経済政策史のケース・スタディ
    
 ―― 松方財政 ―― 

三 和 良 一

 

 

1 はじめに

2 経済政策の史的分析の方法

3 松方財政の課題はなんであったか
 
A 大状況「場」に規定された初期条件・課題
 
B 中状況「場」に規定された初期条件・課題
 
C 小状況「場」に規定された初期条件・課題

4 松方正義はどのように政策を決定したか
 
A 松方の履歴
 
B Arenaの状況
 
C Off-Arenaの状況
  
i) 松方正義の内面
  
ii) 藩閥・その他
 
D 政策の選択
  
i) 初期の政策選択
   
a. 緊縮財政・紙幣整理
   
b. 日本銀行設立・銀本位制採用
  
ii) C時空変化後の政策選択
   
a. 軍事費の支出
    
b. 共同運輸会社の設立
  
iii) 政策実施過程におけるフィード・バック

5 松方財政をどのように評価すべきか
 
A 初期政策の合理性
  
i) 大状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 
  
ii)  中状況「場」に規定された初期条件・課題との関連
  
iii)  小状況「場」に規定された初期条件・課題との関連
 
B C時空変化後の政策対応の合理性
  
i) 壬午事変への対応
  
ii) 大隈の改進党活動への対応
 
C フィード・バック政策の合理性

6 むすび

 

              1 はじめに

 小泉純一郎内閣は、景気政策と構造改革政策の狭間で悪戦苦闘し、結局、無策・無成果に終わりそうである。現時点(20029月)では、結果がどうなるかは未確定であるが、小泉内閣が、財政再建に向けて、緊縮的な財政運営を志していることは確かであり、その限りでは、挫折した橋本龍太郎内閣の緊縮財政を受け継ぐ格好になっている。緊縮財政を掲げた小泉内閣が登場して5カ月ほどのち、イスラム原理主義のアメリカ攻撃が発生し、アメリカはアフガニスタン戦争を開始、小泉首相は、インド洋に自衛隊を出動させた。緊縮財政と戦争、このふたつは、日本の近代史のうえで、奇妙な照応関係を示している。

 日本近代の3つの代表的緊縮財政は、松方財政、井上財政、ドッジ・ラインである。松方財政の時期には朝鮮で壬午事変が起こって、松方は軍事費支出を拡大せざるを得なくなった。井上蔵相は、満州事変の発生で、事実上、緊縮財政の継続を不可能にさせられた。そして、ドッジ・ラインは、安定恐慌をもたらしたが、朝鮮戦争の勃発によって、深刻な結果からは免れることができた。

 小泉内閣の緊縮政策が、アメリカの対テロ戦争でどのような影響を受けるかは、今のところ判らないが、アメリカの第4次大戦(第1次大戦、第2次大戦、対ソ冷戦に次ぐ)が再度のイラク戦争ともなれば、影響は大きいかもしれない。

 緊縮財政は、その時代の経済的状況のなかで、いわば必然的に選択された政策であり、戦争は、それと直接的関係をもたない、いわば偶然的出来事である。この偶然的出来事は、しかしながら、緊縮財政に大きな影響を与えることになった。この3つ(あるいは4つ)の事例は、歴史における必然と偶然の問題を考えるのには恰好なケースといえよう。

 必然・偶然を論じるには、哲学、歴史学はもとより物理学、生物学など自然科学の分野での研究にいたるまでサーベイする必要があるが、ここでは、概括的な理解を作業仮説として使用することにしたい。まず、必然とは、ある事象から因果律的に他の事象が生じる場合を指す用語とし、偶然とは、因果律によってではなく、確率論的に事象が生じる場合を指すものとしよう。たとえば、ABが渋谷駅でばったり出会ったとしょう。Aは講義のために大学に向かう途中に渋谷駅を通ったので、Aが渋谷駅に居たのは、必然的事象である。Bは観劇のために青山劇場に向かう途中であり、Bが渋谷駅に居たのも必然的事象である。しかし、ABが出会ったのは、出会う確率は高かったにせよ、偶然的事象である。

 少し言葉を換えると、事象が生起する場、時空(=時間と空間)、は、因果律が作用する必然時空(かりにD時空=destined time-spaceと呼ぼう)と、確率が作用する偶然時空(C時空=contingent time-space)に分けることが出来る。つまり、Aが渋谷駅にいたのはD時空の事象、Bが渋谷駅にいたのもD時空の事象であり、ABが出会ったのはC時空の事象である。二人は久しぶりに会ったので、喫茶店でおしゃべりをしていたら、Aは講義に遅刻し、Bは開幕に間に合わなくなった。講義に遅刻し、開演に遅れたのは、それぞれ出会い後のD時空の事象であるが、それは、出会いというC時空事象を媒介にして、そこから生じたD時空のなかでの事象である。

 Aが講義に遅刻したという出来事を歴史の事象として分析するとすれば、Bとの出会いという偶然から遡って、渋谷駅に二人が居たことの必然を解明するという手順になる。一般論に置き換えてみると、C時空事象とD時空事象を区分し、そのうえで、C時空を媒介にしたD時空の展開を解析しながら、その総合的把握を試みるのが歴史科学ということになる。つまり、

 @ある事象aを出発点に仮設すると、そこから因果律的にDa時空が展開する。

 A他の事象bを出発点とするDb時空が、Da時空と交錯する事件が起こったとする。

 Bこの交錯事件は、偶然に発生したとすると、C時空での事象と言える。

 Cこの交錯事件発生以後は、そこから因果律的に[DaDb]時空が新たに展開する。

 D[DaDb]時空を遡及すると、Da時空とDb時空は、それぞれD時空ではあるが、

DaDb]時空が、D時空であり得るのは、C時空の交錯事件を媒介にしてである。

これに、すこし蛇足的コメントを加えると、

 Eこのような意味で、D時空は、C時空を介してしか、存在し得ない。

  F時空の本源的な姿は、C時空である。それは、宇宙形成の「ビッグ・バン」の偶然性に明らかである。つまり、「ビッグ・バン」を必然として説明する論理は、存在しないのであるから、始原の状態は、C時空と想定するほかない。

 この蛇足的コメントは哲学に関わりそうであるから、ひとまず脇に置いておいて、歴史科学の作法としては、D時空を、因果律あるいは歴史法則が規定する世界として事象生起の必然性を分析する方法と、C時空を、確率論的な世界として事象生起の偶然性を個性記述的歴史叙述として描き出す方法とがある。マルクスが、いわゆる唯物史観として展開したのは前者であり、伝統的ドイツ歴史学が新カント派の影響下に展開したのが後者である。

 ところで、この二つの方法のいずれが適切であるかを問うことは、意味がない。C時空とD時空は、それぞれに区分はされても、二つの時空は、いわば入子構造あるいはモザイク構造になっているから、唯物史観もドイツ歴史学も、それぞれ歴史を全体として把握したことにはならない。両者を否定することはないが、やはり、それぞれの歴史把握を、総合化する方法が見出されることが望ましい。この新しい方法を探ることが、小論の目的の一つである。

 小論のもうひとつの目的は、経済政策を歴史的に分析する方法を仮説として提示し、その方法によって、ケース・スタディとして、松方財政を分析することである。

 

         2 経済政策の史的分析の方法

 経済政策史の方法については、これまで、いくつか試論を書いてきた[1]。あらためて、現在の私論を略述してみよう。まず、経済過程と経済政策の関係については、次のような点を考えておくことが必要である。

 @ 経済過程の法則性について

 無数の人間の経済行為が集積した結果としての経済過程には、ある種の法則性が現れる。

 経済学が対象とする、変数間の関数関係はその一般例であり、マルクス経済学では、価値法則という仮説も使われる。あるいは、比較制度分析の方法であるpath dependency経路依存性やinertia慣性も経験法則である。

 とはいえ、自然界の法則性とは異なって、人間行為の集積であることから、たとえば、未来予測の可能性は、経済過程に関しては、かなり低くなる。

 これは、人間の経済行為が、経済時空での現象でありながら、実際的には、個々人の経済行為は、政治時空・社会時空・文化時空に関わる利害・価値判断に強く影響されていることにも因る[2]

 また、政治時空を主たる立脚点とする政治家によって担われる経済政策の影響も大きい。

 A 経済政策の恣意性

  経済政策は、後に検討するような過程を経て実施されるが、そこでは、政策主体の恣意性を排除できない。

  つまり、経済過程から見て合理的な政策が常に採用されると云う保証はない。 

 B 経済政策の作用とその限界

 恣意的な経済政策が実施された場合、それが、経済過程から見て合理的でなければ、意図した成果は挙げられず失敗に終わるであろう。しかし、この場合でも、何らかの結果、つまり、状況「場」[3] の変化をもたらすことはあり得る。

 経済過程から見て合理性のある政策は、意図した結果を挙げるであろう。

 つまり、経済政策は、状況「場」によって与えられる初期条件の範囲の中でしか、作用し得ないのであるから、そこには、自ずから限界が設定されていることになる。

  ここで初期条件とは、つぎのような意味で使用する。状況「場」の既往の歴史経過によって、ある時点における経済史的現状、つまり、経済実態・先行政策の作用結果は、確定される。また、その結果として、それ以後の事象の発生・展開の可能性は限定される。

ある時点における経済史的現状(これが経済政策の課題を決定する)と事象発生・展開の可能性(これが経済政策の選択肢と政策効果発生の枠となる)の両者を、初期条件と呼ぶ。さて、以上を念頭に、経済政策史の方法を整理してみよう。まず、政策過程の分析は、次のような3つの局面に分けて行うことができる[4]

    @ 政策提起局面

経済時空に規定された諸階級・階層の経済的利害状況 

非経済時空に規定された諸階級・階層の非経済的利害状況

                 ⇘⇙             

 諸利害意識

                         ⇩

 諸政策提起

   A 政策決定局面        

  政策主体

                            ⇩

  Arena

(表層的機構)

立法府・行政府

諮問会・公聴会選挙・マスコミ

 Off-Arena

(裏面的機構)

個人の内面・

 集団の内部

                 

政策目的の設定

                  

政策手段の選択

   B 政策実施局面      ⇩ 

 政策実施主体

                 

 政策の実施

                 

 Feedbackの過程に

 このチャートの説明は、既発表論文に譲るとして、要するに、枠で囲まれた内容を資料的に確定し、矢印の作用(枠と枠との関係)を確認ないしは推定するのが、政策過程の分析である。

つぎに、政策の評価を行うに際しては、少なくとも、下記の4点を明らかにする作業が必要である。

   @ 状況「場」が規定する初期条件(当初の初期条件とその変化)の確認

   A 政策主体の主観的意図の確認 

      政策主体は、初期条件をどの程度自覚していたか。

      政策主体は、どのように政策目的を設定したか。

      政策主体は、どのように政策手段を選択したか。

   B 政策主体の主観的意図の実現度の確認

   C 経済政策の意図せざる効果・影響の確認

この4点の確認作業によって、当該経済政策の歴史的評価が、可能になると思われる。

 小論は、以上の方法を適応するケース・スタディとして、松方財政を取り上げる。松方財政は、松方正義が大蔵卿・大蔵大臣としておこなった経済政策を指している。松方は、後掲年譜に見るように、1881(明治14)年10月から18928月までと、18953月から8月までと、1896年9月から18981月までと、189811月から190010月までの4つの期間、大蔵卿・大蔵大臣(首相と兼任の時期もある)に任じられているが、通常は、1881年からの足かけ7年の時期が、松方財政の時期と呼ばれている。小論は、この松方財政の前半期、1881年から1885年頃を対象に取り上げて検討する[5]

