韓国旅日記1

 

6・10 

 
 少し遅くなったのでスカイライナーに乗り、9:10、第2ターミナル着。全日空NH937便は、10:15、定時離陸。和食の昼食で、ワインはフリー。アジア路線はまだ楽しめる。2時間ほどで仁川国際空港に着陸。大きくてきれいな空港だ。成田同様、あまり客は多くない。入国の前に携帯品とボディ・チェックがあったのには驚いた。飛行機の窓からの機外撮影や、空港内の撮影も禁止されている。北朝鮮との緊迫した関係がまだ続いているという印象だ。

 まず、両替をする。1円=9.85Wで、札束を持った気分になる。次に、インフォメーションで地図・パンフレットをもらって、3階レストランで冷麺を食べながら、おおよそのソウル地図イメージをつくる。冷麺に鋏がついてきたのでウエイターの顔を見ると、笑って麺を短く切ってくれた。原型はすごく長いらしい。

 ホテル案内で、ソウル中心部の安いホテルを頼む。日本語より英語のほうが通じた。明洞のプリンス・ホテルを予約して、道順までプリントアウトした予約書をくれた。インフォメーションに戻って、板門店ツアを予約する。明日のツアが取れた。

 空港バスでホテルに向かう。仁川島内は緩やかな丘陵の合間に田植えが済んだ棚田状の田んぼや唐辛子畑が続く。本土に渡るあたりは、干拓中なのか、乾きかけた土地に、アッケシソウのような赤い草が生えている。本土に入ると、田は区画整理されて行儀よく並び、栗や果樹の林がある。

 1950年には、アメリカ軍はどのあたりに再上陸したのだろうかと思いながら海岸沿いを走り、やがて漢江を渡る。かなり川幅は広く、江上には遊覧船、モーターボート、ナックルフォーなど、岸では、投げ釣りをする人、河川敷にはネギか唐辛子の畑。

 漢江沿いに走るが、ほどなく道路は渋滞してノロノロ運転になる。左ハンドル車が右側通行。道路標識はほとんどがハングル表記で、漢字・ローマ字はきわめて少ない。この国では、レンタカーで走るのは無理だ。約1時間半かかって、ホテル近くのバス停に着いた。街中の道路表示もハングルで、地図を持っていないと現在地確認不能だ。地下道で道の反対側に渡り、ホテルへ到着。こじんまりしたホテルで、狭いベッドのツインルーム。バスタブは深い。朝食なしで@90000W。

 板門店ツアはロッテ・ホテル3階集合なので場所の確認がてら、明洞散歩に出る。小さなビルが並び、露店も出ている繁華街で、ちょうど昔の池袋の西口のような雰囲気だ。衣料品・靴・かばんなどの店や、韓国料理・和食・ハンバーガーなどの飲食店が並ぶ。

 ロッテ・デパートの地下食品売り場は、キムチ・韓国のり・海産乾物・明太子・韓国味噌などの山。牛肉は安いが、豚肉は日本並。鮮魚も安くはない。イシモチの干物が、10匹で10万円の値段でビックリした。小さいイシモチでも20匹で5000円。美味しいのだろうか。青果物では、すいか・オレンジ・青菜ものは安いが、アボガド・マンゴー・カリフラワー・ブロッコリーは高め。デパート値段だが、まあ全体的には食料品は日本よりかなり安そうだ。

 ロッテ・ホテル3階の旅行社を確認してから、南大門市場へ歩く。ここらの街の建物には趣がない。古風な建物があるので行ってみると、旧韓国銀行本店、つまり、朝鮮銀行本店で、1912年に辰野金吾設計で建てられたものだった。朝鮮戦争で破壊されたが、再建され、今は博物館になっている。かつての日本支配と南北の戦争を象徴する建物だ。

 南大門市場は、衣料品・靴・時計・眼鏡などの小店・露店であふれかえっていた。かばん屋の前を通るとさかんに客引きをして、ローレックスの本物もあるという。らでん店を覗くと小物から高級家具まで並んでいる。いつか、池袋駅の中の物産販売で買った文庫箱は、高い買い物だったことがわかった。

 明洞に戻って蔘鶏湯で夕食。1人前10000Wを二人で堪能。薬膳だが美味しい。オリエンタル社のOBビールもまあまあだ。2階から見下ろす街の風景は日本と変わらない。手をにぎり合う2人連れや学校帰りの制服の女子学生、オシャレをしたOLたち、仕事を終えたサラリーマン。体格も顔立ちも同じようだから、話す言葉を聞かなければ、日本に居るようだ。すこし体形はスリムかもしれない。恵子は、唐辛子のカプサイシン効果だろうと言う。蔘鶏湯に付いてきたキムチや大根漬けの赤いところをふき取って食べながらの発言。

