2006年2・3月
天津・北京滞在記

3月6日(月)

 朝散歩はさぼり。甘い食パンで朝食。

 10時前、日本研究院へ。

 最終回のセミナー。バブル崩壊、平成不況とそこからの脱出、小泉政権の功罪を語る。通訳は、博士課程の呉さん。途中で、劉先生が来て、李維安先生からの昼食のお誘いを伝えてくださる。12時半前に締めくくって、質疑は、夜の会食の時にと話す。

 商学院の車で、専家楼に戻る。食堂で待っていてくださった李先生と、再会の握手。一橋博士の楊先生、研究院の劉先生も一緒に昼食。李先生の学院は、白堤路に面した敷地に大きなビルを新築した。地下駐車場を備えて、そこからエレベータで研究個室階へ上がれる最新式の研究教育棟が完成した。教職員百数十名の大きな学院だ。商学院から出発して、国際商学院となり、また、商学院に名称を変更した。

 ここ2週間はヨーロッパ旅行で、暖かいマドリッドから雪のベルリンへと歩いて、帰国されたばかり。コーポレート・ガバナンスの第一人者は忙しい。

 日本商務の監修をよろしくとお願いする。経営学専門の楊先生も、目を通してくださりそうだ。李先生の新編著『公司治理学』をいただいた。全国大学向けのガバナンス基本教科書で、目次を見ると、原理から各論、そしてケーススタディまでバランス良く書かれている。同文の民、どうにか読める。

 ご多忙の中のお招きに感謝して、お別れ。劉先生にお願いして、電気コンロの修理を頼んでいただいた。

 昼寝をしてから、家世界に買い出し。テレビ塔近くの民族資本のスーパーで、1階は名品街、2階が食品、3階が電器家庭用品。売り場面積はかなり広く、通路も幅広にとっていてゆったりした感じ。夜用のワイン、8本を仕入れる。プチ・パン、マンゴー、パイナップル、オレンジに気になっていた人参果などフルーツを買い、さらにオートミールと挽肉。この国のスーパーは、レジ係りが商品を袋に入れながら打ち込んでいく方式なので、時間がかかる。2人で分業するか、日本のように客に商品と袋を渡す方式にすれば、列は短くなる。並んで待つのが平気な国民だからこれでいいが、日本ならすぐ客離れだ。

 帰って、さっそく人参果を試す。西遊記には、赤ん坊が木に成っているのが人参果とあったが、これは細長型薄緑色で4,5cmくらいのつるつるした実だ。果肉は白で中空に蕊か未熟種子がある。ウリの仲間らしい。固くて、酸味があり、美味しいものではない。生食用ではないのかもしれない。昨日、恵子が買ってきたクッキーで口直し。八里台市場に行く途中の菓子屋で、元の推薦する店だけあって、けっこういただける。

 6時から、専家楼食堂で、院生と会食。2年生は修士論文や就職活動に忙しいので、1年生9人と博士課程の呉さん、外国語学院の博士課程の周さん、それに喬さん。天津外語出身の眼の美しいCさんがメニューを選んでくれて歓談。前年度から修士課程は3年から2年になったというのに、まだ、論文テーマを決めていない1年生が多い。輪郭としては、新自由主義、第2次大戦期の日系アメリカ人、戦後日本経済、戦後日中外交、国際関係論など多彩だ。

 日中国交回復の時に、周恩来首相が国民党政権の対日賠償放棄路線を継承することに決断した経緯など、興味深い問題があることを指摘。新自由主義のイデオロギー性、日系アメリカ人の日本占領政策準備過程での役割などを話す。呉さんの通訳を介しての話で、手間がかかる。やはり、中国語を学んだ方がよさそうだ。

 呉さんは、日本の終身雇用制で博論準備中。周さんは、日系婦人のアメリカ家庭における生活を小説から見るというテーマで、すでに英文の博論を完成。見せてもらったが、きれいな文章だ。

 帰室して、EMSで送られてきた兄貴の講演原稿を読む。なかなか難解だ。はやめに通訳の先生に渡しておこう。

 

3月7日(火)

 また散歩をサボる。家世界のプチパンで朝食。まあまあだ。

 兄貴のレジュメを整理して、略歴をつけた1枚物のレジュメをつくり、日本研究院に持っていく。すっかり春めいて、暖かい。ダウンジャケットはやめて、軽いコートにする。日本研究院の庭園池にも水が入り、まさに水温むだ。