記述の順序としては、まず、松方財政がどのような歴史的初期条件のなかで展開されたか、つまり、松方財政の課題はなんであったかを確認し、つぎに、松方正義はどのように政策を選択・実行したかを跡づけ、最後に、松方財政の評価を行うこととする。ここで、課題と呼ぶのは、ある時代の経済史的現状からして、実現されるべき歴史的課題である。この歴史的課題は、政策主体が、自覚的にそれを政策課題として認識して、政策を選択・遂行した結果として、実現されることとなる。しかし、課題によっては、政策課題として意識化されないままに、ある政策の意図せざる効果として実現される場合もある。政策の評価に際しては、この意図せざる政策効果も考慮することにしよう。

 

         3 松方財政の課題はなんであったか

 経済政策展開の初期条件、つまり政策が要請され・決定される前提的事情、政策が実施され・効果が発生することを規定する枠は、状況「場」を想定することによって確認できる。この状況「場」を、大状況「場」、中状況「場」、小状況「場」に分ける仮説(これに超状況「場」を加えて、4区分)をかつて提起した[6]ので、この区分によって、松方財政の初期条件を確認しながら、松方がどのような歴史的課題に直面していたかを見ていこう。

 A 大状況「場」に規定された初期条件・課題

大状況「場」とは、歴史を、社会の経済的構成、あるいは社会構成体として分節化した場合の歴史的状況である。明治初期は、封建社会から資本制社会への移行期に当たっているから、歴史的課題は、大きく見ると資本主義体制の確立ということになる。つまり、封建制への逆流は不可能であるし、ロシア革命後の後発国のような社会主義への飛躍もありえないから、資本主義化しか選択肢はない。

ただし、19世紀後半の時期では、植民地・従属国化する可能性もあり得たから、それを回避して国民国家として自立することも、大きな課題であった。 

 あるいは、日本資本主義論争いらいの争点からすると、明治国家は、絶対王政として自立するか、近代国家として自立するかという選択肢があることになる。しかし、絶対王政の概念規定の問題があって、断定は難しいが、筆者としては、19世紀後半に、先進資本主義諸国の外圧のもとでは、近代的国民国家としてしか自立の道はなかったと考えている。

 国民国家であっても、外国あるいは外国資本の影響力を受ける程度には差があり得る。    つまり、外国資本が直接進出してきたり、外国からの資本導入に大きく依存するような従属的資本主義となる可能性があったから、自立的な資本主義を確立することも明治初期の歴史的課題であった。

 資本主義化に際しては、政府の主導性が強く、内発的な民間企業の展開が弱い、いわゆる「上からの道」と、内発的自生的な企業発展がおこなわれる「下からの道」の二つの道があり得ると言われる。もとより、後発国としては、イギリスのような完全な「下からの道」を進むことは不可能であるから、ある程度は「上からの道」を進むことになるが、この二つの道は、二者択一ではない。日本は、いわば、両方の道を進むことになったと言えよう。

 また、日本資本主義の特性として、軍事的性質を重視する見方があるから、明治政府が軍事的資本主義を選ぶか、平和的資本主義を選ぶかという選択肢も考えてみる必要があるかもしれない。時代からすると、帝国主義にさしかかる時で、国民国家として自立するには、それなりの軍備は必要であるから、当然、「強兵」は政策課題になる。ただ、軍備をどの程度の質・量まで持つかは、軍事戦略と財政との関係で、政策的選択問題になる。

B 中状況「場」に規定された初期条件・課題

 中状況「場」は、資本主義の各発展段階における歴史的状況である。明治初期は、後発国日本にとっては、資本主義の形成期であり、資本の原始的蓄積が最大の課題であった。

 資本蓄積に関しては、資金創出の前提条件としての近代的貨幣制度、資金創出・資金流通機構である近代的金融制度、資金集中システムである会社制度の整備が課題となる。また、工業化以前の時期の資本形成は、農業など第1次産業でつくり出される余剰を、第2次・第3次産業に投入することによって進行するから、この社会的余剰を吸収し投資する仕組みが必要となる。資本形成の主体としての企業家・経営者の登場を促進することも課題である。あるいは、資本蓄積の不足を補うための外国資本の導入も、従属化を避けながらの課題である。そして、後発国として、先端技術の移植は、ハードとソフトの技術導入と技術受容主体の形成の両面から促進すべき課題である。

 労働力蓄積に関しては、農民層分解の進行が課題である。農民層分解は、江戸時代を通して徐々に進行していた。これを、第I段階とすると、開港後、綿製品・羊毛製品輸入と生糸輸出の影響によって、急速に進行した農民層分解が第II段階であり、これは、いわば外国の産業資本の作用による原始的蓄積の進展といえる。そして、さらなる第III段階の農民層分解が、明治初期の課題であった。また、農民層から析出された無産者を、近代的労働者として陶冶すること、勤労精神・リテラシー・技能の付与、集団行動・時間厳守・清潔などの慣習形成[7]も、課題であった。

C 小状況「場」に規定された初期条件・課題

小状況「場」は、資本主義のある発展段階のなかに置かれた、それぞれの時期における歴史的状況である。小論が対象とする松方財政の前半の時期(188110月から1885年頃)では、まず、インフレーションの克服が課題であった。西南戦争(1877年)後のインフレーション、紙幣価値の下落と物価上昇は、生産者とくに農民の所得を増加させたが、定額所得者とくに士族の困窮化を招き、さらに、輸入超過の拡大と財政危機をもたらした。インフレーションの原因は、政策主体の主観的認識としては、@銀貨不足による銀貨価値の上昇、または、A紙幣過剰による紙幣価値の下落と、ふた通りに解釈されていた。@の解釈からは、銀貨不足は輸入超過の結果であり、輸入超過は国内工業未発達の結果であるから、国内工業を発達させるための殖産興業政策が必要であるとの判断になる。Aの解釈からは、過剰に発行されている紙幣の整理が必要ということになる。経済政策の選択肢としては、殖産興業vs紙幣整理という2項対立が、積極財政vs緊縮財政、国債発行vs増税+財政制度改革、外資導入vs非導入などの2項対立に直結している。

この小状況「場」では、先行する大隈財政が、松方財政の初期条件を規定しているので、ここで、大隈財政について、簡単に触れておく必要がある。大隈財政は、大隈重信が参議・大蔵卿として主導した財政で、1873(明治6)年10月から188110月までの期間(1880年2月から大蔵卿は佐野常民にかわったが、大隈は参議として影響力を持った)に展開された。大隈財政の基本線は、前にあげた@、つまり殖産興業促進の積極財政であったが、細かく見ると、4つの時期に分けることが出来る。

まず、大隈財政前期(1873年から1877年)は、殖産興業政策が、華々しく進められた積極政策の時期であった。大隈財政中期(1878年から18808月)は、インフレーションが発生した事態に対応して、積極政策の手直しが図られた時期で、起業公債(1250万円)発行(18785月)による殖産興業資金の調達が行われる一方、紙幣償却(18788月)、 洋銀取引所設立(18792)、横浜正金銀行設立(18802月)などの銀貨騰貴抑制政策も着手された。インフレーションがさらに進行するのに対処すべく、大隈は、外債(5000万円)募集による政府紙幣の一挙整理案(18805月)を提案したが、これには閣議内に反対論が多く、結局、勅諭(18806月)によって否定されてしまった。

ここで、大隈も緊縮政策に転換せざるを得なくなり、大隈財政後期(18809月から18816月)がはじまる。大隈は、伊藤博文と連名で、インフレーション抑制のための緊縮財政、増税を提案する「財政更改の議」を提出し(18809月)、工場払い下げ概則(188011)を公布して官業の払い下げによる行財政改革を図り、農商務省を設置(18814)して、殖産興業政策の転換を目指した。とはいえ、大隈は、殖産興業の必要性は依然として強く意識しており、緊縮財政による紙幣整理とは異なった政策選択として、内国債(5000万円)の募集による紙幣整理と中央銀行設立を伊藤と連名で提案した(18817月)。ここからを、大隈財政末期と呼ぼう。緊縮政策転換を余儀なくされていた大隈は、外債募集にかわる内国債募集(外国人の応募も認める)を提案して、いわば、巻き返しを図ったのである。この紙幣整理国債募集案は、閣議で承認されたから、大隈財政は新たな展開を見せるところであったが、いわゆる明治14年政変で大隈は参議を罷免されて政府から排除されてしまった。

この後を受けて、松方財政がはじまる。松方財政が開始されてほどなく、18827月に壬午事変が発生した。壬午事変は、朝鮮宮廷内の大院君(守旧派)と閔妃(開明派)の対立から生じた軍事反乱で、閔妃の兵制改革を支援していた日本人軍事教官が殺害され、日本公使館も襲撃された。大院君が一時政権を握ったが、清国と日本の干渉で、閔妃派が復権した。しかし、新政府は清国依存的な姿勢をとり、日本の勢力は著しく後退してしまった。この出来事は、松方財政からすれば、偶然的なC時空での事象であるが、壬午事変後、対清国政策の観点から軍事力強化が政策課題となり、緊縮政策を取っていた松方は、軍事費支出を増大せざるを得なくなった。つまり、壬午事変の発生は、松方財政の初期条件を変化させたのである。

このほかにも、初期条件の変化が生じている。明治14年の政変で下野した大隈は、立憲改進党を組織して、自由民権運動の一翼を担って政府批判を展開した。大隈の資金源は、岩崎弥太郎とみなされ、その資金源を絶つことが、政略的課題となった。政府は、三菱会社と対抗する海運会社として共同運輸会社の設立を援助する方針を取り、資本金600万円のうちの260万円を出資した。緊縮財政の時期に、260万円の出資は、一括払込ではなかったが、いささか異常である。これも、松方財政としては直接関係のないC時空での出来事によって、初期条件が変化したことを意味している。

以上のような初期条件のもとで、松方財政が実施されることになる。次には、松方がどのように政策を決定したかを見よう。

 

         4 松方正義はどのように政策を決定したか

A 松方の履歴

松方正義は、1835(天保6)年2月に薩摩藩士松方正恭の4男に生まれた。以後の履歴は、次の年譜の通りである。

第1表 松方正義年譜

1835年 2月     薩摩藩士、松方正恭(もとは郷士)の4男に生まれる

1844年        父松方正恭、姻戚者にだまされて借金を負い、貧乏暮らし

1844年        天然痘を病んで、虚弱体質が改善 弓術・馬術・剣術習得 

1862年 3月     薩摩藩近習番(久光の側近) 寺田屋騒動・生麦事件に遭遇

1866年 5月     御船奉行添役軍艦掛 長崎出張 武器購入 数学・測量術を学

1868年 2月     長崎裁判所参謀

1868年 5月     日田県知事 商人から借款調達 殖産興業 贋札事件処理

1868 11     「諸藩札兌換の議」

1869年 3月    「金札通用公布に対する議」 

187010月     民部 税制改革建議

1871年 7月     大蔵 

1871年 8月     租税 地租改正条例(1873年)の立法準備

1874年 1月     租税頭 地租改正実施を担当

1874年 4月〜12月 「海関税改正議」第1、第2、第3

1875年 9月    「通貨流出を防止する建議」

1875 11月     大蔵

1877年 8月     兼仏国博覧会事務副総裁

1878年 2月     フランス渡航  仏大蔵大臣レオン・セーLéon Sayから貨幣論・銀行論、仏議官兼博覧会事務官長カランツから鉄道論を学ぶ

           セーの高弟ボリューPaul Leroy Beaulieuとも交流

            イギリス・ドイツ・オランダ・ベルギー・イタリアを歴訪

1879年 1月     帰国

1880年 2月     大蔵大輔辞任、内務卿就任 殖産興業推進

1880年 6月    「財政管窺概略」 外債発行反対・紙幣整理提案

1881年 9月    「財政議」 紙幣整理・中央銀行設立

1881 10月     参議・大蔵卿

1885 12月〜

     18915月    大蔵大臣(伊藤内閣、黒田内閣、山県内閣)

1891年 5月〜

18928月    首相兼蔵相(第1次松方内閣)

1895年 3月〜8月   大蔵大臣(第2次伊藤内閣、前後は渡辺国武が蔵相)

1896年 9月〜

1898年1月    首相兼蔵相(第2次松方内閣)