 マクドナルドで@300Wのソフトクリーム、パン屋で@500Wのアンパンを買う。この価格比は、日本とは異なる。マックのソフトクリームは、中国でも安かったが、どうしてなのだろう。国による相対価格構成の差異を、原因分析するのは面白そうだ。

 部屋に帰ったら、恵子の脚がつった。地下道の昇降が効いたようだ。この街には、主要幹線道路に横断歩道はほとんど無く、かなり深い地下道で道を渡らざるを得ない。エスカレーターはまれで、道路を渡るのは大仕事だ。車椅子リフトもきわめて少ない。老人や身障者には冷たい街だ。これほど、車優位の道路設計は見たことがない。地下道のおかげで、地下商店街はよく発達しているが、歩行者はよくも文句をいわずにいるものだ。

 現代自動車の高さんに電話すると、工場見学の段取りを検討中とのお話。
 

 

6・11 


 メールを準備していたら、メモリー不足表示が出て、モバイルギアがハングアップしてしまった。やむなく電池をはずしてリセットしたら、ファイルが全部消えてしまった。古いファイルを貯め込んでいたのがまずかった。昨日の日記を書き直す。

 南山方向に散歩。急な斜面にアパートや飲食店などが並び、上には女子大や小学校がある。朝食用の饅頭などあるかと思ったが、コンビニしかない。小さな韓食堂はあるが、ちょっと入りにくい。部屋に戻って恵子と近くのMarcheで朝食。サンドイッチ・粥・マフィンとヘイゼルナッツコーヒー。

 10:30、板門店ツアバス発車。50人くらいのグループで日本人が20人ほど。英語と日本語2人のガイドが同乗。交互に、南北分断の歴史を、かなり詳しく話す。当然、日本統治時代にもふれるが、英語解説でも批判的用語は用いないでサラリと語る。

 40分くらいで、統一展望台に着く。漢江が臨津江と合流する地点の丘に建てられた大きな施設で、臨津江の向こう側が北朝鮮。今日は靄がかかっているが、晴天なら北朝鮮のショーウインドウ的な村落が見えるとのことで、村を望遠撮影したビデオを見せてくれる。ここの川幅は3.2kmだが、もうすこし上流では最短460mくらいになる。北のスパイが侵入したこともあり、韓国は川岸にフェンスを張って、ところどころに監視所を設けている。脱北者はこないかたずねると、ここから来ると監視兵に射殺されるだろうとのこと。

 臨津江沿いを30分ほど遡って、チェックポイントでパスポート検査を受けてから橋を渡り、10分ほどで、国連軍キャンプに着く。アメリカ軍と韓国軍が駐屯して、共同警備区域Joint Security AreaJSA)の警備と非武装地帯 Demiitarized ZoneDMZ)の防衛にあたっている。DMZは、北緯38度線上にあるのではなく、1953年の停戦協定で定められた軍事境界線 Miitary Demarcation Lineを中心に、南北2kmずつの幅4kmにわたる地帯で、板門店付近から東は38度線より北に、西は38度線より南にあって、不規則にくねくねした帯状になっている。

 キャンプ内の兵員食堂で昼食。サラダ・ソーセージ・牛煮込み・スパゲッティ・マッシュポテト・ピザなどのビュッフェ。兵員食は初めてだ。別棟の記念品売店でピンバッジを買って帽子に付ける。また別棟のブリーフィング室で、パワーポイントを使った説明を受ける。JSAの歴史などだが、満腹の上に薄暗い会場なので2人とも、つい、うとうと。1953年の休戦協定を締結した場所は、現在のJSAのすこし北だったとのこと。

 U.S.Armyのバスに乗り換えてJSAつまり板門店に向かう。北朝鮮側の道路につながる韓国からの道路、国道1号線で、JSA近くには道路をまたぐ形に作られた緊急遮断装置があり、爆破すると道路が閉鎖されて、北の戦車を1時間くらいは食い止められるとのこと。やがて、韓国軍の防衛ラインがあり、2重のフェンスと地雷原が長く伸びている。そこを越えると、いよいよ非武装地帯だ。