 門前で趙先生に会い、兄貴の原稿を見せてよろしくお願いする。周さんにプリントアウトしてもらい、原稿もコピーして、通訳の先生たちに渡してくれるよう頼む。

 小篭包で早めに昼食をとって、12時半のバスを西南門で待つ。沈先生が現れて、これから、TEDAの経済学院で授業とのこと。土曜日の会食にお誘いする。経済学院行きのバスが早く来てお別れ。7分遅れでバスに乗る。

 うとうとしているうちに海浜学院に到着、龔さんが出迎えてくれる。藩先生は会議で不在。菊茶で一服。龔さんが、急須をプレゼントしてくれた。可愛い手紙付。この前の会食時に、干支の話で、日本ではイノシシ年生まれだが、ここではブタ年になってなんだかガッカリだとしゃべった。それで、注ぎ口と蓋の取っ手が愛嬌のあるブタのデザインの急須だ。紫泥茶壺は、匂いを吸収するので、茶種ごとに使い分けるという。釉薬の薄い出来だからだろう。万古焼きでも、使い込むと色が出るといわれるから、もっともだ。特に、中国の茶は、ウーロン、ジャスミンなど香りが強く、緑茶とは異質なものがあるから、使い分けは合理的だ。

 2時から授業。労働法と社会保障の話をする。労働3権の成立史から労働組合法を、工場法から労働基準法を説明。一歩進めれば、経営参加権になるが、日本はドイツと違うことも。セーフティネットの略説。中国の場合は、これから歴史を逆に進むように、労使関係の再編成が課題になることを指摘。質問が来ないので、難しかったかときくと、一斉に「良く分かりました」の返事。疑問の余地のない明快な講義だったのか?

 一休みして、雑談。人参果や南芥の食べ方をたずねると、あまりよく知らないらしい。

1年生も参加するというので、340分頃まで待って講演開始。「日本経済の現況」をテーマに、戦後経済史の大筋を話す。時間の関係で、最後のところは端折って終わる。日本の経済成長のプラスとマイナスはとの質問。モノの豊かさは得られたが、ココロの豊かさを失ったと答えて、これからの中国では、日本の轍を踏まないことを期待すると言っておいた。450分のバスなので、これでお別れ。レジュメにサインを求めるお嬢さんたちには喜んでサービス。

本館前を出発したバスを途中で止めて乗車。学院の回りは、天津検察官学院など、教育関係施設が多いが、まだ、畑地だ。すこし走ると、開発区の電子工業地域となり、広大な敷地に現代電子など合弁企業がならぶ。公園のような工場レイアウト。市内に近づくと、中高層住宅団地。「世界基準」とか「高級」などの看板も目立つ。建設中のビルが無数にある。これでも住宅価格は上昇を続けているのかと、驚くばかりの光景だ。市中に入ると道は渋滞。のろのろ運転で、545分頃正門到着。

ネットのニュースで、清水礼子さんの訃報を知る。大学院時代からの長い知り合いだが、学部長のときに、後任の哲学人事を頼まれて実現できなかったことが悔やまれる。哲学者冬の時代は、まだ続くことだろう。それにしても、70歳は、早すぎだ。富山さんから、清水幾太郎氏の話を聞く。褒貶の幅が大きい人だったようだ。

ハンバーグステーキの夕食。豚肉の味に変わりはない。富山さんが持ってきた簡易浄水器をシャワーの管につけて湯を入れると、水の黄ばんだ感じがなくなる。磁力で、鉄分が凝縮するのか、ちょっと不思議だ。入り心地は、代わり映えするわけではない。

浜海学院の2年生から電話で、講義への感謝とまた話が聞きたい旨の申し入れ。今週で帰ることを告げると、また来年来てくださいと可愛い依頼。約束する。

早寝。

 

3月8日(水)

 散歩は省略。オートミールで朝食。

 恵子が、風呂の異変を発見。湿度維持のため終わり湯は流さないでおくが、浴槽の水位面に黒っぽい汚れが着いている。浄水器のせいか?水分子を細かくする効果があるはずだから、垢を溶かす力が強くなったのかもしれない。人垢にしては色が黒いのは、鉄の分子を凝固させたためか。いずれにしても、なにかの変化をもたらすモノではあるようだ。