189811月〜

190010月   大蔵大臣(第2次山県内閣) 

190010月     元老

190405年      日露戦争期 財政顧問

1903年 7月〜

19175月     枢密顧問官

1917年 5月〜

19229月     内大臣

1922年        公爵 (1884年伯爵、1907年侯爵)

1924年 6月     没 国葬

出典:「侯爵松方正義卿實記」、『公爵松方正義伝』ほか。

 

松方が政策主体として政策を決定する表舞台Arenaと舞台裏Off-Arenaのあり方を見ておこう。

 B Arenaの状況

 政策決定機構の表舞台は、太政官制度で、1868(慶応4)年6月に7官が設置されて以来、変更を加えられながら、188512月の内閣制度開設まで続いた。1871(明治4)年9月からの制度では、太政大臣を筆頭に、左大臣・右大臣・参議の官職が置かれ、内務省など各省を卿(おおむね参議が就任した)が統括する体制となった。最高意志決定機関は、正院で、天皇が臨席し、太政大臣・左右大臣・参議が構成員となった。正院の名称は、1877年1月に廃止されたが、太政官制の意思決定は、3大臣と参議の合議(内閣と呼ばれた)によって行われた。立法府としては、左院が置かれたが、18754月からは元老院に置き換えられた。元老院議官は、華族、勅任官、奏任官、功労者、学識者から勅任された。立法機関とはされたが、議案は勅命で交付され、緊急法令は公布の後に事後検視に付される規定もあって、実質的な立法府としての機能を果たしたわけではなかった。法案起草・審査機関として参事院が、188110月に設置され、初代議長には伊藤博文が就任した。司法は、司法省裁判所が担当していたが、18755月には大審院が設置されて、一応、院長・判事で構成される司法府が分立された。

 188512月からは、太政官制度に代わって内閣制度が開設された。これまで、太政官に属していた宮内省を分離して、内閣外の大臣である宮内大臣が宮内省を主管し、天皇を補佐する内大臣とともに、宮中を構成することとし、政治を担当する府中との区分を明確にした。府中は、総理大臣と各省大臣で構成する内閣を行政府、元老院を立法府、大審院を司法府とする3権分立型の政治機構となった。18884月には、天皇の諮問機関として、議長・副議長・枢密顧問官で構成される枢密院が設置された。そして、帝国憲法発布によって、立法府としての2院制議会が開設され、内閣の権限も明確化された。

 政治機構のほかに、公開されたかたちで、政策が論議される場としては、民間の組織としての各地商業会議所や銀行家の団体として択善会などがある。東京商法会議所、その後身の東京商工会や、大阪商法会議所などは、政府の諮問に対しての答申や独自の建議を通して、政策決定に参加した[8]。また、新聞や雑誌などジャーナリズムも、政策決定に影響を与える役割を果たした。

C Off-Arenaの状況

 i) 松方正義の内面

政策決定の舞台裏、裏面的機構としては、まず、松方正義個人の内面、つまり、価値意識や状況判断能力が問題である。松方は、財政家、経済政策担当者として極めて大きな役割を果たしたが、政治家としての評価は、あまり高くはない[9]。内閣総理大臣としての采配が、あまり上手くなかったことは確かのようである。とはいえ、経済政策の決定者・実行者としては、伊藤博文や山県有朋も一目置くほどの能力を持つ人物であった。松方の経済政策立案能力がどのように培われたか推定してみよう。

 まず、1866年に、御船奉行添役軍艦掛として長崎に出張したときに、幕府の海軍練習所で、数学と測量術を学んだことは、計数処理の学習となった[10]。維新後、18685月から日田県知事に任じられた時には、日田地方の商人から資金(10万両)を調達する使命を果たした。松方は、県治方針として貸借信用の確立と冗費の節約を掲げ、新田開発や別府築港など殖産興業にも力を尽くした。在任中、福岡黒田藩の贋札造りを摘発するなど、通貨問題にも関わった。日田県知事時代には、経済政策についてのオン・ザ・ジョブ・トレーニングを受けたことになる[11]。この時期に、松方は、「諸藩札兌換の議」「金札通用公布に対する議」を政府に建議している(年譜参照)。前者は、「元来貨幣之儀者僻境遐陬ニ至ル迄不一様候テハ不相済事ニ付」藩札の金札との交換を早急に進めるべき事を建議したものであり、後者は、金札の時価通用を政府が認めたことに対しての抗議で、政策方針を簡単に変更してはこれまでの苦心が無駄になると申し立てている[12]。貨幣価値の維持を重視する意識が極めて強いことが注目される。

 187010月から民部省に出仕した松方は、官制改革後は、大蔵省上級官僚となり、地租改正を担当した。日田県知事時代から、租税改革についての提言をおこない、実情に通じていた松方は、地租改正事業では目覚ましい活躍を示した[13]。この間に、松方は、「海関税改正議」を3編、建議し、「通貨流出ヲ防止スルノ建議」も提起している(年譜参照)。前者は、輸入超過の原因である低率関税を是正するために条約改正が急務であることを主張したもので、貿易に関しては自由貿易と保護関税の両説があることを紹介しながら、日本の貿易不均衡に対処するには保護関税が必要であることを説いている[14]。後者は、金銀貨幣が海外に流出する原因を分析したうえで、流出防止対策として、税権の回復・大節倹(輸入品使用を抑制して、国産品を用いること)・関税の金貨納・紙幣減少と準備金増強・外債償却方法の改善(直輸出代金による現地での償還)の5件を提案している[15]。前者も、輸入超過によって正貨が流出することを防止するのがねらいであり、松方は、正貨あるいは金銀の流出を重大問題視している。しかし、これは、重商主義的あるいは重金主義的な発想から来るわけではなく、松方が抱懐するところの貨幣論からの帰結である。

 松方は、「通貨流出ヲ防止スルノ建議」のなかで、「夫レ紙幣ノ用タルヤ其紙面上若干ノ金額ヲ記載スル證書ノ類ニ過ギス、故ニ之ヲ発行スルヤ必ス其需メニ応シテ交換スル所ノ現貨ヲ有セサレハ其用ヲ全フシ難シ。」[16]と述べて、紙幣は金銀銅貨のような「実価」を持つ貨幣との兌換が保証さることによってはじめて通貨たりうるという貨幣論を展開している。そして、政府の金銀貨・金銀塊の保有量を増やし、紙幣の発行額を減らし、紙幣の「現貨」との交換を開始することを提案している。松方のねらいは、金and/or銀本位制の確立であった。この提案は、1875年、つまり西南戦争後のインフレーション以前の時点に行われていることに注目すべきである。

 西南戦争の翌年、18782月に松方は、仏国博覧会事務副総裁としてフランスに渡る。かねてから欧米の実情視察を希望していた松方は、フランスに長く滞在しながら、イギリス・ドイツ・オランダ・ベルギー・イタリアを訪問して、18791月に帰国した。

フランスでは、大蔵大臣レオン・セーLéon Say[17]やセーの高弟リーロイ・ボリューLeroy Beaulieu、仏下院議員兼博覧会事務官長カランツらと交流して、経済に関する知識を深めた。セーから学んだことは、松方にとっては、極めて有用であったらしく、1883年には、松方の推薦で、セーに勲一等旭日大綬章が贈られた。授勲を知らせる手紙の中で、松方は、「抑モ余カ財政ノ事ニ於ケルヤ、決シテ軟貨ヲ以テ目的ヲ定メス、固ヨリ硬貨ノ主義ニ是レ依ル。故ニ敢テ現今ノ形況ニ満足スルノ念慮毫末モ存セス。是レ乃チ閣下カ曽テ余ニ向ッテ懇々教示セラレタルノ大趣旨ニシテ、余カ終始確執シテ動カサル所ナリ。」[18]と書いている。松方は、かねてから硬貨、つまり金貨・銀貨を本位貨幣とする貨幣制度の確立を主張していたが、フランスでセーから、金ないし銀本位制度を採用することの重要性を説かれたのであろう。フランスは、金銀複本位制を採っていたが、1873年に銀貨鋳造を制限し、1876年から銀貨鋳造を停止して金本位制に移行したのであり、セーは、大蔵大臣としてこの貨幣制度確立を指導した人物であった。43歳の松方は、10歳年長のセーから、この経験談を聞き、自らの「硬貨ノ主義」への信念が正しいことを確信し、新しい貨幣制度樹立の政策意志を一層強固なものにしたに違いない。

 帰国した松方が日本で見たのは、西南戦争後の急進するインフレーションであった。しかし、財政は大隈が牛耳っていて、大蔵大輔としては積極的に自説を政策化することはできなかった。18802月には、参議の省卿兼任を原則として廃止する官制改革がおこなわれ、大蔵卿には佐賀藩出身の佐野常民が就任し、松方は伊藤博文が退いたあとの内務卿に就任した。松方は、殖産興業政策に力を入れたが、佐野大蔵卿のうしろで財政を操る大隈の政策に対しては、懸念を強めた。そして、大隈の5000万円外債発行提案が論議されるなかで、18806月には「財政管窺概略」を太政大臣に建議し、外債発行に反対し、紙幣減却など18項目の政策提案をおこなった[19]。松方は、第1に、持論である「現今ノ紙幣ヲ変シテ正金兌換ノ紙幣トナスヲ目途トシテ漸次減却シ尽スノ法」を提案している。そして、正貨収集のための方策、米価騰貴を防ぐ方策と並んで、節倹の精神の涵養をあげて、官省の長が率先して節倹の精神を持つべきことを説いている。かならずしも体系的な提案ではないが、松方は、財政緊縮による紙幣整理と正貨の蓄積、その後の兌換制度・本位貨幣制度の確立を主張したと言えよう。

松方が、なぜ外債発行に反対したのかは、この建議からは判然としない。さかのぼって松方の発言を見ると、18695月に日田県知事として「下問ニ対スルノ議」を上奏したなかで、内外国債の利払い・償還は遅滞なくおこなうべきであると述べたうえで、「併将来内外共国債ハ極テ慎ミ度事ニ候」と言っている[20]。また、18704月の民部官への答申「府県政治ノ議」では、「外国ヨリ借金多カルハ皇国ノ耻ナリ、早ク返済セン事ヲ欲ス」と述べている。そして、18819月の「財政議」では、「知識財力共ニ富饒ノ外人ニ其資本ヲ仰キ之ヲ以テ、内地ニ散布スルトキハ、固ヨリ一時正金ノ流通ヲ得可シト雖トモ其患害ノ百出スルハ言ハスシテ明ラカナリ。」として、外資に依存するとエジプト、トルコあるいはインドのような惨状に陥ると警告している[21]1879年に来日したグラント前アメリカ大統領が、明治天皇に、外債の危険性を忠告したので、大隈の5000万円外債発行計画に明治天皇が危惧を抱いた話は有名であるが、松方も、外債への依存が国民国家としての自立性を損なうとの認識を持っていたようである。

「財政議」は、大隈の5000万円内国債発行による紙幣償却・中央銀行創設案が閣議で決定された18818月の直後に太政大臣に提出されている。そこでは、「紙幣ノ下落ハ正貨ノ足ラサルニ原シ、正貨ノ足ラサルハ物産ノ繁殖セサルニ因ル。物産繁殖セサルハ貨幣運用ノ機軸定マラサルニ帰スルモノタリ。」と、インフレーションの原因論が述べられている。この引用の前半は、産業の未発達から輸入が超過し、正貨が流出して、正貨不足のための紙幣価値下落が起こるという分析になっている。松方は、「紙幣ノ下落ハ其原由スル所独リ増発ノ故ノミニ非ス、政府ノ準備空乏ヲ告クルコト年一年ヨリ多キニ因ル。」とも述べているから、インフレーションは、紙幣過剰と正貨不足の両面から生じたというのが、松方の理解である。この限りでは、大隈のインフレーション原因論と大差はないように見える。しかし、大隈は、産業の未発達を資本不足のためと捉えて、公債発行による勧業資金の供給、積極財政の方向を選んだのにたいして、松方は、産業未発達を「貨幣運用ノ機軸」が確定していないためと捉えて、貨幣制度と銀行制度の確立を最優先の政策課題とした。つまり、近代産業の発達を、不換紙幣によってであれ、資金供給の側面から促進させようというのが、大隈の積極政策であったのに対して、金ないし銀本位制を確立して通貨を安定させないと産業発達は望めないとするのが松方の判断であった。