 このあたりのDMZには、南北ひとつずつの村が造られていて、田んぼや畑が広がっている。韓国のは自由村と呼ばれ、500人ほどが暮らしている。村民には、税金と兵役免除の特典が与えられ、村外移住は自由だが、新規入村は嫁入り以外は認められていない。もともと農地のあった地域であるし、非武装の理念を示す象徴的存在として特例的に建設した村だ。北朝鮮もモデル村を造った。南北2村は1kmくらいしか離れていないが、もちろん交流は無い。南村に韓国旗をかかげる高い鉄塔があるが、北村には、それをはるかに凌ぐ高い鉄塔が立って北朝鮮旗をなびかせている。

 共同警備区域、板門店には、中央に軍事停戦委員会本会議場になる平屋とそれにならぶ平屋4棟が建つ。それを間に、本会議場を見渡す見学施設として、南には「自由の家」、北には「板門閣」が、豪華さを競い合うように建っている。テレビカメラを備えた監視所も双方に建つ。

 「自由の家」を通り抜けて本会議場に入る。中央のテーブルの真中が軍事境界線で、建物の外部には境界線が30cm幅のコンクリートの帯で示されている。本会議場の見学には、韓国側からの見学には国連軍兵士が、北朝鮮側からの見学には北朝鮮軍兵士が立ち合い、双方が同時にはぶつからない仕組みになっている。見学者がいるときには、建物外部にも兵士が歩哨として立つが、普通は、監視カメラによる相互監視を行うだけ。

 ちょうど、北朝鮮の見学者が来るので、北朝鮮兵士が歩哨に立っていて、室内から2人が見えた。痩せた小柄の兵士だ。室内では撮影が許されているので、兵士の写真も撮る。対峙する国連兵士は、韓国兵とアメリカ兵でサングラスをかけている。隔てるものの無い至近距離の歩哨なので、目線が合ってにらみ合いになるのを避けるために、サングラスが備品として支給されているとの説明。

 次に、「自由の家」屋上の展望台から周囲を見学。たぶん特権的な見学者が帰ったので、北朝鮮兵士が3人、歩調をとりながら引き上げていくのが見える。ここでも、写真がとれる。

 小型戦闘車の先導で、バスは「帰らざる橋」Bridge of No Returnに向かう。途中で、展望台に寄り、北側の村を遠望。右手には、1953年に停戦会議が開かれた建物も見える。車中から、1976年に起きたポプラ事件の発生現場の碑を見る。軍事境界線が明示されず、板門店では北兵士と国連兵士が混じりあって警備にあたっていた時代に、ポプラを切ろうとした北兵士とのトラブルで、国連兵士が死亡する事件が起きた。それ以来、境界線を明示し、双方兵士を隔離するようになったらしい。

 帰らざる橋の手前へ進む。橋の中央が境界線だ。車の中から、見学と撮影をして帰路につく。先導の軍事車両と別れて、キャンプへ戻り、旅行社のバスに乗り換え、1時間10分ほどで、ロッテ・ホテル駐車場に帰着。同行の若い日本娘は、楽しかったと話し合っていたが、当方は、複雑な気持ち。1910年の併合がなかったならば、南北分断も起こらなかったのではないか?1950年の戦争が起こらなかったなら、ドッジ不況で日本経済はどうなっていたのだろう?

 総合案内所へ歩いて資料をもらい、無料インターネットで元にホットメールで連絡、ソネット画面からの返信は日本語入力が効かず、英文で雲くんと睿さんに返事。

 ロッテ・デパ地下で法酒、韓国もち菓子、朝食用パンを購入してから、明洞の焼肉店で、カルビ・タンの夕食。さすが本場の味。缶のマッコリ濁酒は、すこし甘い。帰室して、高さんに電話するがまだ決まらないとのこと。
 

 

6・12


 コンビニでコーヒーとジュースを買ってきて部屋で朝食。電話で仁寺洞にある旅館を予約して、地下鉄を乗り継いで移動。韓国伝統的旅館を経験しようというねらい。安国駅から路地を入ると、北京のフートンのような雰囲気。くねった狭い路地脇に寛勲荘旅館があった。3階建でワンルーム・マンションのような部屋が@35000W。オンドルの部屋もあるようだが、まだ消毒が済んでいないというのでベッドにする。

 景福宮に歩き始めると蒸し暑い。小さな店で扇子を売っていたので買おうとすると、松林堂という筆専門店で、店主が筆を薦める。穂先が狼の耳の毛でできているという筆が書き味がいいので大小2本購入。50000Wで扇子はおまけになった。この扇子、あとで気づくと、made in Chinaの札が張ってあった。中国製品は、韓国にも進出しているようだ。ここ仁寺洞は、骨董通りと呼ばれるように、古美術商、古書店、紙筆文宝店、アート・ギャラリーが並んでいる。

