北京滞在記10月 その2

10月6日

 8:00、劉さんと柴さんが来てくれる。空港前の道を安西方向に走る。右に低い山並み、遠くに雪をいただく祁連山脈を見ながら、砂漠あるいは小灌木の茂るサバンナの中を行く。道沿いにのろし台の跡がある。1040kmごとにある理屈だ。途中、道路脇に横転しているトラックがある。緩いカーブを切り損なったのだろう。楡林方向へ右折して山岳地帯に入る。茶色と黒色の縞模様の小丘陵地を縫うように走る。少し平地に出ると漢の城跡がある。かなり廣い区画に城壁の廃墟がある。近くは水が溜まっていて棉を栽培している。

 ほどなく小さな宿屋がある楡林の村に着くが、そこは通り抜けて、工事中の道路を迂回する荒れ地の泥道を走る。ちょっと迷って戻ってから迂回路を進むと向こうから来た車と出会って停車。楡林窟の所長の羅さんたちの車だった。劉さん、柴さんが降りて話をする。

 砂漠の迂回路を進んで道路に出てからは、しばらく直線で、やがて小丘陵地帯を走る。途中で砕石を満載したトラックとすれ違う。ほどなく、砕石の生産地があった。破砕機が動いて、トラックが石を積んでいる。なぜここなのか分からないが、砕石に適した岩山なのだろう。やがて、砂岩地帯に出る。右側を楡林河が流れ、砂岩を浸食して断崖を形成している。

 駐車場があるが、通り過ぎて急な坂道を下ると鉄門が開いている。さっき出会った羅所長が連絡して開けてくれたとのこと。普通は上に駐車するようで、数人の中国人が歩いている。下の駐車場で下車。河の両岸の断崖に窟が掘られている。下流に向かって右側に31窟、左側に11窟の合計42窟。日本語のできる周さんが案内してくれる。

 最近整備が終わった階段を上まで登って、第12窟から見学。12窟は五代期のもので、西方浄土経変の壁画。中の塑像は清代の薬王とその弟子達。

 第13窟は、五代から宋の壁画で清代の修復された。天井は正方形で卍崩しの立体感のある模様と唐草模様が描いてある。清代の仏像があるが、なぜあんなに美的でないのか不思議だ。古拙の美からははるかに洗練された美を造りだした唐宋期に較べて、清代の塑像作家は退化したとしか言いようがない。道教の神像などを造るグロテスクな技法の影響か?ここの窟は、砂岩内に掘られた通路で結ばれている。扉の内側に左右に通路が通じていて、その奥に室がある。

 第15窟は前室の壁画が中唐、内部のは宋代。中唐の壁画は豊満な肢体の飛天で、楡林窟第一のものという。塑像は清代の釈迦仏と侍仏・力士。宋代の壁画は北に毘沙門天、南にビルリ天。毘沙門天はトルバン風の衣装で手には貂を持っている。南天は弓矢を持ち、鬼姿のえびらを持つ従者を従えている。面白い構図だ。

 第16窟は五代。当時の敦煌地帯の支配者、宋議金の寄進窟で、宋と夫人の立像が描かれている。夫人はウイグル王の娘で政略結婚だったらしい。夫人は桃型の髷を結い、ウイグルの衣装を着けているが、顔の化粧は当時流行の眉に梅花柄、頬に鳥模様のもの。後壁画は、菩薩とロウドウシャ(固有名詞)の神通力較べの様子。重そうな梵鐘を持ち上げたりしている。

 第17窟は初唐のもので、中心に岩柱があり回りに三世仏の塑像。壁画は宋代。入口右に、光緒33年(1907年)に英国人スタインの通訳としてここを訪れた蒋資生の彫り込み字が残されている。莫高窟を訪れて敦煌文書を略取したスタインは、同じ年にここに来て写真を撮っていったとのこと。劉さんの説明によると、1900年に発見された敦煌文書は、清政府の管理下には置かれず、発見者が直接に管理していた。発見した道士は文書の価値が分からず、わずかの金で、希望者に売ったようだ。スタインに続いてフランス人ペリオが来て、ロウソクを灯しながら文書を点検した。彼は中国史の専門家だったので、重要文書・資料だけを選び出してフランスに持ち帰った。わずかながら代金を払ったのだが、研究院の解説では「盗まれた」と表現しているとのこと。