 昼食は、恵子が買い出しに行ったキノコのペンネ。午後、富山さんが郵便の荷物を取りに郵便局に出かけた。帰りが遅いので、恵子が探しに出かけたが、見あたらない。事故かと心配して受付のお嬢さんにきくと、荷物は2つ、彼女たちが手伝って運び込んだとのこと。どこへ出かけたかと待つと、帰ってきて、荷物はタクシーで運んだので、乗っていった自転車を取りに行っていたとのこと。やれやれ。

 日本研究院の招宴へ。大きな海鮮料理店で、皆さんと会食。王振鎖先生もお元気に参加。帰国早々の臧さんも。莽先生には2003年の瀋陽大学国際シンポジウムのお礼を申し上げる。女性先生が急に増えて、李卓先生も20年近くの女性1人状態から脱却された。

 宋先生が、今日は、国際婦人の日なのでと、まずは、女性に乾杯。談論風発、趙先生と富山さんは、中国における国学(日本の)研究会の結成で同意。温先生は、地租改正から、日本農業問題にテーマを拡げられた由。ヘアダイが、お似合いだ。鄭先生には、閻さんのご指導に感謝。

 莽先生とは、9月の国際シンポでの再会をお約束。皆さんと再見。宋先生が専家楼まで送ってくださる。歩いて帰られた。

 皆さん仲が良くて、気持ちのいいファカルティ・メンバーだ。全員で、20名ほどだから、ちょうど、まとまりの良い規模かもしれない。経済系は莽先生、歴史系は李先生、政治系は宋先生がまとめ役。初めて訪れたときから見ると、人材が増えた。やがては、学部生を受け入れる段階になるのかもしれない。

 

3月9日(木)

 南西市場に豆乳の買いだし。住宅の前に、花篭が10ほど並び、馬と駕籠の張りぼてが置いてある。黒白のリボンに、名前と贈り主が書いてあるから、お葬式なのだろう。都市部では火葬、田舎では土葬の例が残るようだ。

 同じ住宅の掲示板には、「邪教排除」のスローガンが貼ってある。法輪功への警戒だ。

 昨日富山さんが八里台市場で買った小篭包で朝食。

 午前は、仕事。財務省のサイトから資本輸出のデータをダウンロード。整理すると、2004年の日本の直接投資額では、中国向けが香港向けを加えるとアメリカ向けを抜いて第2位になっている。現地法人数では以前からそうだったが、ついに投資額でも抜いたわけだ。オランダ向けが第1位だが、これは金融保険が多いからで、製造業は、ますます中国傾斜が強くなっている。これだけ中国傾斜が強いのに、外務大臣が台湾を国家だなど発言するのだから、外交痴呆症は深まるばかり。政経分離とたかをくくっていると、いつかひどいことになりそうだ。

 開催中の第10期全国人民代表大会第4回会議では、天津浜海新区が、環渤海湾経済圏の中心として、重点政策対象になったようだから、ますます日本企業は増えるだろう。第11次5カ年計画が始まる。都市と農村の格差対策が重視され、農業税の廃止、補助金増額、義務教育費無料化、農村医療振興などを実施して、「社会主義新農村」を建設するという。3000年の酷税から農民を解放するとは、いささか大袈裟だが、昨年だけで8万件を越える農民紛争が発生する現状では、なんとかしなければならないところにきている。

 昼食は、チャーハン。キノコと卵に、富山さんが買った肉と香菜炒めオカズを入れたので、現地風で再現不能な個性的味になった。

 日銀金融政策決定会合で量的緩和政策の廃止を決めたら、株価は大反発した。IT時代に、株価変動のパターンは変わったようだ。情報に敏感になってまさにイン・タイムで変動する。変動のあるところにこそ投機の面白さがあるのだから、IT時代は、まことにマネーゲーム時代にふさわしい。モノ創りの面白さと、カネ作りの面白さと、どちらを選ぶ人間が多いかによって、国のありかたがちがってくる。上手下手もある。日本はモノ創り上手でカネ作り下手、アメリカはその逆。

 5時、天津百餃園に行く。名物の蟹黄(蟹の内子餡)をはじめ6種と蝦のフリッター、ビール、八宝茶。メニューには5個○元と書いてあるので、5個注文しようとしたが、注文は10個が最低単位。合計60個を頼むことになった。忘れていたが、ここの1個は中身が多かった。口の長い銅製の薬缶で八宝茶に湯を注いでくれる技をながめながら、味のバリエーションを楽しむ。日本にこの手の餃子屋があれば繁盛すると思うが無いのではなかろうか。ニンニク酢、ラー油、刻みニンニク3種の入った調味ケースがあるが、普通の黒酢で食べる。

