壁を造る。のろし台と長城の断片が残っている。小石を拾うが、雅丹地のものとは少し種類が違うようだ。

 玉門関は粘土を突き固めた四角い建造物で、北と西に門がある。本来は別の名前だったが、北から送られてくる玉石をここで受け渡したのでこの名前で呼ばれるようになった。北側は枯れた泉で、短い葦やアッケシ草に似た赤い墨水草(インク草)が生えていて、塩が析出して円盤状に固まっている。

 ここからさらに北東に走ると河倉城がある。漢代に流れていた河の岸に建てられた大きな倉庫が河倉城。いまは、泥岩の城壁が、廃墟の美を見せている。ここに揚げた食糧などが、玉門関の人口を養っていた。馬に乗らないかと誘う女性は、ここに夫と住んでいるという。北側の塩湖でできる天然塩を採取して観光客に売っている。食料などは息子が週に一度届けに来る。馬は、湖畔の草で生きているらしい。

 同じ道を玉門関に戻る。少し離れたところに陳列館がある。古代の行政組織やのろしについての資料が展示されている。玉門関は極西の重要拠点で、都尉が置かれて、4万人が生活していた。のろしは、出現した人数ごとに、旗(昼間)を掲げたり粗朶を燃やしたりする数を定めていたようだ。のろし台は10里ごとに設けられ、100里毎に大きなのろし台を造っていた。

 ここの売店にも素焼きのオカリナがあった。10穴で玉門関とラクダの絵が手書きされている。陽関のより吹きにくいが、ひとつ購入(80元)。シルクロードで出土した魚型の土笛と莫高窟220窟の絵から構造を推定して玉門関の土で焼いたものと説明書に書いてある。

 帰路も砂漠の一本道を130kmで飛ばす。遠くに湖のような蜃気楼が出ている。祁連山脈の高峰の山頂付近は陽を受けて光っている。氷河のような硬い雪氷があるのだろう。

 一休みしてから、ホテルのレストランで夕食。雪山駝掌などを注文。出てきたのは卵白のメレンゲを盛り上げて雪山に見立て、麓にラクダの蹄を薄切りにして味付けたものを配した皿。爪の部分と肉の部分とがある。小盤で188元だから、かなり高値だが、意外に美味しかった。

 ホテル売店で電池を買う。前から見ていた絹絨毯(500段、壁掛け)を値引きさせて購入。6畳サイズの良いものも買ってしまう、さらに琥珀のペンダントも。日本語の上手な連中で、ホテルへの店借り賃と労働者への給料支払いが忙しいので大幅値引きをすると言っている。織り子の賃金を聞くと月400元と年1000元ほどのボーナスだという。6畳サイズの絨毯は、2人で1年かかるというから、労賃は11600元という計算になる。今日の売値では労賃分に満たない。日本への輸送費・保険料・関税・配達料込みだから、出血販売だ。SARSで日本人旅行客が激減したので、資金繰りが厳しくなっているにちがいない。

 

10月5日

 ゆっくり朝食をとってから、博物館へ行く。2階で敦煌の原始時代から明清期までの出土品、遺物の展示。土器に縄文模様があるのを発見。人間の考えることは同じ様なのだ。圧巻は莫高17窟から出た敦煌文書の展示。妙法蓮花(華ではない)経などの筆写経典の現物が数点ガラスケースに展示されている。几帳面な字体だがみな上手だ。「一」の字など、みな異なった書体で書くあたりは漢文書字作法だ。

 日本語の説明員がいたので、1900年に発見された後、清政府は保存の措置を取らなかったのかと聞くと、当時は、敦煌まで政府の統制が効いておらず、発見文物は勝手に処分され、外国人に売却されたり略取されたり、民間人に買い取られたりして散逸したとの答え。民間から買い戻したりして集めた文書は北京の国家図書館に所蔵されているが、一部はここで展示しているという。説明文に1907年から1925年までのあいだに文書が帝国主義国に流出したとあるが、この時期限定の意味は不明。義和団事件後の連合国駐兵が文書略奪に関係したのかと思っていたが?