この点を、別の文書で見ておこう。大蔵卿として緊縮政策を進めるなか、18849月にニューヨーク領事の高橋新吉に宛てた書簡で、松方は、高橋が紙幣下落の原因を輸出入の不均衡に求める見解を提起したことを批判して、「諸物価ノ騰貴工業ノ不振及ヒ輸出入ノ不平等ハ皆不換紙幣増発ノ結果」であると主張している。そして、これは私説ではなく、「古来経済学者カ不換紙幣ノ弊害ヲ痛論スルモノ皆曰ク、不換紙幣ハ人民ヲシテ奢侈ノ心ヲ長シ、投機ノ念ヲ助ケ、怠惰偸安ノ醜風ニ流セシメ、而シテ正貨ヲ駆逐シテ之レカ流通ヲ絶チ、以テ輸出入ノ不平ヲ起サシム云々。」[22] と、経済学者を援用している。つまり、松方は、産業未発達⇒輸入超過⇒正貨流出⇒紙幣下落という因果関係を認めはするが、そもそもの産業未発達は、不換紙幣の増発に原因があると見ているわけである。そこから、不換紙幣増発の根源を絶つために、兌換紙幣発行の中央銀行を設立して、金ないし銀本位制を確立させることが、政策の最重要課題と考えたのである。

このように見ると、松方の価値意識としては、本位貨幣制度(およびそれを支える中央銀行制度)の確立が、すべての中心に置かれていたことが分かる。これに、外資依存の排除を加えると、松方が政策目標を決定する内面的判断基準は、ほぼ理解可能になる。

ii) 藩閥・その他

Off-Arenaとして、次に重要なものは藩閥である。初期明治政府は、内部に対立関係をはらみ、征韓論をめぐって分裂が生じるが、そこでは出身藩による対立意識が強く働いていたわけではない。それは、薩摩出身者である、西郷と大久保が、ついには西南戦争を戦ったことにも示されている。しかし、1877年に木戸孝允が没し、1878年に大久保利通が暗殺された後は、政府における主導権をめぐって、長州出身の伊藤博文・井上馨と肥前出身の大隈の対立が激化した。

 念のため、この対立関係を概観しておこう。対立の争点は、国会開設問題と開拓使官有物払い下げ問題であった。国会開設問題では、大隈が、イギリス型議会制・政党内閣制を念頭に置きながら、国会早期開設を18813月に左大臣有栖川宮熾仁親王に上奏したところ、6月に伊藤がこれを知って、猛反発して両者は正面衝突することとなった。大隈の国会開設主張には、福沢諭吉の影響があり、福沢は、財政難克服策として、国会開設による地租増徴を考えていたといわれる[23]。伊藤と井上馨は、プロシャ型の立憲君主制を目指しながら漸進的に国会開設を実行することを主張し、右大臣岩倉具視と連携して、大隈と対決した。 

 開拓使官有物払い下げ問題は、薩摩閥黒田清隆長官が、開拓使事業(1871年から10年計画、投資総額1400万円)を、薩摩出身の五代友厚らの関西貿易商会に39万円・無利息30年賦で払い下げることを決定したのに対して、大隈と有栖川左大臣が反対した。しかし、黒田らは、18817月に天皇の裁可を受けることに成功した。これに対して、新聞が藩閥と政商の結託と批判して、払い下げ反対の世論が沸騰した。さらに、大隈が、福沢諭吉と組んで薩長藩閥打倒を計画との風評も立ったので、伊藤らは大隈排除の策謀をめぐらすことになった。

 18811011日、明治天皇の東北行幸後、御前会議で、立憲政体に関する方針(明治23年国会開設)が採択され、大隈の参議罷免と開拓使払い下げの中止も決定された。国会開設の勅諭は、翌12日に発せられ、払い下げ中止も発表された。これが、明治14年の政変と呼ばれる、大隈追放クーデタである。大隈免官に抗議して辞職する高官・官僚が相次ぎ、結果的に、薩長藩閥支配が確立することとなった[24]

 Off-Arenaとして、皇族・公家についても目配りが必要である。太政大臣の三条実美は、幕末に尊皇攘夷運動で活躍したが、明治政府では、自己の政策を前面に打ち出すことは少なく、病気もあって調整役的な立場であった。三条より12歳年長の右大臣岩倉は、権謀術数を得意とし、大隈追放に加担したように、政治・政策に対して発言する場合が多かった。財政問題では、1880年に、地租米納論を主張したが、井上・大隈たちの反対で潰されている[25]。左大臣の有栖川宮熾仁親王は、尊皇攘夷派寄りの皇族で、王政復古後、一時は総裁として維新政府のトップに立ち、西南戦争では征討総督となった。18802月から左大臣に就任し、大隈からは政策理解者として信頼される面を示した。のちに、参謀本部長、参謀総長をつとめた。

 明治天皇の役割は、判断が難しい。明治天皇は、君臨すれども統治せずという立場であったわけではない。『明治天皇紀』が描くほど、積極的な政治的発言を行ったとは思われないが、Off-ArenaにおけるActorの一人として位置づけることができよう。大隈の外債5000万円発行案に対して、グラント前アメリカ大統領の忠告を考慮しながら、反対の態度を表明したことは、政策関与の一例である。積極的関与は別として、天皇が、政策の正当性を保証する役割を果たすことはしばしばであった。松方も、前に引用した高橋領事宛の書簡の中で、「去ル十五年ノ歳末両大臣ト共ニ、天皇陛下ニ…大蔵ノ政務ヲ奏上セリ。其奏ノ終リニ附言シテ曰ク、『本年世上既ニ不景気ヲ現ハセリ、明年ニ至ラハ必ス益々甚シキコトアラン。是レ臣ノ預シメ期スル所ニシテ敢テ恠ムニ足ラス。財政ノ実数固ヨリ免カル可カラス。臣敢テ理論ニ拘泥シテ説ヲ作スニ非ス、是レ皆欧米各国ノ経験ニ徴シ併セテ臣カ実歴ニ是レ由ル、翼クハ陛下宸襟ヲ安シ玉ヘ。臣当ニ鞠躬尽スコトアラン云々。』」[26]と述べているように、1882年末に、三条、岩倉両大臣とともに参内して、明治天皇から、緊縮政策への合意を取り付けている。

D 政策の選択

 以上に見たようなArenaOff-Arenaのなかで、松方はActorとして、政策を選択した。選択の内容は、すでに多くの研究によって明らかにされているから、ここでは、政策選択に際しての利害意識の作用を中心に見ることにしよう。

i) 初期の政策選択 

  a. 緊縮財政・紙幣整理

 大蔵卿に就任した松方は、大隈の公債発行計画を中止した。これは、前にふれた18819月の建議「財政議」で主張した松方独自の政策提案を実行に移したものであった。「財政議」を太政大臣に提出した松方は、伊藤を訪ねて、自分の建議が受入れられなければ、内務卿を辞職すると強硬な申し入れをおこなった。これに対して、伊藤は、建議受入の可能性を示唆して、松方の辞職を思いとどまらせたといわれる[27]。すでに大隈との対決を不可避と見極めていた伊藤とすれば、大隈追放後の政策転換を視野に入れて、松方を宥めたと見て良かろう。そして、これによって、伊藤は、松方の提案に同意を与えたとも言える。伊藤は、大隈の公債発行計画に賛同していたのであるから、簡単に松方提案に乗り換えるのは首尾一貫性に欠けているように見える。

 そこで、大隈の公債発行計画が、政府部内での合意を取り付けた経緯を振り返ってみる必要がある。第2節で触れたように、5000万円外債発行案が否定された後、大隈財政は後期に入り、緊縮政策への転換がおこなわれた。この緊縮政策は、伊藤との連名の「財政更改の議」で明示されたもので、ここでは、伊藤は、緊縮政策推進の立場にある。これは、同じ長州出身の井上馨(伊藤より5歳年長、1878年から参議)が、18808月頃に提出した財政意見書[28]の緊縮政策提案の線に、伊藤が同意した結果と見ることができる[29]。ところが、大隈は末期に巻き返しに出て、5000万円公債発行案を通すことに成功した。成功した原因は、室山義正によると、@外債から内国債に変わったこと、A政府内の薩摩閥と軍部の積極派が賛成したこと、B英大使パークスの献策であったことの3つであった[30]。政府部内の形勢を読んで、伊藤も大隈案に賛同したわけで、伊藤自身が、緊縮政策の再転換を積極的に推進したわけではなさそうである。とすれば、大隈追放後も、公債発行案に固執することはなく、むしろ、井上馨の緊縮政策に連なる松方の提案を支持することに、伊藤としては矛盾を感じることはなかったと言えよう。

 こうして、松方は、直談判で、大隈免官後の政権を主導することになる伊藤の同意を得たことになる。大隈案を支持していた薩摩閥は、開拓使払い下げ問題でつまずいた状態であったから、大隈案の継続を強く要求できる立場にはなかったと見て良かろう。財政運営について大隈財政批判の明確な提言を行っていたのは松方だけであったから、大隈免官後に松方が大蔵卿に就任したこと自体が、政府による大隈路線の放棄=松方路線の承認を意味したとも言えよう。    

 松方大蔵卿は、閣議で、5年間は忍耐する必要があるから、経費節約を堅忍すべきこと、騒擾・紛争が起きた場合には「宜シク協力シテ之ヲ鎮静セシメラルヘキ事」を要請し、紙幣整理断行の承認を得た[31]。そのうえで、前に触れたように、天皇の支持を取り付けたのである。大隈は、内国債発行に関連して、中央銀行の設立を構想していたが、これは英公使パークスの提案を受けたもので、財政顧問役にイギリス人「ロベットソン」を雇用することを閣議決定していた[32]。松方は、この財政顧問雇用をキャンセルしたところ、パークスは、井上馨外務卿に抗議してきたので、井上は、松方にパークスへの釈明を求めた。井上とともにパークスを訪ねた松方は、「今日以後正貨を積立て丶紙幣を交換せば、信用を回復すべし、之を正直なる方法と為す」と自己の方針を説き、パークスを説得することに成功した[33]

松方は、関係方面に手を打ちながら、さっそく、独自の紙幣整理に着手した。紙幣の償却は、すでに、大隈時代から開始されており、第2表に見るように、1878年末の政府紙幣現在高1億3942万円に対して、1880年末のそれは12494万円で、この2年間に1448万円減少している。松方時代に入ってからは、1882年末が前年末より954万円減、1883年末が1137万円減と、2年間で2091万円減少した。政府紙幣には、永久負債として発行される第1種紙幣と一時的に発行される第2種紙幣(予備紙幣)の2種類があるが、松方時代には、予備紙幣発行が急減したところに特徴がある。つまり、第1種紙幣は、1878年末の11980万円から1880年末の10841万円へと、2年間で1139万円減少したが、1881年末からの2年間では791万円減で、大隈時代のほうが松方時代よりも減少額は大きい。しかし、予備紙幣は、松方時代に1881年末現在の1300万円が、2年間で全額消却されているので、政府紙幣の合計額は、松方時代の減額が大きくなっているのである。