 大量の残りは打包。7時から富山さんの卒論指導学生が2人、アルバイト先から直行してくるので、彼女たち用を見込んで注文したものでもある。富山さんにご馳走になった。

 元がブックオフで買い集めた100円本のなかから、多少、役立つ本を読む。古書市場も変わったものだ。昔の100円棚ではあり得ない本が、ブックオフに並ぶ。新刊書でも、半額で出して、しばらく売れないと、100円棚に回ってくるとのことで、アットランダムな収書でも、ちょくちょく店を回れば、結構な蔵書ができる。ネット古本屋は必要な時に利用すればいい。アマゾンのユーズドブックも、かなり安い。昔よりも安上がりに勉強できる時代だが、学生諸君には、本を読むヒマがないようだ。インテレクチュアル・ディバイドは、所得格差同様、拡大の一途を辿っている。

 

3月10日(金)

 また、西南市場に豆乳の買いだし。豆乳屋のおばちゃんと馴染みになった。まだ試したことのなかった餅をひとつだけ購入。豚肉の超薄切りを串に刺して鉄板で焼き、目玉焼きといっしょに挟んだ餅で、1個1.9元と高めだ。

 住宅兼用の店に指圧で痩せる新しい減肥看板が出た。5斤100元と書いてある。成功支払なら安いものだ。婦人専用でリバウンド無しともある。いかなる技か、ちょっと興味がある。なにしろ、この国で、?kg増えたことは事実だから。

 牛乳がないので、オートミールを豆乳で食べたが、やや不調和だ。ロングライフ牛乳はどこでも買えるが、生鮮牛乳はカルフールか家世界まで行かないと買えない。新顔の挟み餅は、まあまあの味。

 午前中は、恵子がカルフールに牛乳などの買い出し。留守番していると水の配達が来た。チケットを買って置いて、受付に頼むと配達してくれる仕組みだ。水屋は、沢山で入りしているようだが、一番安のを買っているらしい。あまり美味しくないのは、安いせいか?

 行きは歩き、帰りはタクシーで、恵子無事帰室。カルフールの全粒粉バゲットで昼食。中に白い部分があるのは、前の白パン分が混ざったのか。日本では考えられない雑な作業だ。

 午後、北村を散歩。露天に野菜、果物、自転車部品、焼き餅の店が数店店開き。本屋、美容院、雑貨屋はあるが、市場はない。東門前の八里台市場が近いからだろ。村外れには新聞掲示板があって、6種類くらいの新聞が貼ってある。老人たちが読んでいる。この村は、まだ歩いたことがなかったので、面白かった。

周恩来の「我是愛南開的」の記念碑公園では、膝に載せた愛人と抱き合う学生。周総理は、どのように感じていることだろう。ちなみに、この文字は、1919年日本留学中の中国宛手紙から採られたもの。

 日本侵略記念の鐘を回って帰室。春の気温で、すこし汗ばんだ。日本商務の仕事を仕上げる。

 6時、張さんたちが迎えに来てくれて、天津社会科学院日本研究所の呉さんとタクシーで旧イギリス租界の料理店へ。馬先生の消息をきくと、定年で退職されたとのこと。女性は55歳、男性なら60歳が定年だとは、男女差別も甚だしい。国際婦人の日を祝う国にしては問題だ。

瀟洒な西洋館が並ぶ租界の一角、3階建て1軒の住宅が中国料理店になっている。3階まで上がると、屋根を支える傾斜した梁で天井が窓に向かって低くなる屋根裏部屋。なかなか面白い趣向だ。

 許さんが待っていてくれた。自転車できた張、喬、吉林経済大の王さん、財経大の王さんも到着。日本研究院博士課程同期生で、2003年日本で会っている皆さんだ。再会を喜びながら乾杯。許さんが選んだ料理は、南方系とのことで、家常菜の皿が並ぶ。なかなか美味しい。

 談論風発。中国第5世代のリーダーとして期待していることを告げる。皆が老境に到る頃の中国は、どのような姿なのか。

 許さんに送ってもらって帰室。元からのメールは、明日は川越からの空港バスを使うとのこと。いよいよ、兄貴の初旅だ。

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