 次の窟に入ると巨大な大仏の頭部が見える。下の第6窟の24.7mの大仏座像の上部だ。唐のものを清代に修復して金箔を張ってある。壁画には、宋議金の子孫が描かれている。

 第19窟は五代のもの。ここにも宋の子孫夫妻の画。夫人は漢族で、鳳凰の帽子をかぶり、衣装も普通。壁画は薬師経変と西方浄土経変。建物の朱色が鮮やかに残っていて印象的だ。

 第23窟は、唐のものの上に清代に道教の道士が新しい壁画と塑像を造った窟。道教の窟になっている。入口脇には水墨画があり、天井には八仙人、壁面には道教の信者だった明の朱将軍が、モンゴル風の元の軍隊と戦争している絵が描かれている。入って右裏壁には、同床異夢の絵。塑像は道教の高位者と従者。

 第25窟は特別窟で拝観料は200元。入って右が観無量寿経変、左が弥勒変の壁画。極めて有名な中唐期の壁画。弥勒変では、弥勒の世が、8万4000歳で寂滅する元気な老人の姿、500歳で結婚する婦人の婚姻宴の図、2頭の牛が牽く犁耕と脱穀は1回の種まきで7回収穫できることを表す図、衣服が必要なら樹木から衣服が与えられる図などで表現されている。観無量寿経変は、踊る菩薩と楽隊を下部に描いて、阿弥陀仏を中央に諸仏が大きな回廊屋敷に集まる典型的な図柄。踊る菩薩の顔をはじめ、諸仏の顔立ちはふくよかで、やや眼が突きだしている。琵琶を弾くカリョウビンガや双頭のカリョウビンガもいる。蓮の蕾のなかに蓮花童子がいて開花を待っている。左隅には三蔵法師が白馬に経典を積み、孫悟空を連れて、浄土を拝礼している図が描かれている。西遊記以前の絵だ。さすがに見ごたえのある特別窟だった。

 ここで昼食。窟内の研究員・従業員の食堂で、茹で拉麺にトマトや野菜のスープをかける面。ハム2種、インゲン炒め、香草炒めを入れて食べる。安西から運んできた食材の料理で美味しく頂戴する。水は祁連山脈からの雪解け水を濾したものを使っている。食堂でテレビを見ながら煙草を燻らしていた人物は孫さんで、敦煌研究院の研究員。第3窟の壁画の細密写真を撮影のために1ヶ月ほどここに滞在中。漢族の豪傑の風貌の人だ。羅所長の了解が得られたので、現在作業中の第3窟を見せてくれることになっていた。

 食後、西夏期の第3窟を見学。入って右裏の壁面に普賢菩薩、左裏に文殊菩薩。白地に黒の微細な線画、緑と薄青だけの彩色だが、すばらしい迫力だ。普賢菩薩は蛾眉山、文殊は五大山が背景で、それぞれの修行地を山水画風に描いている。文殊の足許は池で、浮かぶ小舟の上では釈迦の説法が行われている。鱗を詳細に描いた鯉が2尾、泳いでいる。正面右の壁画は五十一面観音、左は十七面観音。ともに肌の変色は激しい。五十一面観音の周りには生活画が細かく描かれている。酒造り、鍛冶、農具などで当時の生産の有様を知る好素材だ。十七面観音はさまざまな宝具を持つ。天井は円い形で、大日如来を中心に曼陀羅が描かれている。

 孫研究員が撮影のために持ち込んだ照明を点けてくれたので、画面全体を良く見ることができた。撮影は、この窟の実物大模型を造るためで、窟内に櫓を組んで作業中だ。ビデオカメラもあって、菩薩の顔をカメラで拡大して見せてくれた。ビデオ画像は、色彩のコントラストが強くなって、緑と薄青が実に綺麗だ。

 続いて隣の第2窟を見学。これも西夏のもの。入口右裏と左裏に水月観音が描かれている。岩の斜面に腰を下ろして体をひねった観音が、空にかかる半月を見上げ、足許の水の流れる音を聞いている構図。右壁の図では月が剥落している。肌は変色しているが、線描は辿れて美しい。左右の壁画は経変だが、諸仏の表情と衣装がすべて異なっている。孫さんが黄土色の袈裟を来た人物を指してこの色の成分はまだ分かっていないと教えてくれた。たしかに、これまでは見なかった色だ。正面の壁画には生活画の部分があるようだ。

