中国旅日記 

3・12
 
成田発定刻18:05、北京空港着21:20(現地時間)。空港バス(@16元)で双楡樹下車、歩いて友誼賓館へ。思ったより遠かった。本館433号室に投宿。サロン付きのスイート。畔上さんに電話して、明日9:30に会う手はずにする。夜ではっきりしなかったが、街は3年前とはかなり変わった印象。ネットには繋がったが、メールはうまく接続できない。設定をやり直してもダメであきらめる。

 

3.13


6:00、薄暗い中、人民大学へ散歩。街路では、三輪車の道路清掃人が活動。カナダあたりでは小型の清掃用自動車が動く時間だ。こっちのほうが、省資源的で良いかもしれない。相変わらず自転車が多い。一台だけ電動自転車を見かけた。車輪が曲がった三輪車も堂々と走っている。

人民大学の正門を入ると、「3つの代表」を追求して「世界知名的一流大学」を創建しようとの横断看板がある。図書館の前には学生が数人並んでいる。たずねると7時の開館を待っているとのこと。図書館脇には、孔子像があるので驚いてプレートを見ると2001年建立とある。よそならともかく、マルクス・レーニン主義の牙城人民大学に孔子像とは!立派な体育館「世紀館」も2001年建立。そのほか、2000年とはかなり様子が変わっている。宿泊した賢進楼付近もきれいになって、古い建物はとり壊して片付け中。西門の位置も変わってしまったので、居住区のなかの裏門をくぐる。古い裏町の細道を歩いていると、路地脇の家並みを壊して道路を拡張している。ぬかるみの道もある。迷ったかと思ったが、どうにか大通りに出られた。

朝食は品数の多いビュッフェ。

朝食後、畔上さんに案内をお願いする。意外にお若い美しい方で、中国人と結婚してここにお勤め。友誼賓館の宿舎を見てから、理工大学をとおって日本学中心センターへ徒歩。図書館は、まあまあ。主任の佐藤先生ほかの皆様からいろいろ伺う。日本語堪能の院生ばかりとのことで、期待できるかも。昼食をご一緒にいただく。おいしくて安いらしい。

お別れしてから、タクシーで紅橋市場へ。淡水真珠をいくつか購入。友誼賓館に戻ると、沈先生が待っていてくれた。南開大学のワンボックスカーは、市内で検問で止められた。全人代期間で厳しいのか思うと、さにあらず。単に、レーンを間違えただけで、運転手は良い巡査で良かったといっている。それにしても、交通道徳をもっと教えるほうが良い。みんなで渡ればコワクナイでは、ダメですね。北京市の外延では、古いものは打ち壊されて、新しい建物が建築中。車中の沈さんの話では、自家用車も、南開大学の先生のうち、30%くらいの方は持っているらしい。

南開大学へ高速道路を走る。いつも、列車で行くので、高速は珍しい。羊を追う人が冬麦の畑の間にのんびり。毛もとるが、食べるため。制限速度は、110kmだが、だれも守っていない。クラクションで、おたがいに相手を牽制しながら、割り込むから、交差点は、かなりやかましい。

専家楼に投宿してビックリ。内装を綺麗にして、家具も新調したし、ドアはITロック。ウオッシュレットまで付いている。専家楼の食堂個室で晩餐。楊夫妻、王さん、米さん、沈さん、喬・臧夫妻でにぎやか。52%の白酒を堪能。

 

3・14


朝、恵子と天津大学の四季村マーケットへ。オムレツ風餅(1元)、小包子2こ(@2角)、豆乳500cc(5角)購入。電動自転車がかなり走っているが、バイクは少ない。幼稚園では親につれられて小皇帝たちが登園、なかには自家用車でくる親子もいた。

9:30から客員教授辞令授与式。日本研究中心の会議室で、Pang副学長から辞令をいただく。部屋には授与式のための横断幕まであって恐縮。その後、1回のセミナー。昨日のアルコールがまだ残っていて赤い顔で授業。楊先生が通訳してくださる。センター以外の大学院生もいたので、中国語が必要だったらしい。沈先生は、戦争と経済の関係という難しい質問、柳沢遊氏の見解などを紹介しながら答弁。喬さんは、日本経済はいつ回復するかというこれまた難問。これには、誰にも分からないとしか答えられない。