 【 第2表 紙幣流通量の推移 】

第2表 紙幣流通量の推移           (単位:万円)  
    年末 1種紙幣   増減 予備紙幣   増減 政府紙幣合計   増減  銀行券  増減 紙幣流通量   増減
1876 9333   1182   10515   174   10689  
1877 9384 51 1196 14 10580 65 1335 1161 11915 1226
1878 11980 2596 1962 766 13942 3362 2628 1293 16570 4655
1879 11419 -561 1612 -350 13031 -911 3405 777 16436 -134
1880 10841 -578 1653 41 12494 -537 3443 38 15937 -499
1881 10591 -250 1300 -353 11891 -603 3440 -3 15331 -606
1882 10537 -54 400 -900 10937 -954 3439 -1 14376 -955
1883 9800 -737 0 -400 9800 -1137 3428 -11 13228 -1148
1884 9338 -462 0 0 9338 -462 3102 -326 12440 -788
1885 8835 -503 0 0 8835 -503 3381 279 12216 -224
1886 6780 -2055 0 0 6780 -2055 6853 3472 13633 1417
                   
   注: 銀行券は、1884年末までは国立銀行券、1885年末からは日本銀行券と国立銀行券。  
      出典:東洋経済新報社『明治大正国勢總覧』(同社、1927年)、133頁。      

 予備紙幣は、一時的な歳入不足に対処するために使用されるが、当時の財政制度では、会計年度中に歳入不足が発生するのが常態となっていた。ひとつの原因は、租税納付時点とそれが国庫収入に計上される時点とのあいだにかなりの時差が生ずる出納手続きになっていたためであり、もうひとつの原因は、中心的租税である地租の納入時期が、農産物収穫期に応じて当年後期ないし翌年前期にわたっていたためであった。松方は、国庫金出納手続きを、納税と同時に歳入計上が行われる仕組みに改めて歳入不足の発生を抑えた。地租納入期限は、すでに、大隈時代に改訂されて、1881年度(18817月〜18826月)からは、最終納入期限が、翌年4月末から、翌年2月末に2カ月繰り上げられた。この制度改正に、歳出削減と増税による歳入増加が加わって、一時的な歳入不足の発生が抑制されたので、予備紙幣の発行はゼロにすることができたわけである。

 歳出削減と歳入増加に関しては、すでに大隈後期に決定された方針(酒税増徴、営繕土木費の地方移転、経費節減など)が、1881年度から実施に移されたものであり、1882年度においても、松方は、各省庁経費の3カ年据え置き方針を提示したが[34]、特別に緊縮姿勢を強めたわけではなかった。松方の財政運営は、18827月の壬午事変の発生で変化せざるを得なくなるが、それについては後述することにしよう。

 松方は、紙幣償却を行うと同時に、準備金操作による正貨蓄積を進めた。大隈は、銀貨価格の引き下げのために準備金のうちの銀貨を売却する措置をおこなったので、準備金の構成は、18816月末には、銀貨15.6%、紙幣84.4%となった。松方は、準備金のうちの紙幣を横浜正金銀行を通して輸出荷為替資金として貸し付けて、銀貨で返却させることによって銀貨保有を増加する政策をとった。その結果、18856月末の準備金の構成は、銀貨82.3%、紙幣17.7%となり、銀貨保有額は、18816月末の869万円から、18856月末の3833万円に増加した[35]。これは、松方が、「財政管窺概略」(18806月)でおこなった「外国為替金ヲ以テ年々準備ノ増殖ヲ謀ルヘシ」という提案を実行した措置である[36]。準備金の海外荷為替への運用で正貨準備を拡大させるという方法は、井上馨が、すでに提案していたから[37]、政府内での合意は得やすかったであろう。そして、松方は、正貨(銀貨)準備が「増殖」した段階で、紙幣の正貨兌換を実施することを提案していた。この提案は、日本銀行の設立と兌換銀行券発行のかたちで実現された。

  b. 日本銀行設立・銀本位制採用

 松方は、早くから正貨兌換紙幣制度の樹立を念願としていたが、それを、中央銀行設立と兌換銀行券発行というかたちの構想として提起したのは、18819月の「財政議」である。すでに、1878年の渡欧の際に、レオン・セーから中央銀行制度を学び、セーの示唆に従って、ベルギー国立銀行を研究することとし[38]、同行していた大蔵省の加藤済(帰国後、銀行局長)をブリュッセルに残留させた松方であったが、内務卿就任後の18806月の「財政管窺概略」では、政府紙幣の正貨兌換と「海外為替正金銀行」の設立を提案したにとどまっていた。海外為替正金銀行は、直輸出を促進するために輸出金融を行うことを業務とし、兌換紙幣を発行する権限を与えられるという銀行であった。すでに18802月に設立されていた横浜正金銀行との関連は明確ではないが、兌換銀行券発行銀行とする点が、松方のねらいであった。

 その後、大隈と伊藤の連名で「公債ヲ新募シ及ビ銀行ヲ設立セン事ヲ請フノ議」(18817月)が提出され、5000万円内国債発行と中央銀行の設立が提案された。この中央銀行は、資本金1500万円以上の官民合弁銀行で、国庫金出納を司り、横浜正金銀行を吸収して外国為替取扱業務をおこない、やがては政府紙幣に代わる兌換銀行券を発行するものとされていた[39]

これに対して、松方が提出したのが「財政議」で、そこでは、日本帝国中央銀行の設立が提案されていた。日本帝国中央銀行は、資本金1000万円、官民共立の株式会社で、官金出納部・普通営業部・外国為替部の3部を置き、横浜正金銀行を合併して外国為替取扱で正金を蓄積し、適当な時期に、国立銀行の紙幣発行権を吸収し、政府紙幣発行は停止して、唯一の発券銀行となるという構想であった。新規の設立が困難な場合には、第十五国立銀行の改組による設立も考慮されている。また、同時に、貯蓄銀行(駅逓局貯金を運用する官立銀行)と勧業銀行(資本金500万円の民間銀行で社債発行によって起業資金を供給する)の設立も提案されていた。

 松方の中央銀行案は、大隈の中央銀行案とそれほど大きな違いはない。異なる点は、大隈が、国内債5000万円の発行にからめて、中央銀行設立を構想していたのに対して、松方は、国内債発行を否定した上で、中央銀行を構想しているところである。つまり、大隈は、内国債に外国人が応募する道を開いて、外資の輸入による正貨蓄積を期待し、その外資=正貨を保管・運用する機構として中央銀行を構想し、正貨準備が充実したところで兌換銀行券を発行しようと考えたのである。公債発行を否定した松方は、外資輸入に依らない正貨蓄積を進めて、兌換制度を樹立する道を提起したことになる。すでに、中央銀行設立については、政府内の合意は形成されていたのであるから、松方の路線は、反対論に会うことなく決定されたのである。

このような松方構想が、ややかたちを変えて実現されたのが、188210月の日本銀行(資本金1000万円)設立であり、18855月からの日本銀行兌換銀券の発行、18861月からの政府紙幣の銀貨兌換であった。

 ii) C時空変化後の政策選択

  a. 軍事費の支出

 18827月の朝鮮における壬午事変発生とその後の経緯は、軍備増強のための軍事費支出の拡大を要請することとなった。明治初期の軍備は、陸海軍共に充実した状態からはほど遠かった[40]。海軍では、木造艦が多く、腐朽部分の修理に費用がかかり、新艦建造費を圧迫する有様であった。海軍は、拡張計画を立案して、188110月(政変直後)に川村純義海軍卿が、政府に、軍艦建造と造船所建築を提案した。ところが、この海軍拡張案は、松方の新規事業中止方針によって、否定されてしまったのである。

しかし、壬午事変のあと、清国との対決に備える陸海軍軍備強化は、政府の合意事項となり、松方も、煙草税増徴による軍事費拡張を容認する姿勢を示した。とくに海軍拡張は急務と認められ、海軍当局は、188211月に「軍艦製造ノ議」を提出して、8年間で48隻(毎年6隻)を整備する計画の承認を求めた。松方は、紙幣整理と軍備拡張を両立させる道として、増税による経費調達を選んだが、自由民権運動が激化する中での増税には政治的困難が伴うことが予想された。松方は、勅諭によって地方長官を東京に召集して、増税への協力を要請した。松方は、「兵備ノ拡張ヲ計ラント欲セハ益々財政ノ速ニ救治セサル可ラサルヲ見ル、決シテ此ヲ捨テテ彼ヲ謀ルノ得策ナルヲ見サルナリ」と、紙幣整理を中止して軍備増強を図る考えのないことを強調し、双方を併行させるための増税の必要性を説いた[41]。一方、松方は、増税可能な範囲内で軍事費支出を認める方針を示し、海軍提案の縮小を要請した。結局、国産可能な中小艦の数量を中心に隻数を削減した実行案が策定されたのである。陸軍も、兵員増加と砲台建築を中心とした経費拡張を提案して承認を得た。

こうして、松方は、軍備拡張費を増税可能な範囲に抑制しながら、軍部の要請に応え、自らの紙幣整理方針は堅持したのである。その後、一方では陸海軍の経費増額要求が強くなり、他方では松方デフレの進行とともに増税目(とくに酒税)等の収入が減少したので、増税分では軍事費をまかなうことが難しくなった。そこで、紙幣整理も一段落した1886年には、海軍公債発行による軍備拡張方針が採用されることになる。

 b. 共同運輸会社の設立(18827月)

 壬午事変と同様に、大隈の立憲改進党結成と政府攻撃も、松方財政にとっては、偶然的なC時空変化であったが、松方は、それにも対応せざるを得なくなった。大隈の「金穴」といわれた三菱の事業にたいする干渉は、まず、郵便汽船三菱会社への第三命令書(18822月)の下付というかたちで行われた。第三命令書は、三菱の独占的行為にたいする民間からの批判に対応して、運賃やサービスについての政府規制を強化することを表面的な目的としていたが、同時に、海上輸送以外の事業の禁止、船腹拡大の義務付けなど、三菱の活動を制約する内容を含んでいた。

そして、18827月には、三菱に対抗する海運企業として、共同運輸会社の設立を許可して、翌18831月に同社が開業した。資本金600万円のうち260万円を政府が準備金のなかから出資した。260万円は、1882年度の準備金繰入額523万円、紙幣償却額が330万円であったことと較べると、異常に大きな金額である。松方は、官業払い下げ、民業奨励を主張してきたのであるから、ここで官民共同出資の海運会社を設立することに同意したことは、いささか不自然である。松方が、準備金からの株金支出を太政大臣に申請した文書は、極めて事務的で短いもので、どのような理由で支出が必要かについては一切触れていない[42]。     

松方としては、大隈叩きというC時空変化に対しては、財政運営の原則からではなく、政治力学に従って対応したものと見て良かろう。

iii) 政策実施過程におけるフィード・バック

松方の政策が実施されると、当然ながら、デフレーションが発生し、漸次不況は深刻化した。松方にとっては、不況の到来は予期した事態であり、前に引用したように、明治天皇にその旨を伝えて、全面的な支持を取り付けていた。とはいえ、現実に不況が進行すると、その事態に対応した新たな政策選択、フィード・バックを行うこととなった。

増税と財政緊縮によって生じる財政余剰によって、紙幣償却と準備金繰入(正貨蓄積)を行うという当初の構想は、不況にともなう税収減少と軍事費のみならず通常歳出の漸増によって、継続が困難になってきた。そこで、松方は、公債発行による対応策を新たに採用することとした。

松方は、188312月に、「公債證書発行意見書」を提出して、鉄道公債と金札引換公債の発行を提案した。鉄道公債は、山縣有朋が建議した中山道鉄道(高崎・大垣間)敷設の資金を調達する目的の公債で、松方は、国内交通の不便⇒産業の未発達⇒貿易不均衡⇒紙幣価値下落という現状を打開するために、財政緊縮=紙幣整理を実行している時に当たって、「今鉄道ノ布設ヲ図ラント欲シテ財政ノ困難ヲ感シ、財政ノ困難ヲ感シテ益々鉄道布設ノ今日ニ必要ナルヲ知ル」というジレンマに直面しているが、このジレンマを乗り切るには、公債発行が最善の策であると述べている[43]。さらに、松方は、鉄道公債(額面2000万円)は、発行時に紙幣が国庫に入るが、事業費支出は10年に渡って行われるので、その間、紙幣流通額を縮小させる効果があると指摘している。