 第2・3窟は特別窟で拝観料は150元。一般窟の拝観料50元を含めて、今日は1人当たり550元を支払ったが、充分に価値ある金額だ。料金表には第2窟は100元と書いてあったようだが、差額は昼食代だろう。

 周さんは、敦煌研究院の負担で西安外国語大学で去年7月まで2年間日本語を学んだ唯一の日本語説明員。水月観音を「みずつき」観音、九品を「きゅうひん」と発音するなどまだ未熟さはあるが、教えるとすぐ手帳に書き留める勉強熱心な娘さんで、やがて良い説明員になるだろう。劉さんもいろいろ指導していた。

 見学者は我々だけで、ゆっくり回れたし、孫さんの説明まで聞けたから誠に充実した見学だった。橋をわたって対岸の窟も写真に撮れた。河は濁っていて水量は多く流は速い。この河が断崖を造り、石窟の造営を可能にしたわけだ。河があるので古くから沿岸に村が作られ、生活物資は生産されていたから、造窟もできたようだ。莫高窟も楡林窟も、寄進者の名前はある程度判明するが、仏師や絵師の名前は全く分からないとのこと。彼等がこれだけの技量をどこで修得したのかなど、これからの研究課題になっている。

 2時半帰路に着く。車中は居眠り。途中で柳の一種の黄葉を写真におさめる。羊の群と牧童の馬も見える。往きに横転していたトラックはそのままで、運転手達は昼寝。直線道路で交通事故を見る。乗用車とワゴン車が正面衝突したらしく、車輪が曲がった乗用車は道路に斜めに停まり、ワゴン車は路肩に横転している。見晴らしの良い一本道でどうして事故か、不思議だ。柴さんの運転は極めて上手で慎重だから安心。棉を満載したトラクターが何台も綿花集積場に向かう。レンガ塀のなかに綿花が野積みされている。ふらふら運転のトラクターが行く。荷台には棉摘みで疲れた農婦たちが眠りこけている。運転する農夫までが斜めに傾いて居眠り運転。前を行くロバ馬車が轢かれはしないかと心配になる。棉摘みはかがみながらでかなりな重労働なのだろう。

 5時過ぎにホテルに帰着。劉・柴さんに感謝してお別れ。これで敦煌の旅は実質的に終了。ビールとワインで乾杯。

 8時過ぎ、街へ夕食に出る。敦煌名優小吃広場で、異国風の美人のテーブルに座ってビール。勧められるままに棗を囓る。刀削面、抓魚子をたのむと前に食べた店から出前をとってくれた。隣のテーブルも色白の美人で5歳の子供もママ、ママといって一緒にいる。屋根の間からかなり大きくなった月が見える。月見をしながらのビールは美味しい。杏皮水を飲んで、50元。

 市場を歩いて果物屋で桃を買う。一番小さい桃よりも二周り大きい桃を5個で計ってもらうと10元。20元出すとお釣りをくれないで、桃をもっと入れてくれる。一番小さい桃やリンゴを入れて20元になった。香りの良い桃で、味も悪くない。

 角の店で絵はがきを買うが、楡林窟のは無い。開放間もないのでまだ知名度が低いのだろう。

 

10月7日

 朝食後、葉書を書いたり、拾った小石を選別するなどゆっくりしてから街へ出る。近くの航空券売場で明日の飛行機のリコンファームをする。反弾琵琶飛天の脇を通って郵便局で投函、中国銀行で現金引きだし。沙州市場の続きの市場、バザールを歩くと、青果、精肉、鮮魚、乾物、日用雑貨、靴、衣料などの店が並んでいて面白い。

 精肉は豚と羊が主だが、ロバ肉も売っている。赤色の肉で蹄と皮のついた脚を1本付けている。東北ではシッポを付けて売っていたが、ここでは脚だ。鳥も、生きた鶏、烏骨鶏、アヒル、鴨、鳩が篭で買い手を待っている。鶏も何種類かいる。乾物店には、鉄の円筒があって、そこに干した赤唐辛子を入れて、先端に球が付いた鉄棒で砕いて唐辛子粉を作っている。モーターで動く薬研を備える店もある。