専家楼食堂でPang先生の招待宴。外国語学院の院長(学部長)王先生も出席、久闊を暖める。鯛の生きづくり風の刺身も出たが、湯引きしてある。やはり、純ナマは敬遠するらしい。谷先生の後任の国際交流処副所長の種先生も、日本語は堪能。美しい日本語は、美しいお顔によく似合う。少し部屋で休む。

2:30から第2回のセミナー。高度成長期にジニ係数が低下した日本に比べて、中国で貧富格差が拡大している理由に付いての質問。格差が付く方が高度成長を促進するが、そのよしあしは別と答える。日本的経営の三種の神器が崩れつつあることの評価については、日本の経営者の中にも両論あること、たぶん長期的にはマイナスと答えた。高度成長の陰の部分は避けることができるかとの質問には、できる部分とできない部分があるとして、温暖化ガス規制を例に説明。通訳はD1の王君がやってくれたが、見事な日本語。財政投融資をテーマにして、今年、立教に留学予定とのこと。前回世話になったD1の張君も自動車産業をテーマに国学院にくる予定。ほかにも4人の院生が日本留学予定とのこと。

6:00過ぎに楊先生夫妻が迎えにきて、王振鎖先生のご自宅に行く。王夫人が仕事を休んでお料理を作ってくださる。美味しい包子、ほかにも手作りのご馳走。南開大学村の1階のお宅。4DKのフラットで、最近内装を新しくして、とても綺麗。大画面のテレビも、かなりのチャンネルが映る。娘の睿さんの写真が飾ってある。一橋大学留学中の睿さんは、今年、修士号を取る由。

 

3・15


朝は恵子と南開大学西南村へ散歩。市場で、朝食。豆花(ここでは豆腐脳)にかけ汁・漬物の細切れを入れた椀、薄切の緑色の麺に同じ汁をかけた椀。両方で1.6元。はじめての食材だが、面白く食べた。パンを1個買って帰室。学内に大きな凡鐘があるので読むと、1937年7月28日に日本軍が侵攻して大学施設を焼いた記念碑。日本軍の駐屯地にもなったのだから、愛知大や山梨学院大の私的なレベレベルではなく、政府としてなんらかの贖罪をすべきだろう。日本研究中心への援助を大幅に増やすのも良い案だ。

土曜日は大学は休み。楊先生・喬さんの案内で、楊柳青の石家大院へ。隋代に掘られた大運河沿いの旧富豪の邸宅。200室もあって、小劇場も備えている。ひとつの部屋は「知足知不足斎」と名づけられていた。自称「知足人」としては興味深かった。小劇場では、1999年の国際シンポジウムのときに、劇を鑑賞したとのことで、橋本寿朗さんが座った椅子を楊先生が覚えていた。感慨ひとしお。運河わきに鯉をかかえた童子の像。楊柳青地区の名産品である年画にかかれる代表的なモティーフとのこと。年画は、墨木版に筆着色した版画で、正月飾り。

市中心に戻って大きな食品アーケードで昼食。古物市場から古文化街を歩く。竹棒2本に結んだ糸で回す音独楽(おとこま)を楊先生にプレゼントしてもらう。定価は30元、言い値で15元を10元で。タクシーで大悲禅院に。門前には線香や供物の露店が並ぶ。すずめや小鳥を売っていて、放鳥の功徳ができる。ちょうど法要日で、多くの信者が読経し、僧たちの先導で境内を回っていた。老婦人が多い。家族形態の変化とともに、淋しい老人が増えたとは楊先生の観察。門前には物乞いが沢山いた。

専家楼に戻って一服。大相撲中継を見る。NHK第一の衛星放送が入る。一般的に BSを見ることが許されているわけではないらしいが、王先生の自宅でも見られる。以前は、日本研究中心が特例的に  BS受信が許可されているとの話だったから、大分自由化されてきたようだ。