金札引換公債発行は、従来も内国人の請求に応じて発行されてきた金札引換公債を、外国人にも応募を認めて、正貨払込とし、その正貨を準備金中の紙幣と交換して紙幣を消却するという構想であった。この公債発行額は1000万円と予定された。

松方は、大隈の内国債5000万円発行案に猛反対して、内務卿就任後ただちにその計画を破棄したのであるから、1883年末の公債3000万円発行提案は、首尾一貫性に欠けている。この態度変更は、不況の深刻化に対応した、フィード・バック的な政策変更と見るしかなかろう。松方は、「公債證書発行意見書」のなかで、紙幣整理=財政緊縮をこのまま進めれば、明治201887)年度には紙幣流通高1億円前後という適度な水準に達するという見通しを示しながら、「明治二十年度ニ至ルハ尚ホ四ケ年ノ日月ヲ待タサルヲ得ス、民力焉ソ能ク此久シキ不景気ニ耐ユルヲ得ンヤ。」と、不況が長引くことへの不安を語っている。そして、紙幣整理を速やかに進めるために、両公債の発行が必要であると主張するわけである。民力が長期不況に耐えられないだろうという発言が、どれほど松方の本音であったかはいささか疑問ではあるが、状況変化に対応した、政策変更ではあろう。状況変化としては、紙幣価値の回復と共に、1881年時には低迷していた公債価格が上昇し、公債発行の環境が好転したという面も、松方の政策変更の合理性を説明するひとつの要因である。

松方は、18839月に「大蔵省證券発行ノ議」も提案している[44]。これは、年度中の歳入不足を、予備紙幣発行で補うことを中止してからは、準備金の紙幣貸付で処理してきたが、それを、大蔵省の短期証券発行でまかなう提案であった。準備金のなかで、正貨分の蓄積が進むに従って、運用可能な紙幣量が減少したという状況変化に対応した、フィード・バック措置と言うことができる。

 

         5 松方財政をどのように評価すべきか

このように展開された松方財政を、どのように評価すべきであろう。小稿では、先に確認した初期条件と歴史的課題に照らして、政策の合理性を評価する方法をとろう。はじめに松方財政の初期の政策を検討してから、C時空変化後の政策と、フィード・バック政策の評価をおこなうこととする。

A 初期政策の合理性

 i) 大状況「場」に規定された初期条件・課題との関連

 大状況「場」からの明治初期の課題は、近代的国民国家・自立的国民経済の確立であり、そのためには封建制から資本制への移行を促進することが経済政策の目標である。松方は、大蔵省租税頭として地租改正事業を主導した。地租改正の経済政策史的分析は小稿の対象範囲外であるから、結果的評価になるが、この地租改正は、封建的土地所有を近代的土地所有に転換させる措置と位置づけることができる[45]。このほかに、身分的支配の廃止、営業の自由・契約の自由の保証など、封建的規制を解体させる措置が、明治初期に進められたから、松方財政が開始される時期には、すでに資本制展開の基本的条件は整備されていたといえる。

 そこで、松方財政の課題は、資本主義化をどのように進め、自立的国民経済を確立するかというところにあった。資本主義化を、国家資本による工業化を主軸に進める構想は、日本では採用されたことはなかったが、民間企業が未発達の間は国家資本が肩代わりをしたり、技術移転の模範役をはたすという、ある種の「上からの道」は、殖産興業政策として展開された。しかし、軍需工業と鉄道・通信を除くと、官業払い下げがおこなわれて、「下からの道」が主軸になる。松方も、「民業ニ関スル事業ハ断然民有ニ帰セシム可キ事」と官業払い下げを支持する見解を表明している[46]。大隈時代に始まる官業払い下げは、財政負担の軽減を直接の契機としているが、基本的な方向として、民間企業に民業を委ねることは資本主義化の王道であり、官業払い下げによる民間企業・企業者・経営者の育成は、後発資本主義国として合理的な政策であった。

 とはいえ、官業払い下げが民間企業の発達に繋がるには、企業活動展開の環境整備が必要である。西南戦争後のインフレーションは、松方も意識していたように、「物価騰貴スレハ商賈金員ヲ借用シテ物品ヲ買ヒ、其騰貴スルヲ待テ之ヲ売却シ、一攫千金ノ利ヲ得ント欲シ、頻ニ投機ヲ奨励シ空商百出、真正ノ生産力ヲ減少シテ大ニ国家財源ヲ乾涸ス。」[47]ということになったから、インフレーションの抑制が、最大の環境整備であった。その意味で、松方財政は、歴史的課題に的確に対応する政策であったと評価できる。

 あるいは、自立的国民経済という観点からすれば、大隈の外債発行案、あるいは外国人も応募できる内国債発行案にたいして、松方が強く反対したことは、妥当であった。明治政府は、鉄道への外資の直接進出を排除し、電信では外国企業による国際海底線の国内延長(長崎・横浜間)を陸上線建設を急ぐことによって阻止したり、鉱山へ投入された外資を買収したりして、外国資本による産業支配を極力排除する方針を採っていた。外資進出がもたらした中国の半植民地化を反面教師とした政策姿勢であり、後発国としては合理的な選択と言える。松方の外資排除姿勢も、ひとまず合理的と評価できる。

 ii) 中状況「場」に規定された初期条件・課題との関連

中状況「場」における歴史的課題は、資本の原始的蓄積である。まず、資本(資金)蓄積のためには、貨幣制度と銀行制度の整備が必要であった。松方は、準備金運用による正貨蓄積を進めたうえで、日本銀行設立と兌換銀行券発行を実現させた。これは、極めて適切な政策選択であったと評価できる。ここで、銀本位制が採られたのは、東アジアにおける銀貨流通に対応して、いわゆる貿易銀(1円銀貨)の国内流通を認める事実上の銀本位制が先行していたためであったが、結果論的には、世界的な銀価格下落のなかで、円安が進むことになり、輸出促進効果が生じた。松方は、金本位制への移行が必要であることは意識していたが[48]、当面、銀本位制を選んだ時に、この銀価格下落の効果まで予想していたわけではなかったと思われる。銀価格は、1884年頃までは弱含みながら比較的安定していたが、1885年から急落傾向を示したのである。この輸出促進効果は、意図せざる政策効果と見て良かろう。

 紙幣整理による紙幣価値回復や会計制度整備による近代財政制度の確立も、資金の吸収と散布の機構を整備した点で、中央銀行設立による銀行制度の確立とならぶ、適切な政策選択と評価できる。この間の官業払い下げは、資本蓄積の担い手となるべき企業家・経営者の創出という課題に応える措置と評価できる。

 つぎに、労働力の蓄積に関してであるが、松方が政策目標としてそれを意識していたとは考えられない。松方は、紙幣整理が、深刻な不況をもたらすことは予期していたが、その結果として、農民層の分解が促進されて、土地を喪失した無産者層が析出されて賃労働者の供給が豊富になるところまでは読んではいなかったのではなかろうか。松方デフレの労働力蓄積効果は、意図せざる政策効果といえよう。

同じように、大隈時代に決定された地租納期変更も、財政上の都合(歳入欠陥発生の回避)を考えての措置であったが、納期繰り上げは、収穫米の売却時期の繰り上げを農民に押し付けることになり、米価の下落をもたらして、農民所得を引き下げ、デフレを一層深刻化させ[49]、結果として農民層分解を促進する効果を発揮した。松方自身は、この地租納期繰り上げは、自分の政策ではないのでその意図ははっきりしないが、「或ハ農民ノ驕奢ヲ制スルノ趣意ニテモ可有之歟。今日世上ノ実況ニ対シ外面ノ観察ヨリ考フレハ又或ハ右様ノ趣意ヨリ出テシモノトノ想像アルハ御尤ノ儀トモ被存、且ツ世上ニモ此論者無キニ非サリシモ右ハ稍権謀ノ嫌ヒ無キ能ハスシテ余ノ固ヨリ取ラサル所ナリ」と述べている[50]。自分としては、188311月に地租納期繰り下げを布告したほどであるから、農民所得の引き下げを意図してやるつもりはないという発言である。これが松方の本意であるかは疑問の余地が残るが、地租納期繰り上げが農民に及ぼした影響は認識していたことが分かる。納期繰り下げは、農民の窮状を救う措置であったから[51]、松方が農民層分解を積極的に促進しようとしたとは言えまい。松方は、18856月には、再度の納期繰り下げを提案している[52]。やはり、意図せざる政策効果として、労働力蓄積は促進されたのである。

 iii) 小状況「場」に規定された初期条件・課題との関連

 小状況「場」では、インフレ抑制・財政再建が課題であった。松方財政は、ほとんど完璧に、この課題に応えたと評価して良かろう。ただ、松方のどのような政策選択が、その課題の処理に際して効果を発揮したかについては、検討の余地がある。

 松方財政が、どのような経路で、インフレーション抑制に効果を発揮したかについては、先述の地租納期繰り上げの影響を重視する室山義正の見解のほかに、景気循環の問題が指摘されている。インフレーション時代の末期が、投機的ブームであったと見て、世界景気の動向もあわせて考えると、188110月の松方登場以前に、すでに景気は反転して不況局面に突入するところであったとの分析を、寺西重郎が提起している[53]。松方デフレが世界的な景気後退期と重なるという指摘は、中村隆英によってもなされている[54]。この観点を導入すると、松方デフレを、彼が実施した政策の効果としてだけ説明することは控えなければならない。そもそも、緊縮政策への転換は、大隈後期から取られ、増税と緊縮の1881(明治14)年度予算も地租納期繰り上げも大隈の政策であるから、デフレーション発生を、単純に松方の政策効果と判定することには無理がある。この点では、後期大隈財政との連続性と景気循環の影響を考慮に入れて、松方財政を過大に評価することは避けておこう。

松方の独自性は、まず、末期大隈財政の5000万円公債発行計画を否定したところに求めることができる。大隈の計画では、新規公債は紙幣で払込まれるが、請求に応じて随時紙幣との交換に応じることになっていた。つまり、公債発行時には紙幣流通量は収縮するが、政府に収納された紙幣はそのまま消却されるのではなく、景気動向に応じて、ふたたび紙幣が流通に再投入される仕組みになっている。公債と紙幣が、国庫と市場を往復して、通貨の必要流通量に応じて、紙幣流通量を、いわば自動的に調整するというのであるから、この公債発行は、紙幣整理という目的に対しての政策手段としては不適合であった。

松方が、これを否定したのは、公債を外国人にも応募させるという点に、先の外債発行案と同様な不安を持ったこともあろう。しかし、それ以上に、松方には、通貨制度=金または銀本位制度+兌換紙幣制度の確立を最優先課題とした場合、公債・紙幣相互交換システムは、いかにも不徹底なもの、あるいは無原則なものと映ったに違いない。中央銀行と兌換銀行券制度が成立した後でなら、公債オペレーションも有効な通貨調整手段になろうが、不換紙幣・不換銀行券が流通するなかで、大隈の公債構想を実施しても、結果は、まさに大隈が密かに期待していたような、積極政策の継続ということにしかならないであろう。松方が、この公債構想を否定したのは、彼の政策目標に照らして、極めて合理的であったと評価できる。つまり、末期大隈財政とは不連続であるところに松方財政の独自性を見ることができる。5000万円公債発行が行われた場合には、デフレ効果は緩慢なものとなった可能性が大きいから、それを否定した松方財政は、強烈なデフレーションを招来したと言って良かろう。

松方の独自性は、財政余剰の処理の仕方にも認められる。増税と緊縮による財政余剰の全額を紙幣消却に当てれば紙幣整理はもっと早く進んだであろうが、そのような政策を取ると、紙幣流通の急な縮減による経済的混乱が発生し、いわばオーバーキルの状態になりかねなかったし、正貨蓄積は進まず、兌換紙幣制度の確立は遅れたに違いない。紙幣消却と準備金運用の両面作戦をとった松方は、極めて優れた経済政策家と評価できる。