 街角に求人広告などを貼る掲示板がある。なかに「征婚」と書いて性別、年齢、身長、居住地、職業、特徴、気質、未婚・既婚、子供などの情報を書いて、電話番号を記した紙がある。結婚相手募集の広告だ。男女、各年齢層の広告が沢山貼ってある。面白いシステムだ。求人は、月給300元から600元が相場で、芸術見習い工で最高が1000元。貸間は年3800元前後。売り部屋は4万元から6万元。

 別の掲示板には、お墓の移動を指示する命令書が貼ってある。世界遺産の周辺を整理するために、特定地域内にある墓を、公設の墓地に移転するようにとの指令だ。移転費用は500元支給するが、期日までに移転しない場合には50元から5000元の罰金を課するという。莫高窟への道の両脇にある墓もきっと移転対象なのだろう。こういうことでも、法律で決めればすぐに実行できるあたりが、この国の特質だ。

 昼食は街の食堂で炒醤面と加肉牛肉面。ここの炒醤面は、平皿にのせた3mmくらいの丸い麺に挽肉ソースをかけたもので、見たところも食感もスパゲティ・ミートソースそっくりだ。牛肉面は、細いラーメンに煮込んだ牛肉の薄切りをのせたもので、チャーシュー麺の牛肉版というところ。ともに辛いが美味しい。合わせて9元。

 鳴沙山行きのバスを探したが分からないので引き返す。清真寺を訪問。立派なモスクで、2つの尖塔とタマネギ型の主塔が三日月を掲げながら陽に輝いている。白い帽子のイスラム教徒も目立つ街だから礼拝時間は賑やかなのだろう。

 書店で、拓本書と仏像写真集を購入。ここにも楡林窟関係の本は無かった。社会科学の書棚には法律解説、会計関係のものが多い。レーニン全集と資本論もあったが、経済書は少ない。帰室して昼寝。

 窓外のポプラの梢が揺れているので、凧を持って外出。ホテルの前を右に歩いて水のない運河を渡り、ポプラの並木を行く。案外、樹木の帯は深く、開けた土地は見あたらない。右に道をとると古い住宅が並ぶ。土塀をめぐらした中に中庭があってそれを平屋の部屋が囲んでいる。門には万事大吉など祝い言葉を金文字で書いた赤い紙が貼ってある。門の外で子供が遊び、老婆が鉄の紡ぎ棒で毛糸を紡いでいる。のどかな風景だ。

 空港への道を渡ると恰好な空き地がある。鳴沙山が遠望できて、棉畑が拡がっている。風を待つが、柳はそよいでもポプラの梢を揺らすほどの風は吹かない。棉畑を観察する。草丈は5060cmで、1本に10個くらいの実を付けている。ひとつの実は4か5の棉房に分かれていて、1房には10個くらいの種子が分在している。かなり密植して、間隔は10cm程度だ。不整形の圃場が周りを土の畔に囲まれて続き、間に水路が通っている。成長期の綿はかなりの水分を必要とするはずだから、灌漑は不可欠だ。家の裏に植えて置いた棉はどうしただろうかなど考えながら水路沿いを歩く。収穫期で子供まで畑で棉摘みをしている。農夫らしからぬ普通の衣服で棉摘みをしている夫婦がいる。きっと兼業農家なのだろう。子供2人を遊ばせながらの農作業だ。水路脇で草をはむ羊と老牧夫。土塀のなかで羊飼いをしている家もある。水路の分岐を辿ったら、さっき渡った運河に出た。今は水はないが、春から夏には用水路になるのだろう。

 夕食に出るがあまり繁盛した店がない。火鍋は人気だが、あまり食べたくない。結局、ホテルに戻って、兎炒め煮、豚肉と酸菜の炒め、ヒョウタン瓜の炒め、白飯、ビール2本、合計86元。ラクダの瘤を食べてみたかったがメニューになかった。

 食堂に旅行社の夏社長が来て、ロビーで精算。ホテル代@530元、チャーター車約1100km2.5元、空港送迎@100元、ガイド3日@200で合計7385元の請求を7300元で。