6:00、沈先生が迎えにきてくださってご自宅へ。石艶雲夫人と姪の石可さんがお料理を並べ、沈先生がメインディシュを作るためにエプロンを着ける。麻婆豆腐とシタビラメの煮物でなかなかの腕前。王先生宅より少し狭いが、4Kの綺麗な家。中学生の渓渓ちゃんが塾から帰ってきたのが7時過ぎ。1時半から5時間の授業だったとのこと。1年前よりしっかりしてきて、英語も上達している。将来は植物学者になりたいと話してくれた。可さんは南開大学商学院2年生で、旅行管理を専攻。美人のいとこ同士だ。

住宅は、南開大学の建物だが、西南村とは違って、8棟が囲まれていて門には守衛がいる。棟からの入り口は施錠されていて、外来者用にはインターフォンがある。管理費がかかるとのこと。市価の半分程度で購入、南開大学関係者には転売できるが、第3者には売れない。制限付き所有権だ。

喬さんと臧さんは、大学村にある部屋とは別に市内のマンションを入手した。ご両親と暮らすために広い間取りが必要になったらしい。140平方メートルで43万元、26年賦。年間2万元ほどの支払い。従来の部屋を留学生などに貸して月   800元ほどは収入になるが、ローン返済は大変だ。ちょっと気になってたずねると、喬さんは、今の中国には不可能は無いと自信の発言。

 

3・16


朝は学内の明珠楼で食事。20元というので40元払って高いとぼやいてたら、2人なら20元で良いと20元返してくれた。おかゆと漬物、卵、揚げパン、饅頭だけだから、街の価格に比べると10元はやはり高い。喬さんが来てくれたので、赤ちゃんを見に行きたいといったら臧さんが連れてきてくれた。丸々太った冠華ちゃん、りりしい顔立ちで、11ヶ月だが少し歩く。喬冠華元外交部長にちなむ命名とか。お尻の割れたベビー服がちょっと寒そう。

昼は楊先生夫妻、大学3年の星くん、姪ごさんに河北大学の日本研究所副所長の裴先生と連れの男性で明珠楼で食事。裴先生は今月末から3ヶ月、一橋の寺西さんのところに来るとのこと。星くんも日本に来たいし、姪ごさんも来るとのこと。星くんはアメリカ入国が厳しいので日本の大学院で英語で教育するところを選ぶ。国際商学院院長李維安先生と再会、火曜日に会食を約束。

午後はバスで市内へ(@1元)、古い町を見ようと見当をつけて下車。細い路地に入り、突き当たると右や左と曲がって歩く。レンガで囲まれた区画に数軒の小さな家があるらしい。四合院とは違うようだ。少し広い路地に露店が並ぶ。野菜・肉類が多いが、魚も少しある。大通りに出ると向かいが新築された鼓楼で、新しい古文物街。両側の立派な建物には大きな古物店がいくつも店を開き、真中の大通りには小さな露店が並んでいる。木製家具店をのぞくと2万〜5万元の高級な家具が展示されている。細かい彫りの細工が施された衝立、飾り棚、ベッドなど。通りぬけて大きな電気製品店の前を通ると、若い歌手たちの街頭ショウ。歌にあわせて踊っていた。バスで帰る。

6:00に星君が迎えに来てくれて楊先生宅へ。沈先生とおなじ場所。6階だがエレベータはない。広い部屋の4DKで立派な内装。壁には大きな牡丹の絵。電気マッサージ機がある。管理職の仕事で肩が凝るらしい。星君のパソコンでメールをチェックできた。手作りの料理とご自慢の餃子。餃子には、水に漬けて保存してすっぱくなった白菜を用いる。天津には売っていないので、遼寧出身のおばあさんから入手するとのこと。王先生夫妻も来て会食。姪ごさんは6ヶ月日本語を習っているので少し分かる。星君のいとこは5人いる。しかし、一人っ子政策で都市では「いとこ」はやがて廃語になるだろう。

天津でも、古い町は、次々に取り壊されている。住民は住居の大きさに応じて、新しいアパートの部屋が割り当てられるか、補償金が支払われる。補償金は、15万から20万元くらいだろうとのこと。午前中に見た紅橋区の古い町の住民は貧困階層だ。南開区は文教地域で、中上階層が多い。南開大学の先生たちは上流階級であることをあらためて感じる。楊先生がタクシーで送ってくれる。先生は置いておいた新規購入のバイクで帰宅。

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