 紙幣整理とデフレーション発生、日本銀行設立と兌換銀行券発行までは、松方が意図したように政策が進められ、意図したような政策効果を得られたと言って良かろう。もちろん政策の意図せざる効果も発生する。前に検討した労働力蓄積の促進もそのひとつであり、また、自由民権運動への影響も、おそらく意図せざる効果であった。民権運動は、初期の士族民権から、いわゆる豪農民権へと発展してきたが、松方デフレの打撃を受けて、一方では豪農層が力を弱め、他方では、農民の貧窮化が進んだ結果として、貧農民権と呼ばれるような過激な運動が展開されるに至った。そして、1884年には自由党が解体して民権運動は終期を迎えた。このような政治時空への影響は、松方が意図したものであったであろうか。デフレーションが、インフレーション期に富裕化した豪商農層からの所得移転効果を発揮することについては、むしろ、松方はそれを意図していたという見解もある[55]。松方が、経済的効果として農民の所得削減が進むことを予測していたのは確かであろう。しかし、それが、民権運動を変質させるところまで読み込んでいたとは断定できそうもない。ここでは、民権運動の変質は、あるいは意図していたかもしれない政策効果という程度に見ておこう。                      

B C時空変化後の政策対応の合理性

 i) 壬午事変への対応

 1882年の壬午事変発生後、松方は、軍事費支出と緊縮財政維持の両立を図らなければならなかった。このため、当面は、一方では軍事費の最小化を軍部に要請し、他方では増税によって財源を確保した。軍事費、とくに艦艇整備の縮減を海軍部が受け入れたのは,仮想敵国とした清国の軍備がまだ低水準であり、それへの対抗であれば、相対的に小規模な海軍力でも十分であるという事情があったためである。後の対ロシア戦備の規模に較べると、この時期には、軍事費縮減の余地があったわけである。この点は、松方にとって好都合であったと言えよう。とはいえ、すぐに陸軍そして海軍の軍備強化要求は拡大し、増税ではまかないきれなくなって海軍公債の発行に財源を転換する。デフレの進行と共に、金利は低下し、遊資も発生した時期であったので、公債発行の環境は整っていた。このタイミングも、松方にとっては都合が良かった。こうして、松方は、C時空変化に伴う新たな軍部の要請に応えながら、緊縮政策も持続して所期の目標を達成したと評価できる。

 海軍の当初の軍事費要求は、海外からの軍艦購入とならんで、海軍工廠の拡充による中小艦艇の国内建造能力の拡大も含んでいた。軍事費縮減によって、国内建艦量が減少したために、海軍工廠拡張計画は棚上げになったが、海軍は艦隊拡大にともなう修理作業の増加に対処するために工廠運営の再編成を行い、従来行ってきた民間向けの機械製造を中止することを決定した[56]。これは、官業払い下げを受けて操業を開始した民間機械工業にとっては、機械の受注機会が与えられることを意味したから、良いタイミングであった。また、艦艇の海外発注は、外貨支払いの増加を必要とするが、デフレにともなう内需の縮小で、貿易収支は好転したから、これもタイミングが良かった。軍事費に関しては、一般にその国内景気刺激効果が考えられるが、この時期の軍事費拡大は、外国発注が主となったので、国内景気への影響は僅少であった。

 ii) 大隈の改進党活動への対応

 改進党の資金源枯渇を目的に、三菱の対抗企業としての共同運輸会社設立に260万円もの国家資金を投入したことは、緊縮財政持続の観点からは、極めて不適切と評価せざるを得ない。ただし、海運政策からすると、初期の民間海運企業保護から、競争促進への政策転換が行われ、さらに、1885年には、ふたたびトラスト保護政策へと再転換が行われて、日本郵船会社が誕生するという流れになる。日本の外航航路を担う強大なナショナル・フラッグ海運会社が生まれたのであるから、政治力学から展開された共同運輸会社設立も、結果的には、有効な海運政策と評価できることになる[57]。意図せざる政策効果が生じたわけである。

 C フィード・バック政策の合理性

 デフレーションの深刻化に対応したフィード・バック政策として、松方は、鉄道公債と金札引換公債の発行を提案した。鉄道公債は18843月から2000万円、金札引換無記名公債は18845月から793万円が発行された。松方は、後者に関しては、外国人の応募を期待していたが、実際には応募はほとんどなかった[58]。金札引換公債は、銀貨償還であったが、紙幣整理が進んで打歩(銀紙格差)が縮小傾向を示したので、魅力が薄れて、予定の1000万円までは発行額が伸びなかった。とはいえ、公債発行による紙幣消却の促進構想は、ある程度まで効果を持ったと評価できる。

松方が、当初の方針を変更して、外資の導入に踏み切ったことは、実現はしなかったが、合理的な政策選択といえよう。外資への過度の警戒は、資金調達のひとつの手段を捨てることになるから、その限りでは、資金蓄積が低位な後発国にとって、合理的とはいえないのである。

 

         6 むすび    

以上のように松方財政を評価した場合に、従来の研究史のなかで提起されてきた松方財政の評価とは、どのような異同があるかを見ておこう。まず、松方財政と大隈財政との関連をめぐって、両者を連続的と見るか、断絶していると見るかが論点になっていた。大隈財政が緊縮政策に転換し、その方針を松方財政が引き継ぐ点を強調すると両者は連続しているという評価になる[59]。これに対して、大隈が公債発行による紙幣整理を計画したのを、松方が否定して緊縮財政による紙幣整理を行った点を強調すると、そこには断絶があるとの評価になる[60]。この対立する論点を、大隈財政は積極基調、松方財政は消極基調と見る新しい区分によって、両者は断絶していると評価する観点も神山恒雄が提起している[61]。あるいは、殖産興業政策の面から、直輸出拡大による殖産興業を目指した大隈財政にたいして、松方財政では直輸出による正貨獲得が強化され、産業奨励的側面が切り落とされたたとして、断絶を認める見解も、小風秀雅が提起した[62]。たしかに、大隈財政と松方財政の間には、連続している側面と断絶している側面とがあるから、どちらを重視するかによって評価が異なってくるのは当然である。ただ、どちらかを重視するという見方自体が、どのような意味を持つのかは問題であろう。現実に実行された紙幣整理の発案者の特定だけを問題にするのであれば、伝記作成上の意味が有る程度のことにすぎない。小稿が、状況「場」に規定された初期条件と歴史的課題に照らして政策の評価を行うのは、評価する立脚点、あるいは、評価することの意味を明確にしたかったからである。筆者の立場からすると、この、連続か断絶かという論点は、小状況「場」の課題であったインフレーション抑制に対して、末期大隈財政では合理性に疑問があり、松方財政の方に合理性が認められるという評価になる。

 また、松方財政を、緊縮政策としてよりは、軍備拡張政策の側面から重視する評価がある[63]。これも、松方財政のふたつの側面のいずれを重視するかという論点ではあるが、やはり、論点の出し方に問題を感じる。明治初期の軍備については、大状況「場」から規定される歴史的課題である自立的近代国家樹立を軍事面からどのように担保するかという観点から問題にするのが適当と思われる。やや一般論的には、仮想敵国のあり方に応じて軍備規模が決まるのであり、松方の時期の適正軍備を想定した上で、財政支出の評価をするのが本筋である。小稿では、C時空変化という初期条件の変化に対応した政策として軍事費支出を評価する観点を取ってみた。

 C時空変化ということでは、松方財政の登場自体が、C時空変化である面を持っている。松方が、大隈と対立する自らの政策を提起し、大蔵卿就任後、それを実施した点では、D時空の事象として松方財政は進行したのであるが、大蔵卿に就任したのは、明治14年政変というC時空変化を媒介にしてであった。明治14年政変が、大隈路線と松方路線の対立を主たる争点として発生したのであれば、大蔵卿就任もD時空事象と言えようが、政変は、国会開設問題と開拓使払い下げ問題を争点にして生じたのであるから、ひとまず、財政政策路線から見れば、C時空変化ということになる。つまり、財政路線としては、明治14年政変というC時空変化がなければ、末期大隈財政が継続して、5000万円内国債発行、中央銀行設立が、「ロベットソン」顧問の下で進行したはずである。

 この「イフの歴史」は、洞富雄が興味を感じ[64]、長幸男が、自由民権の統一戦線の結成=絶対主義的専制の改革、異なった資本主義の構造の形成として思い描いたものである[65]。政治構造の変化はさておいて、資本主義の構造が変わった可能性はあるであろうか。状況「場」の規定する歴史的課題は、たしかに、いろいろなかたちで実現されるのであるから、大隈財政が展開されれば、松方財政とは異なったD時空が出現する。しかし、初期条件は、歴史の進行に対して規定的であり、いわば枠を形成するから、程度にも依るが多少のC時空変化が生じても、それほど大きく歴史の流れが変わることはない。大隈といい松方といい、直面する歴史的課題の認識としては、それほど大きな違いはなかったから、両者の路線が、全く異なった結果をもたらすとは考えにくい。

 あり得た相異としては、大隈路線が紙幣整理のデフレ効果を和らげて、原始的蓄積、とくに労働力蓄積の進行を緩慢なものにしたかもしれないという点、外国人財政顧問の招来が外資の輸入を拡大したかもしれないという点であろう。原蓄の緩慢化は、金利水準と労賃水準に影響して、現実には1887年頃から始まった企業勃興を、やや遅らせた可能性はあるかもしれないが、資本主義化の路線にまで及ぶような大きな変化は、起こりそうもない。デフレの緩和は、個人所得減退にブレーキをかけたであろうが、それは、国内市場拡大による内部成長型の資本主義を登場させるほどの規模とはなりえなかったであろう。外資の輸入は、松方もフィード・バック政策として期待したところであるが、「ロベットソン」の活躍でも、従属型資本主義になるほどの外資は入ってこなかったであろうから、資本主義の構造が変わったとは思えない。このように考えると、大隈路線と松方路線の連続・断絶を議論することの意味には、自ずから限界があるといえよう。

 松方時代のC時空変化、壬午事変は、それに対応した軍事費の規模が比較的小さくて済んだので、経済史の上では、後の、井上財政にとっての満州事変、ドッジ・ラインにとっての朝鮮戦争ほどの影響はなかったように思われる。とはいえ、壬午事変以後、清国を仮想敵国とする軍備は拡大の一途を辿ったから、中期的に見れば、このC時空変化は、日清戦争・日露戦争へと繋がる政治的D時空の登場の契機となったのであり、その意味では経済時空への影響は大きかった。

 小稿は、松方財政を取り上げて、経済政策史的分析のケース・スタディとした。歴史における必然と偶然の問題を考える、少しばかりの手がかりは得られたと思うが、まだ、考える素材としては貧弱である。さらなるケース・スタディを積み重ねる必要を感じながら、小稿を終わりとしたい。

【追記】

 大谷登士雄名誉教授記念号に小稿を寄せる感慨は特別である。1944年、空襲から逃れて疎開した隣家に秀才のお兄さんがいることを聞きながら、やんちゃな弟さんと遊んでいた筆者は、19年後、お兄さんと一緒に経済学部助手に採用された。以来、39年間、同僚としての時を過ごし、いま、お別れの小稿を寄せる日を迎えている。C時空の出会いの面白さを噛みしめながら、ただ、大谷名誉教授のご厚誼に感謝するばかりである。長い間、有り難うございました。末永く、お元気にお暮らしください。

 なお、小稿執筆に際しては、松方正義関係文書の利用に関して、大東文化大学の兵頭徹教授に大変お世話いただいた。ここに感謝申し上げたい。

                        (2002927日成稿)