 

10月8日

 恵子が荷物を作ってから朝食。少し時間があるので街に散歩に出る。石室書軒で楡林窟の画集を見つけたので購入。600元と値が付いているが、定価は380元。交渉したら定価で売ってくれた。もう品切れの本かもしれないが、変な価格付けだ。ホテルの売店で、観音像模写と王翰の玉門関の詩の軸を購入。

 11時に夏社長が来て空港に送ってくれる。北京発の飛行機が折り返しで北京に飛ぶ。定時を20分ほど遅れたが平穏な飛行で、北京着。空港バスで友誼賓館の前まで来て歩いて帰室。なかなか興味深い敦煌への旅だった。

 夕方、敦煌から帰る。空港バスの停留場が以前の双楡樹通りから移動して友誼賓館北門前になったので、歩道橋を渡って歩いて帰室。小学校帰りの清水先生のお嬢ちゃんたちと会う。今日から学校も職場も再開されたわけだ。

 ネットに繋ぐとメールが溜まっていた。敦煌では北京のGRICに掛けてもログインできなかったので、諦めていた。

 ホテル内の食堂で夕食。酢豚など3品とビールで38元。この食堂は専家証を見せると半額になる。

 疲れたので早寝したら、元の電話で起こされた。明日、名古屋に行くとのこと。

 

10月9日

 早朝、目が覚めて、社会科学院講演レジュメを修正、張先生にメールで送る。

 6時半ころから明るい。敦煌よりかなり東にあるせいだ。空は曇りで靄もたっている。北京青天からはほど遠い。

 元からの電話でバスに乗り遅れ、タクシーでセンターへ。1、2年生の授業で、戦後の経済改革を話す。企業別組合の得失、中国の企業合同の前途と独占禁止政策などの質問に答える。送迎車で帰室。フロントで9月の電話代、1175元を支払う。国際電話が多かったからだ。

 1:40、車でセンターへ。濱先生の総合講座「『奥の細道』の新しい読み方―言葉遊びが「文学」になる瞬間―」を聴く。3種類の底本に使用されている仮名の字体をデータベース化して、使用頻度を確定する作業から、芭蕉が特に力点を置いた箇所をマークアップしてテキストを解読するという方法が採られている。使用語彙の統計的解析手法の一種だが、仮名字体を対象としているところが斬新であるらしい。

 出羽3山への行脚が細道紀行のハイライトとなっていて、この聖地を経ることによって芭蕉は新しい境地に達するという見方から、芭蕉は、「武士の道」「商人の道」とは異なって「個人」の自己実現を達成するために「俳諧道」を確立した人物という評価が結論とされる。後年の句は、自然のエネルギー、造物主の力が示される「形成力」を詠んでいるところに特徴があるとの解釈。なかなか興味深い講義だった。

 4時から2年生の留学先を決める会議。4人の日本における指導教員の選定は、大きな問題だが、これまでにセンターに派遣された教員やその人の紹介する教員のところへ留学することでほぼ基本線は決まった。

 急いで帰宅して李先生を待つ。現れたのは女性で、向○(四の下に正)という名から男性を想定していた迂闊さに気づく。国家○(手偏に当)案局政策法規研究司の副司長。全国の○案館の文書管理基準を定める仕事をしている。人民大学で易先生の学生だったとのこと。香山のそばの寺にある涅槃仏の石像をお土産にくださる。18日には、潭柘寺へのツアーに連れていって下さることになった。

 朝陽区の「大宅門」へタクシーで。北京の富豪の大きな屋敷を模した料理店で、宅門骨(豚のげんこつ骨の半分がスープのなかに入っていて、骨髄をストローですすり周りの肉やスジを食べ、スープを飲む料理)、○(草冠の下に悠の上部)麦菜のゴマだれサラダ、小黄魚の唐揚げスープかけ、炒醤面、八宝飯と酸豆乳(すっぱい豆乳)を喫する。珍しい料理だ。小舞台では、京劇の歌、仮面変化、足技雑技などが演じられている。167元。

 タクシーで帰宅。

 