 寛永通宝が4枚展示してあったので訊ねると、長城遺跡からの出土品という。江戸時代の銭輸出で中国に渡った銅銭は、鋳潰されたと思っていたが、案外、通貨としても流通したのかもしれない。

 1階はミュージアム・グッズの販売コーナー。展示スペースの割には大きな売店だ。博物館も独立採算制なのか、販売には熱心で説明員が商品の説明もしてくれる。石窟壁画の模写や瓦の拓本から、玉製品、木工品まで揃っている。石彫刻の熊を見つけたので早速購入。これまでも気にして見つけてきたが、12支動物以外はラクダなどばかりで、熊は見かけなかった。猫目石に彫られているので熊としては居心地が悪いかもしれないが、光具合が微妙で綺麗だ(60元)。拓本集を1冊買った(38元)。敦煌研究院の医者で副研究員の人が、飛天や菩薩を石版画にして拓本のような感じで刷りだす技法を開発した。その作品集で、彩色複写とは違う味わいがある。

 沙州市場を見学に行く。青果、精肉、生魚、乾物、金物、日用雑貨などの店が並ぶが、一番多いのは衣料品と靴。ジャガイモを2種売っている店があった。肉屋は塊を豪快に刀で打ち切っている。魚は鯉とナマズ。夜市でも鯉を開きにして焼いて売っている。夜市のある場所ではまだ焼き肉店は開いていない。酒屋で敦煌酒、つまりブドウ酒を選ぶ。例によって果汁80%、糖分50gなどの甘口ワインが多い。ドライワインを45元で買う。栓抜きがあるか訊ねるとひとつサービスしてくれた。

 大通りの料理店で昼食。牛肉鍋、家常豆腐、敦煌?(酉に良)皮、敦煌拉面、白飯。敦煌?皮は、幅広の春雨をくるくる巻にして並べて味噌だれをかけたものだった。涼菜でさっぱりしている。敦煌拉面は、幅広のしこしこ麺でそれだけ。他の料理をかけて食べたり鍋物に入れる麺らしい。お茶代を入れて87元。残りを打包した。

 昼寝のあと鳴沙山に出かける。タクシーで10元。入場料は@50。大門から乗合車で10元で月牙泉まで。駱駝に乗ると20元。沢山のラクダが待っている。乗合車を選ぶ。月牙泉は、砂丘の中に湧く半月型の小さな泉だ。まわりの砂丘と青空を映して美しい。湖畔に茶館がある。

 砂丘には砂滑り場が数カ所あって、木製の階段を登っていくと木製の橇を貸してくれて滑り降りる。料金は10元。

 ここからラクダで鳴沙山経由大門まで@50元。風があれば凧を揚げようと持参したので、徒歩で北側の斜面を登ることにする。途中までは踏みしめることができる砂だったが、ある地点からは1歩登ると半歩滑る砂地になった。あきらめようかと思ったが、少し上に踏み跡があるのでそこまで頑張る。ようやくひとつの稜線に出た。気がつくとリュックザックのふたが開いていて、糸巻きや背広が無い。下を見ると20mくらいのところに落ちている。滑る砂に気を取られて落ちたのに気づかなかった。やむなくまた砂を滑り降りて拾って稜線に戻る。かなり息切れする作業だった。

 稜線を歩いて手近な最高点へいって休憩。靴を脱ぐと大量の砂が出てきた。靴下も脱いで、裸足で砂を歩くと意外にヒンヤリした感触。熱砂かと思ったがさにあらず、気持ちがいい。風は全くないので、凧揚げはできない。砂の上には、小動物の足跡がある。鳥らしいのとネズミらしいもの。こんな砂だらけのところで何をしているのだろう。

 東に半月が見えて、日没も近そうなのでしばらく待つ。砂丘の陰が刻々変化して面白い。遠く飛行場も見える。莫高窟への道の手前には、のろし台跡らしいものが見える。そのあたりは、墓場のようで盛り土や板碑が点在している。ここらはまだ土葬で、若者が死ぬと浅く埋めて、後から来る両親を下に埋葬すると聞いた。

 落日が砂丘のあいだに輝く。恵子のシルエットを撮る。入れ替えたばかりの電池がへたってきた。アルカリ電池なのにパワー不足だ。オフにして回復を待って夕陽を撮る。稜線を下っていくと月が輝きを増してきた。月の砂漠の風情。平坦部に下りると、ラクダが列をつくって歩いてくる。月と砂漠とラクダの図柄を撮る。

 ラクダの縫いぐるみや夜光杯、バティックなどの売店が並ぶ道を駐車場まで歩く。バスを探したが乗り場が分からないので、タクシーで帰る。20元取られた。売店の綺麗な日本語をしゃべる娘さんに朝会った時に、12月には北京第2外国語大学で勉強するというので、名刺を渡す約束をした。朝7時から夜11時まで勤務しているらしい。労働基準法はないのだろうか。名刺をあげると、住所と名前を書いてくれた。李晶さん。北京で電話するように話す。敦煌でガールハントしたかたちだ。

 一人で買い物に出てビール、焼き餃子、麻花を買って帰る。昼の打包とワインで夕食。敦煌ワインは、軽くてブドウの味が残るタイプで、かなりいける。灯りを消して窓外の月を眺めながらの敦煌ワインは好好。

10時過ぎに周さんから電話で明日の予定を確認してくれた。

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