 まず、国立民俗博物館に行く。屋外に古い民家・商店のミニアチュアがある。屋根に塔のある建物が背景の山とよくマッチしているので写真を撮ろうとするとカメラが動かない。電池切れかと売店で電池を買ったが不調。接点が故障したらしい。展示は、先史時代からの生活史をジオラマで示したものが中心でなかなか良くできている。

 キムチのビデオを日本語でも見られる。朝鮮半島の各地で、それぞれ独特なキムチを作っていて、その種類は1000を越えるようだ。ハングルの説明装置があり、母音と子音を組み合わせて表音記号ができることが良くわかった。

 印刷の歴史の展示で、世界最古と説明された木版刷り経典があったが、日本の百万塔ダラニよりも古いのだろうか?金属活字も古くから使われているので驚いた。

 ミュージアム・ショップで、塗り箸とハングルや朝鮮民話を模様にしたネクタイを購入。民話は、クマとトラが、神さまからヨモギとニンニクだけを食べていれば人間にしてやろうといわれたが、結局、クマだけが人間になれたというもので、ネクタイの模様は、クマ・トラ・ヨモギ・ニンニクと神様。ミュージアム・ネクタイは、日本の埴輪模様など、各国それぞれの特徴があって面白い。

 次に景福宮を回る。日本統治期に破壊された建物は復元されて李氏朝鮮建国の李王の宮殿の壮大さを感じさせるが、残っていた最大の木造建築勤政殿は修復工事中だった。雨で濡れる建物・回廊・中庭は、参観者も少なくて、ひときわの風情だった。背景の北岳山も霧が巻いて良かった。

 国立中央博物館は3層建で、2階に先史時代からの歴史的遺物の展示、1階は陶磁器、地階は仏像・金属製品・絵画などとなっている。陶磁器展示は、さすがに充実して、青磁・白磁・粉青沙器の逸品が数多く並ぶ。仏像では、半跏思惟の菩薩像が目玉。広隆寺のミロク像の原型のような国宝83号はじつに素晴らしい。中宮寺の観音像の小型モデルのような金銅仏も見事だ。ガンダーラ仏によく似た砂岩の仏像もある。ショップで絵はがきを購入。1セットが2000Wは、安い。入場料も700Wだから、文化費への配慮は高い水準だ。

 仁寺洞に歩いて部屋に戻ってから、近くで遅い昼食。農家風の内装の店で韓定食を頼むと、キムチ・野菜煮物・イカ煮物・豆腐チゲなど11品のおかずにご飯。これで@6000W。辛いが美味しかった。部屋に帰って昼寝。

 8:00開演の貞洞劇場に地下鉄で行く。民族芸能をアラカルト風に演じる観光客向け劇場で、今日の出し物は、器楽演奏・舞踊・歌唱・太鼓演奏・太鼓踊りなど7演目。パンソリが聞きたかったのだが、派手ではないからレパートリーには入れないのだろうか。楽器では琴が3種類あるのが珍しかった。爪弾き型のほかに、弓で弾く型と棒ではじく型がある。棒はじき型は、6弦くらいで低音、ベースのような役割だ。

 民族衣装の女性たちによるファン・ダンスや花踊りはとてもきれいだが、「よろこび組」を連想してしまう。小太鼓3つを立ち打ちができるように両脇・後に配して、そのなかで曲打ちする女性6組と大太鼓による女性太鼓演奏はなかなか見事。

 終演後、ホールで出演者との記念写真撮影ができる。カメラの機嫌が良くなったので、美女たちとカメラに収まる。電光説明板の文字が、「常設公演」とあるべきところが「常説公演」となっていたのを教えると、感謝してくれてキーホルダーをひとつ進呈してくれた。

 貞洞劇場への道は、本来2車線のところを1車線の一方通行にし、曲線路にしてバンクも設置した人間優先の道で好感が持てる。途中にテントがけに人が寝ていて横断幕が掲げてある。何が書いてあるか分からないが、ハンストのようだ。総合案内所の建物でも、赤はちまきの決起集会を見かけた。やはり、労働運動は活発な国だ。

 帰室してパンで夕食。高さんに電話したがまだ帰宅しておらず、あとで連絡できたが、工場見学は無理とのことであきらめる。法酒をあける。

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