[1]  「経済政策の比較史的研究の方法について」(田島恵児氏と共同執筆、『青山経済論集』第29卷第1号、19776月)、「経済政策史の可能性」(『経済政策と産業』−年報・近代日本研究−13、山川出版社、1991年)、「経済史の可能性」(『青山経済論集』第44卷第3号、199212月)、「近代日本の政策決定機構の変遷」(『経済成長と経済政策』青山学院大学総合研究所経済研究センター研究叢書第1号、19933月)。

[2] 「経済政策史の可能性」参照。

[3] 「経済史の可能性」参照。

[4] 「近代日本の政策決定機構の変遷」参照。

[5]  松方財政の研究蓄積は多い。代表的なものは、次の通りである。

長幸男『日本経済思想史研究』(未来社、1963年)、藤村通『松方正義』(日本経済新聞社、1966年)、中村尚美『大隈財政の研究』(校倉書房、1968年)、原田三喜雄『日本の近代化と経済政策』(東洋経済新報社、1972年)、大島清・加藤俊彦・大内力『人物日本資本主義 1,2』(東京大学出版会、19721974年)、梅村又次・中村隆英編『松方財政と殖産興業政策』(国際連合大学、1983年)、室山義正『近代日本の軍事と財政』(東京大学出版会、1984年)、小風秀雅「大隈財政末期における財政論議の展開」(原朗編『近代日本の経済と政治』山川出版社、1986年)、大石嘉一郎『自由民権と大隈・松方財政』(東京大学出版会、1989年)、神山恒雄『明治経済政策史の研究』(塙書房、1995年)、佐藤昌一郎「『松方財政』と軍拡財政の展開」『商学論集』323号、1964年。

[6] 「経済政策史の可能性」参照。

[7]  成沢光「近代日本の社会秩序」、東京大学社会科学研究所編『現代日本社会 4歴史的前提』東京大学出版会、1991年、所収。

[8] 松方財政期の東京商工会の建議活動に関しては、三和『日本近代の経済政策史的研究』日本経済評論社、2002年、第1章を参照。この時期に関しては、東京商工会のほかに、択善会の活動も見るべきであるが、松方に焦点をあてて論旨を明確にしたかったので、記述を省いた。

[9] 藤村前掲『松方正義』、大島・加藤・大内前掲『人物日本資本主義 1,2』の評価による。

[10] 「侯爵松方正義卿實記 卷三」(藤村通監修『松方正義関係文書』第1卷、大東文化大学東洋研究所、1979年、所収)によると、西洋算術を3人の師から「日夜殆ント寝食ヲ忘レテ刻苦勉励」し、測量術は「自己ノ宿舎ノ屋根ニ上リテ之レカ練習ヲ行」ったという(131頁)。松方の伝記としては、徳富猪一郎『公爵松方正義伝』2卷(公爵松方正義伝記発行所、1935年)があるが、徳富蘇峰は、「侯爵松方正義卿實記」を台本に記述しているので、小稿では、「侯爵松方正義卿實記」によることとする。「侯爵松方正義卿實記」は、松方の口述したものを基礎に、中村徳五郎が、大蔵省編纂『松方伯財政論策集』などによって資料を補充して作成したものとされる(藤村通「解題」、『松方正義関係文書』第1卷所収)。

[11]  日田県知事時代の松方の業績については、兵頭徹「松方財政の源流について−日田県政期における金札・藩札問題を中心として−」『東洋研究』77号、1986年(加筆・修正論文、大東文化大学『経済論集』42号、1986年)参照。

[12] 大蔵省編纂『松方伯財政論策集』(『明治前期財政経済史料集成』第1卷、改造社、1931年)、281-282頁。

[13]  大島・加藤・大内前掲『人物日本資本主義 1』参照。

[14]  前掲『松方伯財政論策集』、357-361363-364頁。

[15]  同上書、282-288頁。

[16]  同上書、286頁。

[17]  セーは、ジャン・バプティスト・セー(J.B.Say 1767年〜1832年)の孫で、1826年に生まれ、1871年から1876年までは下院議員、1876年から1889年までは上院議員、1880年〜1882年は上院議長を務め、1889年から死去する1896年まで下院議員の職にあった。この間、4つの内閣の大蔵大臣(1872年〜73年、1875年〜76年、1876年〜79年、1882年)に就任して、財政運営を担当した。セーは、普仏戦争(1870年〜71年)の際に発行された戦時公債の処理に力を尽くし、後期には、第3共和国の財政再建に努力した。経済学者としての著作も多く、Les finances de la France sous la troisième République1898-1901)が主著であり、Nouveau dictionnaire d’économie politique1891-92)の編纂も行った。松方は、セーの著作を翻訳させて、『理財辞典』として大蔵省から1889年に刊行している。

[18]  「仏国元老院議官烈翁勢ニ與フルノ書」前掲『松方伯財政論策集』、622頁。

[19]  同上書、532-535頁。

[20]  同上書、511-513頁。

[21]  同上書、433-438頁。

[22]  「在紐育府高橋新吉ニ與フルノ書」、同上書、623-628頁。高橋は、神戸税関長であったが、松方が、輸出荷為替事業の監督のために抜擢してニューヨーク領事に任命した(「侯爵松方正義卿實記」卷九、『松方正義関係文書』第二巻、61頁)。

[23]  坂野潤治「『富国』論の政治史的考察」、梅村又次・中村隆英編前掲『松方財政と殖産興業政策』、47-50頁。

[24]  政変による人的配置の変動は、次のようである。18811021日に、松方・大山巌(薩摩)、福岡孝弟・佐々木高行(土佐)を新しく参議に任命し、参議の省卿兼任を復活させて、大蔵卿を、佐野(佐賀)から松方に、内務卿を、松方から山田顕義(長州)に、司法卿を、田中不二麿(尾張)から大木喬任(佐賀)に、農商務卿を、河野敏鎌(土佐、大隈罷免に反対して辞任)から西郷従道(薩摩)に、工部卿を、山尾庸三(長州)から佐々木高行に替えた。この結果、1021日を境として、参議は、10名から12名に増員され、その内訳は、薩摩出身が4名から5名に増加、長州出身は4名で変わらず、土佐出身は、ゼロから2名に増加、そして佐賀出身は2名が1名に減少となった。 

[25]  猪木武徳「地租米納論と財政整理」(梅村・中村編、前掲書)参照。

[26] 前掲『松方伯財政論策集』、625頁。天皇は「松方ノ意見通リ断行セヨ」と発言したとされる(「侯爵松方正義卿實記」卷九、『松方正義関係文書』第二巻、53頁)。

[27]  伊藤は、「予聊か考慮する所あり。卿の辞表は姑く中止されたし」と言ったようである。徳富猪一郎『公爵松方正義伝』乾卷、793-794頁。この記事は、「侯爵松方正義卿實記」にはないが、「海東侯伝記資料 談話筆記第一」(『松方正義関係文書』第十卷所収)にはある(55頁)から、事実であろう。「海東侯伝記資料 談話筆記第一」の史料的意義に関しては、兵頭徹が、「松方の思い入れを生々しく示しているとともに、『松方自身の自画像』に一層近いといえるのである。」と評価している(同上書、解説)。

[28]  井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』内外書籍、1934年、第3巻、159-173頁。なお、この意見書のタイトルは不明である。

[29]  梅村又次は、大隈後期の緊縮政策を、「実質的井上財政」と呼んでいる。「創業期財政政策の発展」、梅村・中村編前掲書、80頁。

[30]  室山前掲『近代日本の軍事と財政』、50頁。

[31] 「侯爵松方正義卿實記」卷九、『松方正義関係文書』第二巻、51頁。

[32]  大隈の中央銀行構想には、大蔵省のお雇いを解任後、帰英していたA.A.シャンドとの書簡交換が影響していた(中村尚美前掲書、196-299頁)。「ロベットソン」起用も、シャンドの推薦かもしれない。「ロベットソン」=「ロベルトソン」は、松方は「前の東洋銀行の支配人」(松方「紙幣整理」、国家学会編『明治憲政経済史論』同会、1919年)としているが、マーカンタイル銀行のD.T.Robertson(総支配人)かJ.M.Robertson(頭取)ではなかろうか。

[33] 「海東侯伝記資料 談話筆記第一」、『松方正義関係文書』第十卷、5860-61頁。

[34] 「各庁経費三ケ年据置ノ議」18824月、前掲『松方伯財政論策集』、479頁。

[35]  安藤良雄編『近代日本経済史要覧』第2版、東京大学出版会、1979年、61頁。

[36]  詳しくは、兵頭徹「松方の紙幣整理期における貿易政策−大蔵卿時代の建議書を中心として−」(『東洋研究』90号、1989年)を参照。

[37]  財政意見書、前掲『世外井上公伝』第3巻、170-171頁。

[38]  松方は、187881314両日に、ベルギー国立銀行を自ら訪れている。兵頭徹「松方正義の滞欧期における経過と分析−谷謹一郎『明治十一年滞欧日記』を中心として−」『東洋研究』73号、1985年。

[39]  『大隈文書』第3巻、472-474頁。

[40]  軍備・軍事費に関する以下の記述は、主として、室山前掲書、第3章、第4章に依る。

[41] 「各地方長官ノ延遼館集会席上ニ於ケル演説」188212月、前掲『松方伯財政論策集』、571-573頁。松方は、イタリーと比較して、日本は一人当たり租税負担が低い事を数値で示して、増税が正当であることを説明している。

[42]  「共同運輸会社株金支出方之議」188211月、前掲『松方伯財政論策集』、339頁。

[43]  「公債證書発行意見書」188312月、前掲『松方伯財政論策集』、315-320頁。

[44] 「大蔵省證券発行ノ議」18839月、前掲『松方伯財政論策集』、314-315頁。

[45]  地租改正の評価をめぐっては対立する議論が続いている。筆者の立場に関しては、『概説日本経済史−近現代』第2版 東京大学出版会、2002年を参照されたい。

[46]  「財政管窺概略」(18806月)の第17目、前掲『松方伯財政論策集』、534-535頁。

[47]  演説「元老院ニ於テ」18855月、前掲『松方伯財政論策集』、590-596頁。

[48]  松方は、当時、「白がねの世とはなれどもいつかまた黄金花さく春を見んとは」と歌ったという。「侯爵松方正義卿實記 卷一八」、『松方正義関係文書』第三卷、45頁。

[49]  室山前掲書、79-86頁。室山は、この地租納入期限繰り上げを、紙幣整理と並ぶデフレ発生要因と見て、「『松方デフレ』といわれる深刻な不況は、主としてこの両者の相乗効果によって招来されたものであった」(86頁)と書いている。

[50]  「在紐育府高橋新吉ニ與フルノ書」18849月、前掲『松方伯財政論策集』、627頁。

[51]  「地税第四納期改定ノ議」(188310月)には、米価が下落している実情で納税者は困っているから、1カ月の納期繰り下げは、「人民ニ於テ蒙ムル所ノ利便ハ実ニ少少ナラス」と書かれている。前掲『松方伯財政論策集』、396頁。

[52]  「地租徴収期限改定之議」18856月太政大臣提出、前掲『松方伯財政論策集』、408-409頁。

[53]  寺西重郎「松方デフレのマクロ経済学的分析」、梅村・中村編、前掲書所収。

[54]  中村隆英「19世紀末日本経済の成長と国際環境」、同上書所収。

[55]  寺西前掲論文、前掲書181-182頁。

[56]  室山前掲書、第4章参照。

[57]  三和前掲『日本近代の経済政策史的研究』、第7章参照。

[58]  神山前掲『明治経済政策史の研究』、23頁。

[59]  大石前掲『自由民権と大隈・松方財政』。

[60]  室山前掲『近代日本の軍事と財政』。

[61]  神山前掲『明治経済政策史の研究』。

[62]  小風前掲「大隈財政末期における財政論議の展開」。

[63]  佐藤前掲「『松方財政』と軍拡財政の展開」。

[64]  洞富雄「洋銀相場と内国通貨(二)」『大隈研究』第5輯、215頁。

[65]  長前掲『日本経済思想史研究』117頁。