2005年5月 天津旅日記

4月18日 

6時半に出発。チェックインするが、機内持ちこみは5kg以内とのことで、軽いバッグも預ける。ラウンジでコーヒーを飲む。出国口が大混雑なので、早めに手続きをする。10:55発、中国東方航空MU272便に搭乗。北京経由西安行きはほぼ満席。日本人ツアー客も多く、反日デモの影響は見うけられない。昼食は、すきやきご飯、盛りそば、ぜんまい煮物、巻き寿司、栗饅頭。2:30、北京空港安着。事務室の周志国さんが出迎えてくれる。

高速道路は、通行量が増えている。一般道路に降りると、相変わらず過積載のトラック、三輪トラックでにぎやかだ。工場や住宅、ビルの建設も盛んで、中国経済の成長振りがうかがえる。

川沿いの誼園賓館に入る。これまで使ったことのない外賓招待所だ。ひろい応接間付きのツインルーム。周さんが、飲み物と果物を買ってきてくれた。

明珠園のレストランで、楊ご夫妻、米、宋、沈、劉諸先生と雲君で晩餐。反日デモについて、日本国内では、中国の国内問題に対する不満が形を変えて爆発したとの見方が多いと話すと、皆さんそうではないと言う。やはり、日本政府の歴史認識に若者が怒ったと見ている。愛国教育世代の反発かと聞くと、今の若者に対する愛国教育は、楊先生世代に比べると、はるかに穏健だとのこと。穏健な教育を受けても、小泉政権のやりかたには強烈に反発したことになる。李外相の発言が正当なのか?

デモ隊を抑えられなかったことについては、中国の警察は、デモなど経験していないので、抑え方が分からなかったのだとの見解は面白かった。

食後、日本留学から帰った大学院生達が会いに来てくれて、明珠園でお茶を飲む。やはり、反日デモの原因については、日本との理解差が感じられる。

 

4月19日

寝坊したので朝の散歩は省略。明珠園で10元の朝食。朝のテレビは、町村外相との会見を報じるが、反日デモには言及しない。今、何が日中関係の論点なのかは、このテレビを観る限りでは分からない。9時過ぎに日本研究院に行って、レジュメのコピーを頼み、メールを使う。

10時から第1回の講義。日本経済史の研究史を話す。去年、来なかったので、院生はほとんど新しい顔。予定した話の半分くらいで時間切れ。

昼食は、Pang副学長のご招待で、大学の西南のレストランに行く。お忙しい中でのご招待に感謝。日本研究院の皆さんとご一緒に美味を楽しむ。王振鎖先生もお元気。北京ダックと天津ダックの違いの話題は結局結論は出ず、山東料理だということは皆さん一致。

日本研究院に戻って書庫の家永文庫を見る。さすがに歴史関係の書籍収集は見事。ラベル作業が終わった段階で、これから書架へ配置する作業が終わると中国内でトップクラスのコレクションとして活用されるだろう。

雲君の部屋で、ご持参の龍眼、ライチをご馳走になる。出始めた果物とのことで、南国の味わい。夕食を、北京日本学研究センターの修士卒業生で天津外国語学院の先生になっている閻美芳さんと一緒にすることにして、ひとまず、部屋に戻る。途中、キャンパス内の新緑を眺め、雪のように舞う柳じょに中国の春を感じる。楊樹が花を付けて綿毛を飛ばしているのだ。アメリカなら綿の木の季節だろう。

新しく南開大学の副教授に就任された鄭蔚先生が、農業経済で博士になられた方なので、博士課程のテーマに農協の研究を選んだ閻さんの指導をお願いする。帰宅されて、食事も済まされたところ、またお出かけいただき、誼園の部屋でお話をうかがう。閻さんには良い巡り合いになった。

雲君、閻さんと夕食。東北料理の店で、美味しい手羽揚げや鍋を食べる。雲君が海南島から持ってきたドブロクは、日本のそれと似て懐かしい味だ。

日中関係の話では、教科書が1種類しかない中国では、扶桑社の教科書が日本中で教えられると誤解される可能性があるとの指摘は面白い。日本は複数の選択肢がある国であることを理解してもらうことが必要だ。

10時過ぎに帰室。

 

4月20日

6時起床、西南村に散歩。周恩来さんは相変わらずTEDAビルと対峙しているが、両方とも倒れる気配はない。反日ムードを見て、周総理は中ソ対立のなかで対日賠償を放棄したことを悔やんでいるか?河岸に桃やカイドウの花が美しい。