10月10日

 久しぶりに双楡樹早市へ散歩。敦煌の小さな桃はここでは売っていない。黄色いインゲンは無くなったようだが、まだ品揃えは豊富だ。大きなマッシュルーム5個(2元)、カリフラワー小(0.8元)、青と緑のインゲン(1元)、うどん(1元)を買う。

 帰り道、天外天の角で、アウディと自転車の事故で、老人が道の真ん中で動けなくなっている。細い道から出てきたアウディが老人の自転車を引っ掛けて老人が脚を痛めたようだ。北京の事故処理を見学。まず、運転手が電話で連絡、自転車を歩道に移して鍵を掛けて老人に渡す。人だかりができて、老人の知り合いらしい婦人達が老人を囲み、おのずから防御壁になる。社区の警備員らしい人物が通るが見物するだけ。15分位してから首都巡警のパトロールカーが来たが、これもちょっと降りて来て様子を見ただけで、連絡も交通整理もせずに走り去ってしまう。運転手が老人を車に乗せようとするが、抱えられて立ち上がった老人は脚を痛がって歩けず、また道に脚を投げ出して座り込む。

 30分位して、白バイの公安警官が1人来て、事情聴取をはじめた。小さな紙に状況を書き込んで、運転手と老人の知り合いの婦人に渡す。さらに、小さな紙に運転免許証記載事項などを書き込んで運転手に渡し、免許証は取り上げた。仮免許証を発行したらしい。無線で連絡していた警官は走り去ったのでおやおやと思っていたら、救急車を先導して戻ってきた。999と書かれた救急車には1人の女性救急士と運転手の2人が乗っている。酸素ボンベは備えているが、他にはめぼしい救急医療器機は装備されていない。ストレッチャーを降ろして老人を乗せ、周りの人が手伝って車に持ち上げる。救急士が添え木で右脚を固定して、知り合いの婦人達を同乗させて発車。自転車は、知り合いらしい男性が引いていった。

 処理が終わるまでに、事故発生後1時間以上が経過している。警官の到着が30分後、救急車は1時間後だ。これでは重体事故での救命率は極めて低いに違いない。モータリゼーションの急進展に、事故処理体制がついていけない様子がよく分かった。この国では、事故に遭わないようによほど注意が必要だ。

 事故見学で帰宅が大幅に遅れたので、恵子は事故にでもあったかと大心配。もうすこしで畔上さんに電話するところだった。

 ホテル前の成都小吃の小包子、マッシュルーム炒め、茹でたカリフラワーとインゲンの朝食。新鮮な野菜は美味しい。

 社会科学院の講演資料を作成。

 昼食は、野菜たっぷりの炒醤面。なかなか上手にできるようになった。

 2時過ぎ、出かけたが雨が降り出した。傘をとりに帰るまでもなかろうと空港バス乗り場に行く。宋先生と空港へ。検査入口で、航空券の姓名が中国読みのローマ字表記になっていたので、花押サインのパスポートと照合ができず手間取り、友誼賓館の専家証で通過する。17:00の南方航空の便で瀋陽へ出発。約50分の飛行で瀋陽空港に着く。出迎えの車で国際会議場の天保賓館へ1時間ほどのドライブ。市内を左に見ながら東側の高速道路を走り、勾配のある一般道路を北に向かう。やがて、輝山風景区の入口を通って広い公園の中を走り、ダム湖の沿岸を行く。遠くにライトアップされた噴水が見える。突然、立派なホテルに到着。

 受付の女性達に歓迎されながら、別館の部屋に案内される。豪華なスイートルームで、シャワールームが別になった、ジャグジーバス付き。

 8時から本館レストランで夕食。湖の小エビと蓮魚が出た。出迎えてくれた遼寧大学院生とドライバーと一緒に、東北料理の話などしながら食べる。やはり、酸菜を入れた餃子が好まれるようだ。麺もよく食べるというので、敦煌の搓魚子があるか訊ねると無いとの答え。地方による麺のバラエティがあるわけだ。

 会議資料を受け取って部屋へ帰り、日程表を見てびっくり。セッションの司会はともかく、最後に日本学者代表答辞を述べることになっている。まあそのような歳かとは思う。代田主任教授は、ただ出席するだけでいいと言っておられたのだが。

 ジャグジーをと思ったらタブの方はお湯が出ない。シャワーだけ。

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