肉挟み餅を2種(煮込み豚叩き1.7元、豚薄焼き1.4元)と豆乳(0.4元)を買って帰る。豆乳は生だったようでキッチンがないから無駄になった。安上がりな朝食だ。結婚をひかえた周さんに2人の生活費はいくらかかるか聞いたら月500元くらいで大丈夫と言っていた。閻さんはそれは無理と言う。どちらが本当か分からないが、食費だけなら500元でやれるのだろう。

9時、Pang先生にお礼訪問。メールとニュースを読む。反日デモの項目を見ようとしたらフリーズしてしまったのは偶然だろう。10時から第1回の続きの講義。今日は、鄭先生と楊先生が要点通訳してくださる。経済史からだけで歴史が見えるのか?近代と現代の区別は?マルクス的方法以外の歴史分析法は?など鋭い質問に答える。

鄭先生と雲君との昼食には、青山学院からの第1回交換留学生Oさん、山梨学院から日本研究院への留学生Y君を誘う。二人とも中国語と中国生活に慣れてきて成果を挙げている様子。Oさんは第1回交換学生なので先輩の経験が蓄積されていないからパイオニア的苦労はしている。奨学金が未整備なので自費負担が多いのも問題だ。折角新設された制度だからこれから充実すべき点が多い。そのなかで元気に経験を積み重ねているOさんは頼もしい。

2:30に迎えの車で喬・雲両君と南開大学濱海学院を訪問。市内から50分くらいのところにある臨海開発区に去年開学した大学。南開大学の副学長だった王文俊先生が院長。王院長から詳しく新しい学院の構成をうかがう。南開大学が教学の責任を持つ私立大学で、株式組織になっている。南開大学が現物出資で大株主、地区も出資、地区の大企業も出資。今は1年生1500人を迎えたばかり。4年で学生数6000人くらいの大学になる。学生の納付する学費で独立採算の経営を目指している。キャンパスの面積は66万平方メートルと広大。建物はこれからどんどん建て増すのだから資金繰りが大変だろう。学費は1万4000元から2万元、国立大学の3−4倍だ。国家が貸し付け奨学金を出すが、親の負担は大きい。でも新入の1年生は屈託がない。庭の大きな池に龍船を浮かべて漕艇練習に興じている。風が強いので、少し心配ではあるが。

このような私立大学が中国全国で300校近くになったとのこと。いずれ格付けが行われるだろう。南開大学の名声を生かした私立大学に成長することを期待しよう。ちなみに、教員は南開大学定年退職者が中心。60〜65歳以上の教授陣だと、メリットとデメリットは複雑だ。皆さん天津市街から、送迎バスで通っている。

帰りは王院長とご一緒で、TEDAの電子機器工場地区を通る。隣接する住居区に帰る人々が歩いている。中国で一番成功した開発区の一端がうかがわれる。少し離れたところに一戸建てが並ぶ豪華な住宅区がある。うかがうと、農民の住居とのことでびっくりした。農地を提供した見かえりだ。ここのように農民を処遇すれば、今流行りの農民暴動など起こらないだろうに。もう少し行くと、金持ちが住む本物の戸建て住宅群があった。

夜は、王院長の招宴。王健宜先生もご一緒で、美味しくも楽しい一時をすごす。六三六杭州飯店で、烏骨鶏のスープから東坡肉まで素晴らしい味。

すこし硬い話題で、日中関係を論じる。楊院長が、ネットで教科書問題などで発言しているが、批判も浴びている。日貨ボイコットについて、楊先生は、歴史の中で、日貨排斥は何回もあったが、長い眼で見ると成功していないと発言した。これがボイコット派から厳しい批判を浴びたようだ。日中関係を論じる時の、楊先生の発言は、影響力が強いだろう。冷静な判断を語る楊先生の見解が、中国の若者に受け入れられて欲しいものだ。

私見も述べる。日中の関係の中で、日本は長い間、中国文化の受容者だった。近代に入って、日本は中国より先進国になって、中国を侵略したが、結局は、抗日戦争では負けた。日中15年戦争の勝者は中国であることを、今の日中両国の若者は理解していない。ここに問題の出発点がある。次に、1949年中国革命は、資本主義日本よりも社会主義中国が歴史の先頭に立つたことを示す。負けた日本は、さらに、社会主義化でも中国に先を越された。この歴史的な先後関係を理解する必要がある。ところが、改革開放で中国が市場経済化し始めたときから、先後関係は、再逆転した。市場経済では日本の方が先進。先を走る日本に、中国人民があせるのは理解できる。このあせりが、反日運動につながるのではないか?歴史認識問題は、近代の数十年を認識するだけではなく、長い日中交流史を認識することによって、はじめて、日中友好の基盤、共通理解につながると思う。

この私見は、ある程度、分かっていただけたようだ。来月、王院長が来日されるときの再会を約束してお別れ。

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